rhの読書録

読んだ本の感想など

熟達論―人はいつまでも学び、成長できる― / 為末大

 オリンピック陸上競技メダリストの為末大による、熟達についての本。著者の本を読むのは初めて。


 どうすれば上手くなれるか。どうすれば技術を高められるか。多くの人が関心を寄せる課題だろう。

 どうすればいいブログ記事を書けるか。どうすれば対戦ゲームで強くなれるか。どうすれば上手くギターを弾けるか。自分もそんなことを思いつつ、かといって強く願って行動するというほどでもなく、それなりに生きている。ハンパ者である。

 本書はそんな自分にも飲み込みやすい、わかりやすい文章で、熟達に至るプロセスを書き記してくれている。気取らない文章からその実直さが伝わってくる。

 主に著者が専門だった陸上競技を例にとって説明されることが多いが、身体を通じて得た知見だけあってナチュラルな説得力がある。そこに様々な学問などを学んで吸収した知識が加わって補強されている。
熟達には5つのプロセスがある、と著者は書く。「遊」「型」「観」「心」「空」の5つ。

 まず「遊」ぶように思うまま自発的にさまざまなことをやってみる。次にただ遊ぶだけでは得られない「型」を身につけようとする。型がそなわるとよりよい技能を「観」察して自分に必要なものを習得できるようになる。これまでに得た技能から余計なものを削ぎ落とした中「心」が残る。やがて技能が無意識レベルで統合され「空」っぽの精神状態で自然に力を発揮できるようになる。


 「スポーツでは上級者になるほど、視点が動かなくなる」という指摘などは対戦ゲームをプレイしていても常々感じることだ。一点を注視すると他への対応がおろそかになるので自然と画面全体を見るようになる。初心者と上級者の違いは「どこを見るかがわかっているか」で決まると言ってもいい。

 1940年代、一マイルレースという競技で、十年間のあいだ、四分の壁を誰も超えられなかった。しかしある選手が四分を切ると、そこから3年で15人もの選手が四分切りを果たした、ということがあったらしい。できないと思っているとできないが、できるとわかれば途端にできるようになる。思い込みの力を示すエピソード。

 eスポーツの大会でも似たような事例がある。『ストリートファイター5』の大会で、ある選手が「中足ヒット確認」という、当時は安定して成功させられないと考えられていたテクニックを非常に高い精度で成功させて優勝し、それ以降は「中足ヒット確認」が戦術の基本になるほど当たり前のテクニックになった。


 なぜ人は熟達しようとするのか。お金や名誉のため、というのが一番わかりやすい説明ではある。たしかにお金は生きるために必要だし、有名になれば気持ちがいい。でもそれらだけが人間を駆動する万能薬というわけじゃない。

 たとえば百億円貰って有名になれる代わりに、今後一生ロープでぐるぐる巻きにされたまま過ごせ、と言われてYesと答える人がどれだけいるだろうか。

 人は「自分にもできるかもしれない」と感じたときに、それをやってみたいと思う。人が熟達したいと思うのはそういうときだ。シンプルと言えばシンプルな話ではある。

 たとえばゲームにハマるのは「これをクリアすればもっといろいろなアイテムを使ったり違うステージに行ける」という感覚が継続するときだ。プレイしていない人からすれば、ただデジタルの数字が増えていっているだけにしか見えないかもしれない。でも主観的には違う。

 存在しない数字を追いかけてもムダじゃないか、と考える人もいるかもしれない。流石に昔よりは減っただろうか。でもまだ確実にいる。

 しかし人間のうちにある「できるかもしれない」という感覚だって、言ってみれば物質的に存在するわけじゃない。重要なのは欲望のはたらきかたの方であって、そこに物質があるかどうかは関係ない。ゲームが人を成長に導く可能性はそこにあるだろう。


 だいぶ話が逸れた。

 最初は「できるかもしれない」と遊びでなにかを始めたとしても、その技能を己の限界ギリギリまで高めるためには、自分を厳しく律し続けなければならない。尖らせるためには削らなければならない。

 「できるかもしれない」を中心に据えて、そこに進み続けなければならない。まっすぐ進めればよいが、目の前にでかい壁があって、回り道を探さなきゃいけないこともある。

 なぜそこまでし続けるのか? それは「できること」がそれだけ魅力的だからだろう。そして、そこまで積み上げた先で自分になにができるかが、全くの未知だからだろう。

 そうしてたどり着いた先に「空」があるという。最初のままの自分では想像もできなかったようなことが、これまでの積み重ねの無意識のつながりによってできるようになる。そこには深い自由の感覚がある。

 厳しくなにかを突き詰めた先に、自由の解放感を得る。そのようなアスリートたちの、ひいてはなにかの技能を高めた人たちの姿が、見た人に感動を与えるのだろう。

 そこまでしないと人間は自由を得られないのか、と、隣で眠る我が家の猫を見ていると思ってしまうのも事実ではある。彼らはどう見ても自由だ。

 しかし猫には猫の、人には人の領分がある。人は人のやり方で自由を求めればいいんだろう。おそらく。