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『キャラの思考法』という本を本屋で見つけて、ちょっと面白そうだったのだが、ハードカバーは高いので同じ著者の新書であるこの『僕たちのゲーム史』の方を買って読み始めた。
この本は、ゲーム(いわゆるコンピューターゲームを指す)が持つ「ボタンを押すと反応する」という(原則的に)不変な要素と、「物語をどう扱うか」という常に変化し続けてきた部分に着目しながらゲームの歴史を振り返る本である……というような通り一遍の説明は他の書評ブログなどにも書かれているのでそちらを参照していただきたい。丸投げ。
ゲームと「物語」には密接な関係がある、ということは少しでもゲームをやったことがある人なら納得できることだろう。
本書の帯に「スーパーマリオはアクションゲームではなかった!」と書かれているが、初代『スーパーマリオブラザーズ』の説明書には「このゲームは、右方向スクロールのファンタスティックアドベンチャーゲームです」と書いてある。アドベンチャー。つまり冒険物語である。
しかし「テトリス」のようにストーリーが無いゲームもあるじゃないか、と思う人もいるかもしれない。それはその通りである。しかしここで言う「物語」とは、「(勇者が魔王を倒す、というような)ゲームのストーリー」のみを指すのではなく、「ゲームを取り巻く言説・行動」をも含んでいる。
その例として本書では「あるゲーム雑誌において、『ストリートファイターII』紹介記事としてライター同士の対戦会を「小説」として掲載した」という出来事を、「ゲームのプレイヤーを物語化した事例」として挙げている。
そして本書では「ゲームのストーリー」と「ゲームを取り巻く言説・行動」という、似て非なる2つのものを、区別してはいるものの、あえて違いを強調するわけではなく、いわば並列に扱っている、ように見える。僕の読みが間違っていなければ。
もし僕が本を書くとしたら、この二つに別々の言葉を当てて厳密に区別して使うと思うんだけど、筆者はどちらも同じ「物語」という言葉を使って説明している場面が多い。
これは筆者の怠惰や手落ちというよりも、なんらかの意図をこめてのことなのではないかと感じられる。「物語評論家」という筆者の肩書を見ると特に。
別の箇所で筆者は、「ゲームの領域を広げようとした試みは成功し、『これは単なるゲームではなく○○(芸術とか映画とか)だ』というような試みは失敗してきた」ということを指摘している。
このことから、「ゲームにはストーリーが必要だ(必要ない)」というような、ゲームの領域を狭めるような議論を避けるために、あえて両者を区別しなかったのかもしれない。
歴史、というものも、一種の物語である。個々の出来事は事実である(あらねばならない)が、それをどう描き、どう並べ、どうつなぎ合わせるかは、製作者の恣意次第だ。
筆者が前書きで、本書に登場「しない」ゲームのタイトルを羅列しているのは、歴史というものを描く上で避けられない物語性・恣意性を明示するためだろう。もちろん、過去の全てのゲームを網羅して歴史を書くことなど不可能だ、という現実問題もあるが。
そして本書が、ゲーム製作者の過去のインタビュー記事などを多く引用しているのも、そういった恣意性(「思い出補正」とか)をなるべく排除するためだろう。
ゲームの歴史について書かれた本、というと、「ゲームとはなにか」という根源的な問いについての答えが書かれているのではないかと期待してしまう自分がどこかにいる。
多くの人が「人生とはなにか」という問いを抱くのと同じように、多くのゲーマーは「ゲームとはなにか」という問いを抱くものなんじゃないかと思う。そしてその答えを出すことは大変に難しい。人生についてのそれと同じように。
とかく人は本質を求めたがる。そしてそれゆえに事実を見誤る。
そのような過ちを避けるために、本書では「○○の影響を受けて✕✕が産まれた」というような過度な結びつけを控えめにし、それぞれのゲームの特徴とその後の影響を俯瞰的に描いており、バランス感覚に優れていると感じる。
その分「なるほど!」と感心するような部分があまり無かったが、世の中の本がみんなそんな本ばかりになっても困るし、これはこれでちょうどいい。むしろベター。