目的とは何か?
例えばご飯を食べるという行為。これは手段である。そしてその「目的」は、一般的には「生きるため」になるだろう。
生きるためよりも多くのものを食べることが「贅沢」とか「暴食」とか言われるのは、本来の「生きるため(に食べる)」という目的を逸脱しているからだ。
その目的という概念を、本書の中で著者は疑おうとしている。
難しいことだ。
目的に向かって、計画を立てて、努力する。それが「人間らしさ」なんじゃないのか。そんなことを素朴に思ってしまう。
本書は目的が持つそのような側面を否定するものではない。
目的意識を持つからこそ、人は自分の生活をよりよい物に変えていくことができる。人生を豊かにする可能性がある。それを否定することはできない。
しかし目的が自由を狭めてしまうのではないか。目的には負の側面があるのではないか。
今、安直に「負の側面」と書いてみたけれど、著者はそのような安易な価値判断の言葉を避けていると感じる。
あるいは、問題は正負で簡単に分割できず、渾然一体としているからかもしれない。
目的は手段を正当化しようとする。
というか、目的という概念が、手段を正当化するために持ち出されるものなのかもしれない。
目的は、それを妨げるものを排除しようとする。妨げを排除するために、目的が持ち出され掲げられる。
そのことをハンナ・アーレントは「目的とはまさに手段を正当化するもののことであり、それが目的の定義にほかならない」と書いた。
新型コロナ対策においてはどのような「目的」が掲げられたか。
それは「命を守る」だろう。
しかし命を守るという目的ために「人として大切なこと」が排除されてしまったのではないか。
というと「いや、命が一番大事だろう」という返答がやってくる。主に自分の中から。例えばSNSでつぶやいたとしてもそのような返答が返ってくるだろう。
それはそのとおりではある。命あっての物種。生きてるだけで丸儲け。生きていなければ、人間性もなにもない。
なにより、人類の歴史においては「命よりも大事なもの」という「目的」のために多くの命が失われてきた。国家だとか、宗教だとかのために。
そのことを考えれば、まずは命が大事、という考え方が浸透したことは、人類の進歩の賜物なのではないか? とさえ思える。
それはそうなのかもしれない。確かにそうなのかもしれないが、それでもやはり、「命が大事」の目的のためになにか別のものが抑圧・排除されているんじゃないか、という視点は、あってしかるべきだと感じる。
コロナ対策によって、移動の自由や、死者を弔うという(もしかすると有史以前からの)伝統を、人々はいとも簡単に手放してしまった。本当にそれでいいのか?
ジョルジュ・アガンベンはそのような疑問をが提起したが、「炎上」してしまった。
命が大事という考え方はそれほど強い。強くあってしかるべきだろう。
しかしただ強い考え方に従って考えることをやめてしまうのは、別の危険を招来してしまうおそれがある。
そして命が大事という考え方が、人生をただ生きるためだけに生きるものにしてしまうような事態が、すでに到来しつつあるのかもしれない。
今後さらに、人命第一主義が自由を狭めるための理由付けに使われてしまうかもしれない。
それに抗うためにはどうしたらよいだろう。
例えば著者が『暇と退屈の倫理学』で提示した、消費より浪費を求める生き方にヒントがあるかもしれない。
というのが自分の本書に対する理解をどうにかこうにか言語化したものである。
同時に、目的ということについて、本書で取り上げたテーマ以外でも考えたくなる本だった。
目的は、日常生活においては、あくまで仮の方向付けみたいなものとして用いられることのほうが多い。
自分が本書のような本を読むのは、まだ知らないことを知るためだ。読む前から特定の知識を得ることを目的として読んでるわけではない。そういうタイプの本ではない。
あるいは自分がこの読書感想のような文章を書くのは、書くことによって自分の中にある未知の考えに出会って、またそれについて考えたりできるのが楽しいから、という側面がある。
自分は行かないけど、旅行に行くのも飲み会に行くのも、そこにある予想外の体験に出会うためであって、要するにそこには「遊び」がある。
逆に考えると、目的に沿った結果が求められるもの、遊びでないもの、それが仕事や勉強ということになる。だから「遊びじゃないんだぞ」という言葉が正当性を持つ。
例えば農家が急に赤ふんどしを出荷したり、銀行でお金を引き出したらお札が全部あぶらとり紙だった、みたいなことになったら客や取引先は困る。「これも遊び心ということで、どうかひとつ」みたいな言い訳は通用しない。それが通れば社会はムチャクチャになってしまう。
一方で、ただ予定通りのものを予定通りに作ったりするだけでは成り立たない仕事もある。「目的外」のことをする仕事のことを「クリエイティブ」と言うのかもしれない。いわゆるクリエイティブと呼ばれるような仕事でなくても、仕事の中でなんらかのクリエイティビティが効果を発揮する場面はいくらでもあるだろう。
戦時下では国威高揚に寄与しない芸術などが規制された。コロナ禍では音楽ライブなどが「不要不急」のものとして「自粛要請」がなされた。緊急事態になると人々は目的外のものを無くそうとする。
もちろん生きるうえで「目的」はほとんど不可欠なものだ。しかしだからといって「目的」が常に正しいわけじゃない。
そもそも必ずしも生きることに目的が必要なわけじゃない。と言うと虚無主義、ニヒリズムに聞こえるかもしれない。
でも目的は不可欠であるが普遍的な真理ではない。必要ではあるが全てに優先するわけじゃない。
むしろ目的は事後的に見出すものなのかもしれない。目的のために行動するのではなく、行動の名から目的を取り出している。そのことを認めたくないから、「無かったこと」にして、自分は目的のために行動していると思い込もうとする。
あるいは、ただ生きるために生きる、そういう生き方もできるかもしれない。それは大変苦しいものかもしれないけれども。
目的に絡め取られるような生き方ではなく、ただ生きることはできないだろうか、とこの本を読んでから漠然と思っていて、それは自分が以前から漠然と考えていたことでもあるようなのだけれど、そんなのはまるで絵空事じゃないかという疑念もずっと持っている。