普段アニメをあまり観ない自分が、アニメにまつわる本書を手に取ったのは、著者がラジオ番組『アフター6ジャンクション』に定期的に出演し、アニメについてトークするのをたびたび興味深く聴いているから。
前も書いたけど、ここ数年マトモに本を読んでいなかった自分にとって、カルチャーの摂取元はもっぱらラジオやポッドキャストだったので。
アニメ評論家である著者の、アニメ評論をまとめた本。2003年に出版された単行本を、文庫化に際し加筆修正し、書き下ろしを含む多数の評論を加えている。
宮崎駿、富野由悠季、庵野秀明といった、時代を代表するアニメ作家ごとに章立てしてまとめられている。
それぞれの評論は発表順もバラバラで、通史として書かれているわけではないのだが、全体を読むことで、アニメ業界における「作家」の誕生とその発展の歴史を、イメージとしてつかむことができるような作りになっている。なんとなーく、そういう本だったらいいなと思って手に取ったら、思っていた以上に「そういう本」だった。
自分のイメージではアニメと言えばTVアニメだったが、本書はどちらかというとアニメ映画に比重が置かれている。いかにしてアニメ映画の映画的手法が確立していったか、「アニメの映画」ではなく「映画としてのアニメ」になっていったかが詳細に述べられる。
本書でとりあげられているアニメで自分が観たことがあるのは『かぐや姫の物語』『パプリカ』『エヴァンゲリオン(TV版から『Q』まで)と、あとは子供の頃に観たジブリ作品くらいだが、全く問題なく面白く読めた。
資料を当たりながら制作当時の事情をつぶさに拾いつつ、ときにアニメ作品を映画・小説・詩・文芸評論などに引き寄せて大胆に語る、といった文章的冒険に満ちていて、ただの客観的事実の記述に留まらない、評論ならではの読む喜びを味わえた。
前半の、宮崎駿をはじめとしたいわゆる「巨匠」たちの作品の評論は、俯瞰的・分析的に作品の背景を知ることができる。
対して、後半取り上げる比較的近年の作品の評論は、作品が持つ芯のようなものに寄り添い、その熱量をそのまま再現しつつ語るような前のめり感が感じられた。本書を読んでもっとも視聴したくなった作品は『マインドゲーム』だった。
評論、というと一昔前までは(もしかすると二昔(ふたむかし)以上前の話かもしれないが)、なにかというと作品にケチをつけるもの、というパブリックイメージがあったが、著者の本書における評論はそういったものとは一線を画している。
まず文章として面白い。そして読むと、論じているアニメを観たくなる。こう書くと当たり前過ぎて、逆に失礼な気すらするが、ただの褒め殺しにならずにこれらを両立するのは稀有なワザだと思う。Z世代以降の若者に届くのはこういう評論なのかもしれない、などと思う。
以下、雑多な感想。
『カリオストロの城』のルパンが中年として描かれている話などは、上記のラジオでも聴いたような覚えがある。
宮崎駿が演出したTVアニメ『ルパン三世』最終話「さらば愛しきルパンよ」の評論を読むと、脚本家、首藤剛志が手掛けたアニメ『ポケットモンスター』の没プロットをどことなく想起する。最終回でこれまでのテーマをまるっと反転させる、というあたりが。
アニメの動きを時間的連続性の中で描こうとする宮崎駿と、断続的な絵によって強い印象を与える出崎統。前者はディズニーなどのアニメーションの影響を強く受けているのだろう。
自分はある時期からディズニー映画の生成的で過剰なモーションに悪夢的な忌避感を覚えるようになったのだけれど、ジブリ映画にもそれに近いものを感じることがある。ポニョなどは予告編を見るだけで結構怖い。
本書を読んでいる間に、本屋に行ったら「太陽の王子 ホルスの大冒険と東映長編まんが映画の世界」という本がちょうど発売したばかりで並べられていたので、本書に取り上げられた「ヒルダの表情」のコマを思わず探してしまった。ジブリ映画と違って動画配信サービスにあるのでいずれ本編もチェックしたいところ。
『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』の評論で、畑中佳樹による村上春樹作品への評論が引用されている。「村上春樹の世界は普通名詞の世界から固有名詞の世界へのリハビリである」というもの。
先日発売されたばかりの村上春樹の最新作「街とその不確かな壁」にも、詳細は伏せるが冒頭からそのようなモチーフが登場している。引き続き普通名詞と固有名詞は、村上作品にとって重要なモチーフであるようだ。
あらゆるところで日本のアニメ史において重要な作品として紹介される『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』。
本書の評論を読み、改めて観ておかなければならないなと思った。時代を先取りしすぎている。それと『攻殻機動隊』も。というかこれまで押井守のことをあまり認識してなかったけど、この二作だけでも後世への影響が甚大。スゴイ。