rhの読書録

読んだ本の感想など

<責任>の生成ー中動態と当事者研究 / 國分功一郎 熊谷晋一郎

 なぜ、ある人の行動に対して「責任」を問うことができるのか? 罪を罰したり、反対に免罪したりすることができるのか?

 それはその人が、その行動を自らの「意志」で選んだから。

 でもそもそも意志ってなんなんだろうか?

 実は意志とは、行為を過去から切断すること、なのかもしれない。

 自分の行動の原因は、己の意志というゼロ地点から始まったものであって、それ以前の原因にさかのぼることはできない、という言明。それが「意志」の内実。

 でも本当は、あらゆるものに原因と結果があるわけで、人間の意志だけがそこから自由になれるハズはない。

 「自由な意志」という物語(またはフィクション、あるいはファンタジー)が、現代社会を成り立たせている。でも同時に「意志」が苦しみをも生んでいるのではないか。例えば依存症や精神疾患のような。

 あるいはADHDとASDの当事者の生きづらさを研究することが、意志のありようについて考えるカギになるのではないか。

 國分功一郎氏と熊谷晋一郎氏の公開対談をまとめた本書の中心にあるのはそのような議論だ。


 「する・される」という能動態と受動態の対応は、意志という概念を前提としている。

 しかし古代ギリシャ語などには受動態が存在せず、「行為の対象が外向きか内向きか」という能動態と中動態の対応だけがあった。

 このことから推察すると、意志という概念は自明なものではなく、歴史上のある時点において「発見」されたものだったという推論が導かれる。

 それが國分功一郎『中動態の世界』における中心的議題だった。

 本書はその議論を、熊谷氏らが行っている「当事者研究」と絡めていく。当事者研究とは、障害の当事者が自らを対象として研究する方法だという。

 健常者は身体の内部や外部から得られる情報をまとめ上げて「意志」を作り上げているが、ASDの人はひとつひとつの情報をこれまでの経験とすり合わせることができず、あらゆる情報が新奇なものとして入力されるため、うまく「意志」をまとめ上げることができないのではないか。そのような説が紹介される。


 意志って虚構だよね、と話を単純化してしまえば、ある種の苦しみは確実に減る。

 食べ物を食べすぎてしまうのも、酒を飲みすぎてしまうのも、かつては「意志が弱いから」とされてきた。でも本当は意志なんて無い。全部環境のせいだ。私は悪くない、と。

 でも現実的に人間はあらゆる局面で意志決定をしながら生きており、その意志決定にはなんらかのメカニズムが存在している。それを無視してしまうのはある種の思考停止だ。

 本書は「中動態信仰」とでも呼べるような安直な図式化にも釘を刺している。


 果たして人間は自分の意志で自分の人生を切り開いている「意志そのもの」なのか。それとも環境によって決定されているだけの「意志の奴隷」なのか。

 みたいなことについて普通の人はあまり深く考えないようにしながら生きている。なぜなら考えても答えは出なさそうだから。

 しかしそのような哲学的問題を解決することは叶わずとも、「意志」という観点から自分や他人を見ることには、少なくない有用性があるように思われる。

 犯罪加害者が「完全に自由な意志は存在しない」という話を聞いたことで、初めて自らの罪と向き合うことが出来た。そんな実例が本書では紹介される。

 100%自分に責任がある、と考えると人は身動きが取れなくなる。でも、自分の行動になにか原因があったかもしれない、と考えることで、原因に向き合い対処できるようになる。そういうメカニズムがあるのかもしれない。

 犯罪被害者や加害者、依存症者や障害者だけでなく、これまでの人生でそういったことと縁がなかった人にとっても、本書の議論が響いてくるところはあるハズだ。

 小説や漫画、映画といったフィクションが存在するのは、意志という過去の切断が生む苦しさを、あり得るかもしれない複数の物語によって和らげるためなのではないか。例えばそんなことを、本書を読みながら考えた。