rhの読書録

読んだ本の感想など

入門 山頭火 / 町田康

入門 山頭火

入門 山頭火

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 自由律俳句の俳人である種田山頭火の来歴を、小説家の町田康が、評伝や日記、そして句を読みながら辿る本。

 山頭火のことがわからない。もちろん自由律俳句もわからない。そんな自分が、この本を読んで、その2つへの理解が深まった。

 いや、そもそも人間も俳句も本当の意味で「理解」できるようなものではなんだろうか? わからない。でもそんなことを言い始めたら何も言えなくなってしまう。


 読んでまず気がかりなことは、「山頭火は一体なにがしたかったのか」ということ。山頭火がやりたかったことは、だいたい以下の3つに大別できる。

1、いい俳句を作りたい
2、酒を飲んだり遊んだりしたい
3、死にたい

 山頭火はこの3つの間を行ったりきたり、フラフラしていたように見える。いったい何がしたかったんだ? と思ってしまう。

 しかしこの3つには共通するある動機がある。それは「生きる苦しみから逃れたい」だろう。

 下の2つはわかりやすいとして、いい俳句を作ることと、生の苦しみから逃れることに、なんの関係があるのか、と思う人もいるかも知れない。
いいものを作ることで、自分の人生に光をもたらしたい。生を祝福されたものにしたい。

 表現方法は違えど、ものをつくる人には、多かれ少なかれそういう感覚があるんじゃないだろうか。

 自分の生をよいものにすることで、生の苦しみを減殺したい。山頭火にとってそれは俳句だった。


 で、実際に山頭火がどう生きたかというと、控えめに言ってめちゃくちゃだった。
行乞、という仏教の修行をしながらがんがん酒を飲む。その後、自暴自棄になり、薬を飲んで命を絶とうとする。

 俳人として生計を立てるために、月刊パンフレットを発行する資金を俳句仲間が工面してくれたが、そのお金を飲み代に使い込んだため3ヶ月で休刊。

 晩年にも、飲み過ぎの末に無銭飲食で警察に留置され、息子に保釈金を払ってもらっている。


 一般的な、ごく穏当な考え方をするのであれば、いい俳句を作るためには生業を持ち(山頭火にはそのチャンスが何度もあった)、酒を程々にしたうえで、俳句作りに集中できる環境づくりをすべき、ということになるだろう。

 しかし山頭火の場合は、生の苦しみから逃れたいという衝動が強く、また一か所にじっとしているのが苦手で、そしてそのような性質こそが俳句を生むための原動力だった、ように見受けられる。


 山頭火に「まっすぐな道でさみしい」という句がある。

 著者はこの「道」を「人間の完成を目指す道=求道」である、と解釈する。

 一般的なイメージからすれば、人間の完成を成し遂げるためには、曲がりくねった険しい道を通る必要があるように思える。

 しかし本書で描かれる山頭火の来歴を見ていけば、この解釈に説得力を感じる。

 各地を遍歴して行乞をしていた山頭火は、ある意味では最も求道に近い位置にいた。全ての欲を経ち、家族も捨て(捨てられた家族はたまったものではないが)、ただ俳句を作る。少なくともそれが可能な立場にあった。そのような立場に自ら立った。

 そうしたところ、求道の道は、ただまっすぐな道だった。誰もいない、ただただひとりで歩いていくだけの、ずっと先まで見通せるさみしい道。もしかしたら終わりまで見えているかもしれない。死、という終わりが。

 人は、まっすぐな道をただ歩くだけのことに耐えられない。だから寄り道する。さみしくないように句友と酒を飲んだりする。

 「人生は死ぬまでのひまつぶし」という言葉があって、誰が言ったのかはわからないが、ある種の真理であるように感じてしまう。しかし人生にはひまつぶしのない道も存在していて、その道はまっすぐでさみしいのかもしれない。そういう生き方もあるのかもしれない。


 山頭火の句は、ただ目の前にあること、感じたことをそのまま詠んだ、という印象がある。

 というか自分が国語の教科書などで読んだときの印象がまさにそんな感じだった。

 しかし大人になってみてわかる。「ただ目の前にあること、感じたこと」をそのまま言葉にすることがどれだけ難しいことか。

 誰だってアホだと思われたくないし、他人から嫌がられたくない。だから少しでも誰かにわかってもらえるような言葉を使おうとする。もちろんこうして賢ぶって読んだ本の感想を書いている自分も例外ではない。

 その結果、自分が言いたいことを言わずに、誰かが言ってほしいことを言うようになる。要するにそれが大人になるということなのではあるが。

 そんな大人に成り果ててしまった人の心に、山頭火の俳句は深く突き刺さってくる。ハッとさせられて、トップハム・ハット卿に思いを馳せたりする。パンクである。


 ただ歴史的事実を知りたいだけであれば、本書が参考にしているような評伝や山頭火自身の日記を読んだほうがよいかもしれない。

 でも今からそういう古い本を読むのは辛い。少なくとも自分は辛い。

 そんな自分でも読むことができた本書は、小説家、町田康による「現代語訳 山頭火入門」だと言える。