スコット・フィッツジェラルドという100年前の小説家と、今の自分には、全然関係が無い。大人になった今の視点に立ってみると。
村上春樹は偉大な作家だ。その村上春樹が最も影響を受けたフィッツジェラルドもまた、偉大な作家に違いない。
と、かつてまだあまり大人でなかった自分は、だいたいそんな風に信じていた。純朴だったのだろう。
でも実際は、フィッツジェラルドは偉大かもしれないし、偉大じゃないかもしれない。自分にはどちらか判断がつかない。今はまだ。
なぜなら単純に、自分はフィッツジェラルドの作品をそれほど多く読んでいないからだ。なんか前回のカミュについての本の感想でも似たようなことを書いたなぁ。でも本当なんだから仕方ない。
『グレート・ギャツビー』は何度か読んだ。『ベンジャミン・バトン』も読んだ。後述する短編集も1冊読んだ。でもそれだけだ。
1988年に出版された『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』に新約エッセイを加え、2007年に「村上春樹 翻訳ライブラリー」に収められたのが本書。
できれば、「ライブラリー」の中の実質的な前作にあたる短編集『マイ・ロスト・シティー』を先に読んでおいた方がいい。そちらの短編の舞台となったアメリカの街に、村上春樹が実際に訪れたエッセイが、本書には載っているから。
一度訪れたフィッツジェラルドの小説世界が、今度は訳文ではなく村上春樹自身の繊細なタッチのエッセイによって、再び脳裏に浮かび上がってくる。そんなちょっとした非日常体験を味わえる。
そんな風に、たった数行の文章から、行ったことも見たこともない場所をイメージする、という営為を現代人はあまり行わなくなってしまった。ネット検索ですぐに画像や映像を見れてしまうから。
それを退歩と捉えるか、それとも環境に合わせた進歩と捉えるかは、人それぞれだろう。現代人はやり投げで動物を狩らなく(狩れなく)なったけれど、それを退歩とは見なす人は少ない。
それはそれとして、ネット検索があるからこそ見られる面白いものもある。例えば本書で村上春樹はスコットとゼルダがかつて住んだモンゴメリーの家を訪れる。詳しい住所まで書かれているが、一応今はプライバシーの時代なのでここでは伏せておく。
その家について「かなりくたびれているが、きちんと手を入れれば50年はもちそう」と印象を述べているが、そのエッセイが書かれて40年くらい経った今、その住所をネットで検索してみると、実際に改装されて立派な見た目の売家になっている。
「ゼルダ・フィッツジェラルドの短い伝記」は出色。村上春樹的フィッツジェラルド観が数十ページに凝縮されている。
ゼルダとスコット。世俗的な観点から見れば、その2つの生涯は1920年代アメリカの好景気に浮かれた「時代の徒花」もしくは「ハッチャケすぎた人たち」ということになってしまうかもしれない。アメリカは「時代の体現者」だった彼らを、大恐慌とともに過去の人にした。過ぎ去った時代は後ろに置いてきたものを顧みない。
でも、というか、だからこそ、と言うべきか、村上春樹は2つの人生の悲哀に、そこはかとない美しさとアメリカ的精神を見出す。そしてその文章は読むものの心をうつ。
「リッチボーイ」の主人公アンソン・ハンターからは、村上春樹の短編集『女のいない男たち』の主人公たちに通じる「悲しきサガ」のようなものが感じられる。またその放埒さには『ノルウェイの森』の永沢のエッセンスがうかがえる。
末尾の「スコット、アーネスト、そして誰でもいい誰か」は、フィッツジェラルドとヘミングウェイの両者と交友のあった編集者の回想録を翻訳したもの。ヘミングウェイによって不当に貶められたフィッツジェラルドの名誉を、この日本においてもあらためて回復しておきたかった、というような意図が感じられる。
読むほどに、遠いはずの100年前の小説家が近くに感じられる。フィッツジェラルドは、多くの優れた小説家と同じように、孤独を見つめていた作家だった。人と人の間に生まれる孤独は、時代によって様々に形を変える。でも孤独そのものは無くならない。読むほどに、その事実にしみじみと思いをめぐらせることになる。その時、孤独はほんの少しだけ孤独ではなくなっている、ように感じられる。