昔から、なんとなくいいなぁと思っているものが2つある。坐禅と合気道の2つ。
しかしとにかく人と関わりたくない自分なので、実際にそれらをやってみたことはなく、ただ本などを読んで「よさそうだなぁ」と思うだけである。
曹洞宗の僧である藤田一照氏(禅僧の方を「氏」と呼ぶのには違和感があるが、他に適切な言葉を知らないのでそう呼ばせていただく)のことはYoutubeで知った。この人の本を読んでみたいな、と感じたので、まずは対談録である本書から読むことにした。
自分は宗教的な行いには消極的で、毎朝仏壇に手を合わせたりはしないし、初詣なんかにも行かない。でも藤田氏の説く仏教、禅には、心をひかれるものがある。
その意味では本書の対談相手である詩人の伊藤比呂美氏の立場に近いかもしれない。伊藤氏は仏教に興味を持ち様々な経典などを現代語に翻訳してきたが、仏教のファンタジー的側面(巨大な仏が光り輝く、みたいな)はまるで信じられないと言う。
そんな伊藤氏が、いい意味でズケズケと仏教や禅に関する質問をする。そして藤田氏がそれにさらりさらりと答えていく。仏教用語が結構出てくるが、そのたびに解説してくれるのでわかりやすい。
坐禅、というと普通の人はどんなものを想像するだろうか。精神統一。集中。煩悩を無くす。心を鍛えるためのもの。そんな印象がなんとなくある。スポーツ選手がメンタルを鍛えるために坐禅を組む、みたいな。
しかし藤田氏が説く坐禅はそのようなものではない。そういう「現世での利益」みたいなものを目的にして行うものではなく、むしろそのような現世のルールから一旦降りるためのものというイメージが近いのかもしれない。
一照 坐禅はある意味、生きたまま棺桶の中に入っている姿ですから。生産活動も社会活動も何にもしないで息をしているだけですからね。死ぬシミュレーションといってもいいです。(p156)
一照 すでにそこにあるものを全部活かして「すべてのものとつながって今ここでこうして生きている自分」ということを純粋にやる。自分を自分する、と言ってもいい。澤木興道老師の言葉を借りると、「自分が自分で、自分を自分すること」ですね。(p93)
坐禅というと、とにかく我慢して忍耐力を高めるもの、というイメージがあるがそれも違う。道元いわく坐禅は「安楽の法門」であって、心地よい状態で行うもの、というか快も苦もできれば無い方がいいもの、らしい。
日本でメジャーな禅宗は臨済宗と曹洞宗。前者は公案、いわゆる禅問答を重視するが、藤田氏の曹洞宗は「只管打坐」といって、ひたすら坐禅することを推奨するという。その際は特殊な呼吸法だとか、数字を数えたりといったテクニックを用いない。
技術を高めてエキスパートになるのではなく、常にビギナーであり続ける。それが禅的なスタンスだという。そのことを藤田氏は「テクネー(技術)」と「ポイエーシス(自然な力の発露)」という言葉で説明する。ぜんぜん仏教的でない言葉が飛び交うのも本書の読みどころのひとつ。
実際に伊藤氏に坐禅をティーチングする様子も収録されている。ものすごく当たり前のことだけれど、坐禅は自分の身体を使って行うものであり、ボディワークである。体を動かさないから運動ではない、と考えがちだがそんなことはなく、むしろ全身の微細な感覚を使って行うもので、その微細な感覚を味わうことに坐禅の妙があるらしい。
本を読む、という行為も禅的であるべきなのではないか。本書を読んでそんなことを考えた。
本を読んで学ぼうとする。賢くなろうとする。読んだことをなにかに利用しようとする。そういうのは、結果的にそうなるのは全く問題ない。でもそれらはあくまで読書の副産物でしかない。
読書とは文字を目で追う行為であり、そこで生じる様々な感覚を味わうもの。それが主眼であって、そこからズレすぎるとうまくいかなくなる。
そして読書には初心者も熟練者も本当は存在しない。人それぞれに多様な「読み」あり、より内容の濃い豊かな「読み」もある。でも正しい「読み」は存在しない。だから読みの巧拙も本当は無い。全員がビギナーだ。