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「妹を救う物語」としての『鬼滅の刃』と『ダンジョン飯』の比較

ダンジョン飯 10巻 (HARTA COMIX)

ダンジョン飯 10巻 (HARTA COMIX)

 『ダンジョン飯』10巻を読む。キメラになった妹を救う物語がいよいよ佳境に入っているわけだが、よく考えたらコレって『鬼滅の刃』と同じじゃん。気づくのが遅い。

 せっかくなので自分の分かる範囲で両者を比較してみよう。※本記事には両作の多少のネタバレが含まれます


 主人公の対比。『鬼滅』の炭治郎の目的は「妹を救うこと」の一点に集中している。

 逆に彼はそれ以外の強い欲望を持っているようには見えない。せいぜい「人を喰らう鬼を止める」という程度のものだろうか。少年漫画に多い、ある種の「頭からっぽ性」を持った主人公だ。

 一方『ダンジョン飯』のライオスは魔物マニアだ。妹以外への他者への執着が薄いこと、そして妹を偏愛するがゆえの危うさが度々描写されている。


 作品のテーマ。鬼滅は「鬼」、ダンジョン飯は「魔物・ダンジョン・悪魔」という「邪なるもの」との対峙を通して、人間らしさとはなにかを描いている、というのがかなり大雑把にまとめたテーマといえるだろう。

 鬼滅の刃においては、あくまで人間として弱きものを守ると宣言する煉獄杏寿郎が、極めてヒロイックな人物として描かれる。まさに「人間讃歌(©ジョジョの奇妙な冒険)」。

 対してダンジョン飯におけるダンジョンは、多分に魅力的なものとして読者に映る。あまつさえ魔物を料理して食しさえする。

 それは本作におけるダンジョンが、人間の欲望を反映して設計されたものだからでもある。


 精神科医の斎藤環氏は鬼滅の刃における鬼を「犯罪被害者のメタファー」と評していた。

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 それに習うのであればダンジョン飯におけるダンジョンは「人間の欲望のメタファー」と見るのが妥当であろう。

 どこまでも肥大化し、変質していく欲望。その最深部に住む支配者。ダンジョン=欲望に捕われた妹を、カレーライスでおびき寄せ、窒息させる。実に重い展開だ。

 ならば契約によってダンジョンの支配権を与えてくれる悪魔はさしずめ「言語そのもの」のメタファーである、とラカン精神分析的には言えるだろうか。


 そんなダンジョンに魅了されるライオス。彼が新たなダンジョンの主となる可能性、および彼の決断(ダンジョンを封じるか、それとも悪魔に屈して自らの望むダンジョンを作るか)が物語全体の重要なキーとなることが示唆されている。

 鬼滅の刃のラストでは、ある種の「空っぽ性」を持っていた炭治郎が鬼となり、同時に彼こそが最も鬼に適した人間だったことが明かされる。悪を討たんとする存在が、最も悪への親和性を持っていた。

 最終的に炭治郎を救ったのは鬼殺隊との、そして妹との絆であった。


 果たしてライオスはどのような決断を下すだろう。鬼滅の刃のように妹ファリンやマルシル達との「絆」によってダンジョンを封じるのか。

 あるいはダンジョンに魅入られたライオスを他の人物たちが助けようとする、というような展開もありうるか。

 なんにせよ続きが楽しみだ。