現代日本において、「キャラ」という概念がどのような様態を示しているかを論じた本、でいいのかな。
- 作者: さやわか
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2015/12/21
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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「キャラ」という概念は、今やすっかり普遍的なものになっている。日常の会話でも「それは自分のキャラじゃない」とか「〇〇さんとキャラが被ってる」とか言うし、アニメやマンガには当然のように「ツンデレキャラ」が登場するし、新たなキャラのお笑い芸人が日々入れ替わり立ち替わりでテレビに登場している。
しかしそれほど普及しているにも関わらず、「キャラ」という概念に関する議論はかなり手前の段階で止まってしまっている、と筆者は言う。
キャラ論、と言えば僕にとっては斎藤環なのだが(実際、筆者と斎藤環は本書刊行後に対談を行っている)、世間的には伊藤剛「テヅカ・イズ・デッド」がその端緒とされているらしい。今度読んでおこうかな。新書化したらしいし。でもこういう微妙に古い本って読むの大変なんだよね。話が逸れた。
テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ (星海社新書)
- 作者: 伊藤剛
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2014/09/26
- メディア: 新書
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キャラ概念は変化している。しかしその変化は未だ十分に言語化されていない。ならばオレがやってやろう、というのが本書の意図である。いや、全然そんな横柄な態度じゃないけどね。じゃあなんで書いた。
実際に読んでみると、確かにキャラという概念が時代とともに変化してきていることがわかる。しかしそれが筆者が言うような、例えば「キャラが時間を持つ」という形の変化なのかどうか、正直に言うと自分にはうまく理解できたとはいえない。
全体的に「言われてみればそうなのかもしれないけど、本当にそうなんだろうか?」と思うことが多かった。しかし話としては面白いのでどんどん読んでしまった。
キャラの流動性。インターネット的な双方向性。虚構であることを知りつつ、それでもキャラを演じるという態度。そういったあたりがキーワードなのだろう。しかしそんな単純な話でもなさそうな奥深さを感じる。
なぜ奥深さを感じるかと言えば、例えば少年サンデーを取り扱った章は、極めてエッセイ的な述懐から始まっておきながら、さりげなく少年サンデーの編集部の歴史という事実関係に触れ、さらに原作:矢島正雄、画:尾瀬あきら『リュウ』という現代から見ればややマイナーな漫画を取り上げ、最後には少年サンデーの「少年サンデーらしさ」は記述困難である、という結論で終わる。
章を通して「なんだかよくわからない」読後感があるのだが、その「なんだかよくわからない」感は「少年サンデーらしさ」に通じているように思えてくる。もしこれが学術論文のような体裁だとしたら不要であるはずの、文章的なテクニックが用いられているのである。
評論、というと、理屈っぽくて厳密である方がエラいと思われがちだが、後の世に残るような「評論の良さ」のようなものは、こういった曖昧なこと、言葉にしにくいことを言葉にする企みの中に宿るのではないかと思う。多分。
本書のようなオタク論の本を僕は好んで読むわけだが、どうも近年は下火ぎみらしい。ということについて、上記の対談でも触れられていたそうだ。
そもそも近年のサブカルチャー的な事象の一部を束ねて「オタク的」と呼ぶこと自体が困難なのかもしれない。
その一方で、広い意味での文化、というか、あるいはポップカルチャー、と呼ぶべきなのか、そんなような領域では、まだまだ語られるべき事象が多くあり、本書の筆者はその語り手としての役割を積極的に担おうとしており、一読者としてはとても好ましいことだと思う。