なにかと引用や言及が多い作品なので、読んでみることに。
戯曲をちゃんと読むのは初めてだった。以前、何度かシェイクスピアの戯曲を読もうとしたこともあったけれど、全然頭に入ってこなかったので諦めた。
そんな自分でも、いやだからこそ、確信を持って言える。戯曲未読者がいきなり『ゴドー』を読むのは、確実に順番が間違っている、と。
ストーリーが全然進まない。わかりやすい盛り上がりも無い。場面転換も無い。あるのはほとんど意味をなさない会話と、「劇的」とは言い難い登場人物たちのアクション。
難しいことが書かれているわけじゃない。でも「これってどういう意味なんだろう」と考えこんでしまうと、すぐに読む手が止まってしまう。読みながら何度も寝落ちしてしまった。
読後の感想として、面白かったか面白くなかったかで言えば、どちらかと言えば面白くはなかった。
自分のような演劇無学者にとっては、読む前と読んだ後の本作に対する印象は、それほど大きく変わらなかったかもしれない。もっと演劇に詳しくなれたら本作の意義がより深く理解できるのかもしれないけれど。
しかし「読んでよかった」か「読まなくてよかった」かで言えば、読んでよかった、とも思う。
会話の意図がわからず、頭の中が「はてなマーク」が浮かび続ける。でもそのはてなマークの感触がそれほど悪くない。ごわごわでざらざらしているが、温かみがある。素朴な木工品のように。
登場人物のアクションも、おそらく演劇だったらバカバカしくて見応えがあるんだろうな、と。ラッキーの演説や、帽子を渡し合うところなどは上手い役者が演じたら爆笑ものだろう。
エストラゴンとヴラジーミルは、ゴドーを待ち続ける。ゴドーとは一体何者なのか。
神(ゴッド)のことか、と解釈したくなる。しかし少なくとも現代においては、もはやその解釈はベタ中のベタだろう。
様々な解釈へと誘うこと自体が、作者の仕掛けた魔術であるように感じられる。「ゴドーはゴッドなんだよ」と考えても、「いやいや、読む人の解釈に委ねられてるんだよ」と考えても、どっちにしてもベケットの手のひらの上、というか。
キリスト教に詳しい人ほど、本作にキリスト教的な示唆・暗示を見出すことができるらしい。
でも全然詳しくない自分からすると、何かを言いたいのに言葉が足りなくて全然伝わらない人の姿を延々見せられているような、それこそ言葉で言い表せないような感覚が残った。
でもそれでもどことなく登場人物たちに親しみを感じてしまうのはなぜだろう。ともかく彼らは苦しみもがいている。何に苦しんでいるのか、何を求めているのかがわからないにも関わらず、その苦しさだけが伝わってきて、見る人の同情を誘う、のだろうか。
ハッピーエンドかも、バッドエンドかもわからない。なにかいいことがあるといいな、と希望しながら、日々のゴタゴタと向き合い続ける。そんな本作は人生そのもののようである。でもそんな解釈もきっとベタ。
