ゲームを取り扱った小説であり、あの『メタルギアソリッド』の小島秀夫監督が帯分を書いている、ということで「いつか読むリスト」に加えていた本。
主人公のサムとセイディがゲーム制作者になる、という意味ではゲームがテーマの小説と言っていいだろう。実在のゲームの名前が登場するし、プレイもする。
しかし読み終わった後、心にズッシリと残ったのは、彼らの「ハードモード」な半生そのものだった。それこそ『メタルギアソリッド』の1作目から5作目を通してプレイし、主人公ソリッド・スネークとその父ビッグボスの生涯を見通したときのような、「自分は途方もないものを見たんだな」という重みが、確かなものとして残る。
ゲーム、というだけでなにかしらの楽しげなものを期待して読むと、骨太の人間ドラマを見せられることになるので、そこはある意味注意が必要かもしれない。
サムとセイディは病院の遊戯室で出会い、「スーパーマリオブラザーズ」をプレイして意気投合する。ゲームを通じて育まれた友情。素敵やん。と、そのままキレイに話が進めばいいのだが、なかなか上手く話は運ばない。
作中、2人は何度かの絶交をする。アメリカの言葉で言えば「フレネミー(フレンドとエネミーの合成)」、日本の言葉で言えば「ケンカップル(ケンカしてばかりいるカップル)」といったところか。二人はカップルではないのだけれど。
サムはその不幸な生い立ちのせいもあり、依怙地で自分を語りたがらないところがある。対してセイディはお嬢様気質で嫉妬深いところがある。そしてなによりお互いのことになると思い込みが激しくなりがちだ。読者からすれば「それって、愛じゃん」なのだが、2人はなかなか自分の本心に気付けない。
それでも二人は幼い頃の数百時間に及ぶゲーム体験を通じて、それこそ魂のレベルで深く繋がっており、だからこそ読者はそんな2人の顛末が気になってどんどん先が知りたくなる。
セイディが大学の講義で作ったゲーム「ソリューション」は共産体制をテーマとしたマルチエンディングゲームという点で『Papers,Please』を彷彿とさせる。もちろん架空のゲームだが、実際にプレイしてみたいな、と思った。
サムとセイディのコンビが初めて会社を立ち上げて制作した「イチゴ」の主人公は、おかっぱ髪で、目が細く、性別不詳という設定で、ゲーマーだったら『Undertale』を想起せずにはいられないだろう。(「イチゴ」が2017年にニンテンドーSwitchに移植されて製作者インタビューがゲームメディアに載る展開は、いかにも現実にありそうで笑えた。)
2人が作るゲームには「よきインディーPCゲーム」の香りがする。Steamで「非常に好評」が得られそうな。
イチゴの次に2人が作った「ボース・サイズ」は、「内容が観念的すぎてあまり売れなんじゃあないか」と読みながら思ったが、本当にその通りになった。著者のゲーム観の確かさにうならされた。
日本人読者にとって身近に感じられる要素は多い。サム、セイディ、そしてもう一人の公私のパートナーとなるマークスは、様々な人種的背景を持つ。
サムはロサンゼルスのコリアタウンにある母方の祖父母のピザ店でティーンエイジを過ごす。マークスの父は日本人、母はコリア系アメリカ人。サムの母親やマークスはアメリカのアジア人差別とも直面することになる。
本書の表紙の葛飾北斎はセイディが大学時代壁に貼っていた絵だ。日本に旅行するシーンも出てくる。
「いやぁ、やっぱりゲームっていいよね」と言いたくなるような小説、だったらわかりやすかったんだけど、どう考えてもそういう単純な話じゃない。単純な話ではないところがこの小説の最も素晴らしいところではあるのだけれど。
サムとセイディはあまりにも大きなものを失う。はたしてゲームを作ることは2人にとって幸せなことだったんだろうか? わからない。わからないけど人生は続いていく。そういう小説だ。
人物やゲーム業界のディティールの書き込み、アメリカ社会の反映といった点で、とてつもなく高度な筆力で書かれている。作者紹介によると2023年に毎週のニューヨーク・タイムズ・ベストセラーに何度も入ったそうだが、アメリカで売れる本ってこれくらい技術的にスゴイんだな、ということを初めて体感した。
「飛び抜けて優秀な人物」か「人一倍働き者の人物」しか出てこないあたりに、アメリカ的なものの押し付けを感じたのは事実。あとどうもアメリカ人は別れた元恋人と食事することをなにより大事だと考えているらしい。
ゲームを作り続けることは困難だ。ファミコンが発売されてから40年、未だに最前線で活躍している著名なゲームクリエイターは数えるほどしかいない。
それでもサムとセイディはゲームを作り続けられるだろうか。わからない。わからないけどそうあって欲しいと、本書を読んだ人は誰もが思うだろう。