rhの読書録

とあるブログ書きの読書記録。

ライティングの哲学 書けない悩みのための執筆論 / 千葉雅也 山内朋樹 読書猿 瀬下翔太

 自分はブログを書いている。いちおう10年以上。普段は別のブログをメインで書いている。このブログは読書感想用。数年間あまり本を読まなかったため更新が滞っていたが、最近また本を読み始めたので頻度が増えた。

 素人ながら日課でブログを書いているわけだし、千葉雅也『勉強の哲学』等を読んでいたこともあり、「書くこと」についての本である本書『ライティングの哲学』は、本屋に並び始めた時から気になる存在ではあった。

 でも手には取らなかった。

 なぜか。それはおそらく、これまで自分が「書けない」という悩みを避けてきたからではないかと思う。

 以下、自分のブログを書くスタイルについての記述が続くが、本書の精神に則っとるつもりで、あえてカットせず残しておきます。感想は最後の方で、そんなに長くないです。



 書くことそのものは決して楽ではない。むしろ苦しい。ベットでゴロゴロしているほうがよっぽど楽である。当たり前の話。

 しかし、「いくら書こうとしても遅々として進まない」とか「無限に手直ししてしまって完成しない」とか「書き上がったものが絶望的な低クオリティで絶望する」みたいなことは、基本的には、ない。

 ない、というか、そういう悩みから積極的に逃げ続けることによって、なんとかブログを書き続けていられている、と言った方が実情に近い。



 「いい文章を書こう」みたいな気持ちはすべて捨て去る。本当に、そんな気持ちがあったら、一瞬で立ちすくんでしまう。

 「普通の文章を書こう」でもまだダメ。自分は普通だというプライドがまだある。プライドは書く邪魔をする。

 「思いついたことをそのまま書く」。かなりいい線をいっている。しかしまだ、なんというか、「アーティスティックな自分」的なニュアンスが残っている。

 「自分が見たりやったりしたことについて、考えたことや感じたことを書く」。それが自分がブログでやろうとしていることに、一番近いのではないかと思う。まだ格好つけている感はあるし、よく考えると最近読んだ本の受け売りな気がしてきたけど、少なくとも自分の感覚とそれほど遠くはない。

 「書きたいこと」について書くのではない。それが目の前にあるから書ける。そういう感覚。そういう感覚でなければ、自意識が邪魔をして進めない。

 ものだけでなく、自分の考えについて書くときも、「自分の考えを文章上に再現する」というより、そこに「自分の考え」が在って、それをただ記述している、という感覚。

 面白くしようとか、笑わせようとかも思わない。書いていて、「ここには何か挟めそうだな」と感じたら、そこで何か工夫することはある。

 「このアイデアを文章に仕立て上げてやろう」みたいなこともなるべく考えないようにしている。結果的にそれに近くなることはあるけど。

 「ブログのネタになりそうだな」と思って何かをやることは、ある。というか自分のやることは半分くらいブログのネタのためだ。

 でも「こういうことを書こう」と思って何かをやることは、ない。なんというか、「計画」という森に迷い込んで出られなくなりそうな気がするから。

 要約すると、「企み」や「企て」(タイプしてみて初めてこの二つが同じ漢字なことに気づいた)をしない、というかできない。



 とにかく「そこに書かれることがあるから、それをただ書いている」という感覚でいるようにしている。そうしないと書き続けられないから。

 言葉には自動性があるので、とりあえず書き始めることでなにか生まれることがあるし、書き続けることで初めて思い浮かぶこともたくさんある。書く楽しみの結構な割合をそれらが占めている。

 メインブログは短い記事しか書かないので、1日で書き終わる。長くて2、3日。

 で、書き終わったらある程度寝かせてから(日記用ブログを除く)、読み直す。

 できることならなるべく長く寝かせておきたい。書いたことを忘れて、他人の目線で読み直せるくらいに。でもブログだし、さっさと出さないと次に行けないので、普通は半日、長くて1日。

 読み直して意味がわかりにくいところなどがあったら直す。校閲、というほどしっかりやるわけじゃない。所詮はブログなので。

 たまに読み直して「これは自分の考えと全然違うな」と思うこともあって苦笑する。そういうときは消す。もしかしたら残したほうが面白くなるのかもしれないけど。

 この辺のプロセスは、本についての感想ブログを書く時には少々事情が変わる。書くのに2、3日はかかるし、書き始めて「文章のノリが違うな」とか「冗長すぎる」と思って頭から書き直したりすることがよくある。メインブログでゲームや買ったものについて書くよりは、やっぱり一段も二段も難しい。


 それでちゃんと書けているのかというと、特に自信はない。相変わらず散らかってるけど、最後にはまぁなんとかまとまったように見えなくもないかな、というような気持ちで投稿ボタンを押している。

 もっと悩んだほうがいいのかもしれない。苦しみの先に成長があるのかもしれない。でも悩んでいたら書けない。だから悩まないようにしている。


 そもそも多くの場合、自分で「上手く書けたな」と思えるのは、感情が先走って、考えようとしなくてもそのことについて考えてしまい、仕方ないから書き始め、書こうと思う前に書き終わっていた、みたいな時。だから細かい努力をしてもあまり意味がないかもしれない、と経験上考えている。

 それ以外の文章は、悪く言えば「平常運転」くらいのノリ。

 おそらくある種の人は、あえて自らの感情を動かすような状況にぶつかっていって、それによって「名文」をものにしてきたのだろう。

 でも自分はそんなにタフじゃない。きっとそんなことをしたらすぐに潰れてしまうだろう。実際は逆で、そうやって自分にリミッターをかけるからタフになれないのかもしれないが。


 以上をまとめるなら、素人ゆえの無責任ゆえ、自分はブログを書けている、ということになる。

 無感覚、と言ってもいい。そうでもしないと怖くて文章なんて書けない。

 ちなみにツールは、本書でも何度も登場するアウトライナーほぼ一本で書いている。千葉氏が、たしかTwitterで紹介していたのがきっかけだったか。Workflowyは有料なので、無料の「Dynalist」を使い、いきなりほぼ本文を書いている。

 あらかじめ全体の構成を考える、といったことはほぼ無い。どんなに長くても8000字くらいだし複雑な内容でもないなので、そもそも構成が必要ないのである。書いてから目次をつけることはある。あまつさえインデント機能すらほぼ使わず改行で構造を作っている。ブログと関係のないメモをとる時の方がよっぽど機能を使いこなしている。

 ほぼ書き終わったらブログ編集画面にコピペ。誤字脱字をチェックしながら、チェック完了の目印も兼ねて読み終わった行を行頭スペースで字下げしていく。この字下げのやり方がいいのか悪いのかも、素人なのでよくわかっていない。

 全部の行を字下げし終わったらジャンルタグなどをつけて、基本的に深夜12時に投稿。投稿時間で生活感を出したくないので。

 アウトライナーを使う意味があまり無いような気もするが、自分の感覚としては、箇条書きのスタイルのおかげで、いきなりテキストエディタやブログ編集画面に向かうよりも、間違いなく「無責任」に書くことが出来ている。



 そんな自分が、プロの作家の「書けない悩み」についての本を読んだら、自分のペースを乱してしまうかもしれない……そんな懸念があった、のかもしれない。

 最近「読書ハイ」なこともあり、その勢いで読んでみたのだけれど、少なくとも悪い影響を受けたような感じは無い。今のところ。

 アウトライナーの使い方について語り合いたい、という千葉氏のツイートがキッカケで開かれた4名の書き手による座談会。話は自然と「書くことの悩み」へと向かっていった。

 次に「座談会を経てからの書き方の変化」をテーマにした4名による執筆。

 最後に「執筆」を踏まえた2度目の座談会、という3部構成。


 プロの書き手達の、現実の最前線で書くことと向き合っている悩みを読むと、ただただ畏敬の念を抱くばかりである。こうして無責任に書いていることがちょっと恥ずかしくなってくる。でも「めちゃめちゃ恥ずかしい」では無いのは年月による擦り切れだろうか。

 なのでうかつに「ここが参考になった」みたいなことも言いにくい。デキる人間が言う「テキトー」と、デキない人間が言うそれは、まるで違うのであるからして。

 しかし無責任に言わせて頂くなら、かなり興味深く面白かった。4者が最後の座談会でそれぞれの「書く理由」に行き当たる場面は、どこか感動的ですらあった。

 自分にとっては、なによりこうしてブログを書くスタイルやスタンスを振り返ることができたのが、一番の収穫だった。


 むしろ自分が本書を読んで考えたのは、「読むことの悩み」。

 こと書くということについてはすっかり無責任マンに成り果てた自分だが、本を読むという行為については、未だに苦しんでいる。

 書いていることを全部理解しなければいけないと思いこんでいるフシがある。

 本書で4人が抱えている、書くことへの厳密さから生まれる悩みは、自分が本を読む時に感じる悩みにちょっと近い、のかもしれない。もっと読むことを「断念」したい。