rhの読書録

とあるブログ書きの読書記録。

しらふで生きる 大酒飲みの決断 / 町田康

 酒。飲まずにはいられないもの。という自分は酒は飲まない。

 理由は、自分のような人間が酒を飲みだしたらいよいよ終わりだな、という確信があるから。自己評価の低み。今ではすっかりぼっちだが、酒の上での失敗もひとつやふたつあるし。


 本書の著者は、ほぼ毎日欠かさず飲酒していたが、ある日酒を飲むのをやめようと思い立つ。

 なぜそんな考えが生じたのか? それはわからない。なぜならその「考え」を渋谷駅西口の歩道橋の上から突き落としてしまったからだ。

 「考え」を突き落とす? どういうことだ? とお思いかもしれないが、それは文学的な手法、というか、言語的戯れ(たわむれ)、というか、とにかくそんなようなものなのであまり気にしなくてよいだろう。

 自分の考えは自分でもよくわからない。そういう事情の言い換えだと自分は読んだけれど、別にそれはひとつの解釈であって、もっと違う見方をしてもいい。というか自分もしたい。


 そして著者の考えは、なぜ酒をやめようと思ったのか、どうすれば酒がやめられるのか、に及ぶ。

 自分のような科学万能主義に毒された人間からすると、酒は脳に物質的な快楽を齎すので、酒に領された考えは酒によって歪められて認知的なバイアスがかかっている、と思ってしまいたくなる。そのような切断によって、己の精神的安全性をキープしたくなる。そういう欲望が生じる。

 しかし誰にでも認知的なバイアスはあるわけで、他人のそれを見ようとしない態度は、自分のそれをも見えなくしてしまう危険がある。誰だってなにかに依存しているわけで、そのありさまは大抵、他人からはズレて見える。

 そこに著者はあくまで言葉で向き合おうとする。酒は強く、言葉は弱いが、それでも。その様を読者は瞠目しなければならないと思う。


 著者は、酒飲みにとっての、酒をやめようという考えを「狂気」と呼ぶ。

 世間一般から見れば、断酒は褒められるべきことであり、むしろ「正気」だ。しかし酒飲みの世界ではそれは顛倒しており、酒を飲むことが正気で、酒を飲まないことは狂気なのである。そのことを正面から見つめている。

 そして、実際に酒を絶ったからと言って、あれは狂気ではなく正気だった、などとは言わない。それは主観的事実に反するからか、それとも正気・狂気は世間が決めるものではないからか。


 人は生きる上で様々な苦しみ、ストレスを得る。それを解消せんがために酒を飲む。しかし酩酊している間は意識が麻痺しているので何の喜びも得られないし、翌日の二日酔いや酒毒による体調悪化など別の苦しみやストレスを抱え込むことになる。

 人生のマイナスをプラスにすべく酒を飲むが、実際はマイナスが増える。そしてそのマイナスは酒を飲めば飲むほど負債のように増えていく。快楽と苦しみは表裏一体である。

 だから、そもそも人間はプラスになるべきだ、幸福を得るべきだ、という認識を捨て、自分はアホである、というかそもそも他人と自分を引き比べること自体が無意味だ、と認識すべき。

 というのが筆者の断酒に至る理路である、と自分は読んだ。


 自分の感覚は微妙に違っていて、そもそも快楽と苦しみが表裏一体というより、快楽自体が苦、であり、なぜなら快楽はそれを享受している間は確かになんだかイイ感じになるが、それが終わった後はもっと快楽を求めたくなり、そうして快楽を求めては得る、ということを繰り返していくとさらに強い快楽が欲しくなり、やがて快楽を求める心が苦しみそのものに変わっていく、という性質がある、と考えている。

 そのことを認識すれば、むやみに快楽を追い求めるようなことはしなくなる。というか、できればしなくなってくれ。

 というのが自分の考え方。たしか昔読んだ中村元の仏教の本に、快楽が苦であるという仏教の考え方が書かれていて、得心した記憶がある。

 多分、本書の著者の考えと自分の考えは、方向性としては同じだが、人生の憂さとかは関係なく、単に快楽そのものにそういう性質がある、と見るところに違いがあるのかもしれない。


 酒を断ったことで著者は、
①ダイエット効果
②睡眠の質の向上
③経済的な利得
 そして
④脳髄のええ感じによる仕事の捗り

 という様々な利得を得たという。しかしそのことによってすなわち幸福を得たわけではない。なぜなら幸福はすぐにかき消えてどこかへ行ってしまうものだから。

 さらに精神的なゆとりも生まれた。それは、

 これまでは目的地を、楽しみ、と誤って設定し、急いでいたが、本当はそれが、死、であることを知り、死を恐れる気持ちから急ぎたくなくなり、また、なにもない瞬間を大事に思いたい、という心境に到ったからであろう

 とのことである。それは大きく言えば人生観が変わった、ということかも知れず、であれば小説観も変わった、のかもしれない。それはこの後の著者の著述などを見ていけばわかることだろう。