小島アジコ『電気羊と夏の海で』を読んだ。Web漫画の1話について感想を書くのは初めてなのだけれど、自分の中に得体の知れない「感想書きたい欲」が湧いてきたのでちょっと書いてみることにする。
祖父の遺言に従い、彼が住んでいた家にいくことになった「僕」。
そこにはかつて祖父と共に暮らしていたアンドロイドの「羊」が待っていた。
祖母と同じ名を持つ羊は機能が劣化しており、僕を10年間待ち続けていた祖父の「新(あらた)」だと誤認識しており、記憶が1日分しか保たなくなっていた。
僕は、毎日記憶が巻き戻る羊と共に夏の海や山での日々の暮らしを送る。
家を出る最後の日、星空を見ながら、僕は羊に秘密を打ち明ける。
記憶喪失の羊、捨てられた街、そして僕。失われていくものたちが出会うさまが夏の風景と美しく描かれる。あらゆるものは失われていく。でもそこにあるのは必ずしも悲しさだけではない。
印象的なのは羊の服装が毎日変わっていること。記憶のない彼女は何を思って毎日僕(新)のために服を着替えたのか。あるいはそれもアンドロイドの「機能」だったのか。単に祖父のシュミなのか。
秘密を打ち明けられる羊は人工的なジャージ風のジャケット。秘密を聞いた後、眠る彼女は子どものように無垢なワンピース。最後に「誰か」を迎える際にはやわらかな印象のパフスリーブのブラウス。
はたして祖父は、なにを望んでいたのだろう。僕に羊を見せたかったのか、それとも羊に僕を見せたかったのか。
羊は1日で記憶がなくなってしまうが、過去の記憶が無いわけではない。人間で言えば短期記憶が無くなってしまうが、長期記憶は残っている。
「ずっとどこに行っていたんですか」と何度も言う。羊はずっと新を待ち続けていた。
羊が待ち続ける。それはいわば祖父の「想い」が生んだ結果だ。まず間違いなく、祖母に対するなんらかの想いが。
その「想い」が今度は僕を出迎える。そこにはどうしようもない「行き違い」が生じている。その想いは元々は完全に祖父自身のためのものであり、孫の僕のためのものではなかった。
それでも僕は、羊との一夏の暮らしの中でなにかを受け取った。形にも言葉にもならないかもしれないけれど、確実にそこにあったなにかを。
あらゆる意思の伝達は、本来はそういう「行き違い」なんじゃないか。
ある日どこかで誰かに生まれた想い。それは郷愁だったり無念だったりするかもしれない。
その想いが、全然別のかたちで別のだれかに伝わる。それこそがむしろコミュニケーションの本質なんじゃないか。だからこそ、例えばなにかを深く愛したりすることができるんじゃないか。
本作はそんなごくささやかでありふれた奇跡を描いていると思えた。