rhの読書録

とあるブログ書きの読書記録。

やがて哀しき外国語 / 村上春樹

 再読。途中何度も「この本読んだことあるかも」と思いつつ読み終え、読書記録サイトをチェックしたら2015年に一度読了していたことが判明。

 既視感のある話が出てきても、別の村上春樹関連本の引用で読んだのか、あるいは『村上さんのところ』のような質問回答系の本で同じ話をしていたのか、というような区別がつかなかったので、結局最後まで読んでしまったのである。なんせ読みやすいし。

 再読したことで改めて気づいたことや感じ入ったことがたくさんあったので、結果的にはよかった。



 著者が1990年から二年半、ニュージャージー州のプリンストン大学に勤めていた時期のエッセイ。『ねじまき鳥クロニクル』及びそこから派生したとされる『国境の南、太陽の西』を執筆していた時期のもの。

 時代はちょうど湾岸戦争が始まった頃。大学では「戦争支持」のデモが行われていたという。

 また、今ではにわかに信じられないことだが、当時アメリカでは日本車が売れまくり、日本企業による買収も盛んに行われた結果、日本叩き、いわゆる「ジャパン・バッシング」の機運が高まっていた。

 そんなちょっとした不穏な要素はありつつも、基調としては比較的裕福で閑静な郊外の街であるプリンストンで、著者はは執筆に集中しながら、学生に日本文学を教えたり、大学人との交流を深めたり、マラソン大会に参加したり、ジャズのライブを聴きに行ったり、床屋に行ったり、買い物したり、といった日々が綴られる。一篇がやや長めで読みごたえがある。



 全体のトーンとして、かなり「明け透け」にものごとを語っているな、という印象。文庫版のまえがきで著者自身も語っているように。

 特に日本のマラソン大会に物申すくだりなどは、ほとんど具体的に名前を挙げて、ランナー軽視の運営に物申している。

 そういう「しきたり」大好きなオトナたちのおかげで大会が開かれている側面もあるのでは……と思わないでもないが、オッサンのポジショニングのためのマウンティング長口上演説を聞かされる不毛さには同情できる。



 名門大学であるプリンストン大には日本のエリート社員や官僚が一時留学に来ていたが、その中には初対面で共通一次試験(ちょっと前までのセンター試験、今で言う共通テスト)の点数を誇示してくるような、エリート根性丸出しのヤバい奴が一人ならずいたらしい。本当にヤバい。もちろん一部だろうけど。

 その辺の事情は今どうなっているのだろう。エリートに会うことなどもちろん皆無なのでわからないが、例えば最近の政治家の親族にまつわる不祥事などを見ていると、むしろ事態は悪化しているようにすら思えてくる。



 ポリティカリー・コレクトの話も出てくる。日本でPCが一般レベルに用いられるようになったのは、体感では2010年頃以降、Twitterが全国民的なものになってからだが、アカデミズムではもっと早くから使われていたのだろう。

 当地の女性に「奥様は何をしていらっしゃる?」と聞かれたときに「小説執筆の手伝いをしています」と言うと微妙な顔をされ「実は写真をやっているんです」と言ってようやく納得してもらえる、ということがしばしばあったという。

 妻は夫から自立して社会的な役割を果たすべきだ、という規範があるからそんな質問をするのだろう。フェミニズム的な文脈で。

 女性は男性に隷属すべきでない、というのは間違いのない正論である。しかし正論を規範にしようとする勢いのあまり、人間の自由な選択にまで口を出すのは、別種の新たな束縛を作っているだけなのではないか?
というような疑問を著者はソフトに投げかけている。



 読んでいて感じるのは「自分にとって良いものは、良いものである」という著者の感覚。

 昨今のジャズには、今ここで何かが生まれつつあるのだという興奮が無い、伝統芸能に近いものになっている、と著者は言う。

 それはまぁ実際にそうなんだろう。ジャズには全く知識が無いが、少なくとも「最新のジャズが最高のジャズだ」と言う人を見たことは無い。そういえばタモリも今年出たラジオでジャズの衰退を嘆いていた。

 しかしもし自分が村上春樹だったら、という大変不毛な想像をするならば、もうちょっと手心を加えるというか、現役でがんばっているジャズプレイヤーに「配慮」した表現にしていると思う。

 そこのところを著者は、誠実かつ丁寧に、しかし率直に個人の意見として、現代のジャズについて思うところを述べており、それは読む人を納得させるものになっている。

 そのような確固たる意思表明が可能なのは、自分にとって良いものを感じ取る身体性への信頼があるから、ではないだろうか。

 昨今は、人気のあるものが良くて偉い、という風潮がますます強まっている感があり、自分もすぐにそれに流されてしまいかける。

 もちろんお金は大事だし、良いものが売れるのは良いことだ。でも数字に目を奪われて、自分にとって良くないものを追いかけていると、人生が虚しいものになってしまうかもしれない。気をつけなければいけない。

 かといって意固地になってなんでも自己のこだわりにこだわりすぎるのもよくない。著者が「大学村スノビズム」に合わせて外出先のバーなどではバドドライ(バドワイザーのビール。2010年に販売終了した模様)ではなくギネスやハイネケンを飲むように、末節の部分では郷に入っては郷に従ったっていい。



 もうひとつ感じるのは、村上春樹、スゲェなという極めて素朴な畏敬の念である。

 レイモンド・カーヴァー原作の映画『ショート・カッツ』の完成直前バージョンの上映会に行き、鑑賞した感想を書いている。

 映画のシナリオに短編9本の要素が取り入れられていることや、映画のテーマ、原作の意図と監督の意図の割合、監督が撮った他の映画との比較、俳優の演技など、微細に入った映画評が繰り広げられる。

 それが映画評としてすごく面白い。さらっとやっているせいで気づきにくいが、おそらく一度観ただけの映画に対してこれだけのものを書いていると考えると、さすが当代随一のプロの物書きだなと感嘆せざるを得ない。

 大学時代に大量の映画を観たり映画シナリオを読み込んだことで培われたものがあるのだろう。もし村上春樹が小説家ではなく映画ライターになっていたら……などと想像してみるのもまた楽し。

 ところで映画で描かれているという、住宅地とショッピングモールがどこまでも続くようなアメリカの単調で無力感を催す郊外の風景であるが、現代日本の郊外もそうなってしまっているのだろうか。それとも本質的な部分で日本とアメリカのそれには違いがあるのだろうか。



 その他にも、全てのエッセイに、小説家らしい洞察・省察が含まれている。読む前と読んだ後では、少しだけものの見方が変わってしまうようなエッセンスが含まれている。

 「日本人から見た1990年頃のアメリカ東部郊外都市」としても優れた評論となっていて、歴史的な価値もある。

 それでいてリーダブルでユーモアに満ちている。どうしても「男の子」らしく美容院ではなく床屋にこだわるくだりは、どうしようもなく日本のオジサンらしくて微笑ましい。



 このエッセイの後、1993年に著者はマサチューセッツに移住し、タフツ大学に勤務することになる。その時期の暮らしはエッセイ『うずまき猫の見つけ方』で綴られている。そっちは確実に未読なのでいずれ読みたいと思う。

 離任前に吉行淳之介、庄野潤三らの「第三の新人」についてのセミナーを行った、と書かれているが、この内容が後の『若い読者のための短編小説案内』に繋がっている。



 細かい雑多な感想。

 スコット・フィッツジェラルドの孫に会いに行く話。『ゼルダの伝説』のゼルダ姫が、スコットの妻ゼルダから取られているのは知っていたが、2023年になっても世界一のゲームを作っているゼルダの伝説(ティアーズオブキングダムは間違いなく今年のGOTYだろう)ってスゴイな、とだいぶ関係ないところで感心。



 外国語を話すコツについてこう書いている。

(1)自分が何をいいたいのかということをまず自分がはっきりと把握すること。そしてそのポイントを、なるべく早い機会にまず短い言葉で明確にすること。
(2)自分がきちんと理解しているシンプルな言葉で語ること。難しい言葉、カッコいい言葉、思わせぶりな言葉は不必要である。
(3)大事な部分はできるだけパラフレーズする(言い換える)こと。ゆっくりと喋ること。できれば簡単な比喩を入れる。

 そしてこれはそのまま<文章の書き方>にもなっている、とも。心に刻みたい三箇条だ。これらは英語に限らず人と会話する時のコツでもあるだろう。



 人から「小説に書けるくらい面白い経験をしてきた」と言われる、という話。ちょっと安原顯とのあれこれが連想されてしまう。



 1993年のヤクルト日本一。しばらく日本を離れていた著者は現役の選手をほとんど知らない、と書いているが、自分にとっては若きメガネのキャッチャー古田敦也と名将ノムさんこと野村克也が印象に深く残っている。



 「ザ・ギャップ」や「バナナ・リパブリック」の服をたまに買う。と書かれている。前者はGAPのことだろう。この本が書かれた直後の1994年に日本法人が設立している。後者は2005年に日本進出し、銀座に1号店がオープンとのこと。

 また日本では高級バッグブランドとして有名なCOACHだが、筆者は日本での知名度の高さを知らずに近所で買った手帳や財布を使っていたらしい。使っていたパソコンはパワーブック160/80とのこと。当時の最新のMacノート。