rhの読書録

読んだ本の感想など

箱男 / 安部公房 (再読)

 映画が公開されたらしいと聞き、いい機会なので『箱男』の原作小説を再読。

 ダンボールを頭から被ったアイコニックなイメージとは裏腹に、ストーリーは複雑怪奇。今まで何度か読んでいるが、どうしても話の筋が頭に残らなかった。

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 今回も、なんだかよくわからない話だなぁ、という感じだったのだけれど「なにがわからないのか」という点に関しては、昔よりはわかった気がするので、そのあたりについて書いてみたいと思う。


 まずこの小説は、ダンボール箱を被って街を徘徊する箱男の手記として始まる。

 現代はもちろん、本作が書かれた当時でさえ、箱をかぶって歩く人がいたら真っ先に不審者として警察に通報されていたに違いないのだが、その当たり前のことを当たり前だと思わせないような、なんとも言えない説得力が安部公房作品の魅力のひとつ。不条理を不条理と思わなくなる、夢の中のような感覚、とでもいうか。

 しかし中盤から、その手記そのものの信頼性が危うくなってくる。書き手は嘘を書いているのではないか? あるいは妄想と現実を混同している?

 そこで読者はある種の不可解な感覚と直面することになる。たとえば「手記形式の小説ってそもそもどういうことだろう」というような。文章の形式としては、まるで今目の前で出来事が起こっているかのように書かれている。でもそれが手記であるからには、それが書かれたのは出来事の後、ということになる。そこには時制のズレがあるのだが、そんなズレは無いかのように書かれ、読まれている。ある種の嘘がある。

 その嘘は、フィクションにおける第四の壁にも似ている。「小説だから」というお約束に寄りかかって都合の悪いことには見て見ぬふりしている読者を、箱男という小説は少し居心地が悪い気持ちにさせる。ストーリーそのものは全然メタフィクションでは無いにも関わらず。

 そしてそのようなリアリティの欠如とでも言うべき自体は、小説の最後までハッキリと解消されることなく終わる。いったいこの手記は誰が書いているのか。この挿話にはどんな意味があるのか。それが明らかにならないまま。だから読んでも話の筋が頭に残りにくい。

 ある章は「このノートの真の筆者が誰であったのか、真の目的はなんであったのかを、君にだけは正確に知らせておきたいと思う」などと書きながら、「そこで、考えてみてほしいのだ。いったい誰が、箱男ではなかったのか。誰が、箱男になりそこなったのか。」と終わる。全然何も明かされていないじゃん。結末部分の「手掛かりが多ければ、真相もその手掛かりの数だけ存在していていいわけだ」という記述が示唆的だ。

 でも本書が描く鮮烈なイメージは心に残る。例えば《Dの場合》のシンプルにエロティックなシーンに、自分は強い既読感を感じた。


 最初に手記を書き始めたのは元カメラマンの箱男「ぼく」で、無免許医師の「C」と看護婦が「軍医殿」を事故死に見せかけて殺すため、「ぼく」の箱を買い取った。様々な記述を基本的に信頼するのであれば、本作のあらすじはそのようなものになると思われる。あまり自信は無いけど。

 いたるところで文章の「挿入」が行われており、それらが何を意味するのか、正直言ってよくわからない。「ぼく」の視点ではわかりえない内容の挿入文については、「軍医殿」が書いているとすると辻褄が合うと思われるのだけれど。全てについて合理的な解釈が可能なのかもしれないし、あるいは一義的な解釈は不可能なのかもしれない。


 「覗きたい」という欲望が、本作では何度も描かれる。ニュース中毒についての考察もその一種だと言っていいだろう。 

 冒頭では、箱男は浮浪者のメタファーなのか、と読者にミスリードしてくる。でもそういう話じゃないことがだんだんわかってくる。何かを覗きたいと思った時、その人はもうすでに箱男なのだ、みたいな趣が前面に出てくる。

 安全地帯から他人を眺めるという快楽。しかし「覗く―覗かれる」という関係は、ふとしたことで逆転してしまうかもしれない。匿名でSNSで悪口を書いていたら、訴訟されてしまうかもしれない、という現代的な状況と実にマッチしている。マッチしすぎていると言っていいかもしれない。

 いや、なにも話はSNSで誹謗中傷するような特別な人だけの問題ではない。「誰かの人生を覗き見したい」という普遍的な欲望が、誰もがスマホを手放せない、一億総覗き見社会としての日本、いや人類総覗き見社会としての世界を作り上げてしまっている。本作はそれを予見しているのである。恐ろしいことであるなぁ。ホントに。

 かつては人と人を繋ぐものとしての可能性に期待されていたインターネットが、結局は個人を小さな「箱」に閉じ込めてしまったようにも見える現代は、ある種のディストピアだ、と決めつけてしまいたい欲望も自分の中にあるが、むしろどちらかと言えば、テクノロジー程度ではそんなに簡単に人と人は繋がれないよ、というあられもない事実を浮き彫りにしただけとも言える。

 「ぼく」(誰だかわからない「ぼく」)は、箱男を、安楽死を待つ病人になぞらえる。覗く者には絶望がある。あるいは絶望が人を覗く者にするのか、よくわからないが。

 箱を脱ぐことがそう簡単ではないのだとしたら、ひとまずできることは、箱の内側の空白になにかを書き続けること。それはただ箱の内側を迷路のようにどんどん複雑にしていくだけの行為なのかもしれない。でももしかしたら、覗く者の絶望をどうにかする手立ての、その可能性を開く手掛かりくらいにはなってくれるかもしれない。それも希望的観測に過ぎないのかもしれないけれど。