rhの読書録

読んだ本の感想など

ハックルベリー・フィンの冒けん / マーク・トウェイン(著) 柴田元幸(訳)

 アメリカ文学史に名を残す作品、ということで、前作『トム・ソーヤーの冒険』から続けて読むことに挑戦。柴田元幸の翻訳で読める幸せ。

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 古いアメリカの文化が登場する、古い小説である。しかも華やかな歴史的事件などではなく、ごく普通の、ミシシッピ川流域の田舎を舞台にしている。

 率直に言うと、その部分に興味を持つのは難しく、なんとかガマンして読んだが、黒人奴隷の文化が描かれている点は興味深かった。

 本作の執筆時点ではすでに奴隷解放宣言が出され、奴隷制は廃止されていた。しかし作中の時代はそれ以前。ゲーム『Fallout4』や『デトロイト ビカム ヒューマン』で描かれる、「アンドロイドがカナダに逃れようとする」というエピソードの元ネタが黒人奴隷の史実からであることは知っていたが、本作はまさにその時代を描いている。

 ハックは黒人奴隷のジムをカナダへ逃亡させようとする。しかし同時に、自分が世話になったミス・ワトソンの「所有物」であるジムを勝手に逃がすことに、罪悪感を抱く。現代の視点だったら「逃がしたったらええやん」なのであるが、「平等」や「人権」という概念が黒人には適用されていなかった当時は、それがリアルな感覚だったんだろう。

 さらに、現代では差別とされる黒人の呼称が頻出する。それは「黒人が差別されていた時代に普通に使われていた言葉」であって、作者に差別的意図が無いのは明白。それでもアメリカでは差別用語などの理由で禁書とされたり、差別用語を取り除いたバージョンが出版されたりしているらしい。


 それほど多くの教育を受けていないハックの一人称で書かれており(タイトルが「冒険」ではなく「冒けん」なのもそのため)、また当時の方言が多用されていて、本書ではひらがなや砕けた口調でそれらを再現している。登場人物の言い間違いや覚え間違いも再現されているが、訳注のおかげですんなり読むことができた。

 試しに図書館で本作の翻訳をいくつか読み比べてみたが、たとえば新潮文庫版の村岡花子訳はかなりキレイな日本語に整えられていて、受ける印象が大きく異なる。岩波文庫版(確か西田実訳)はハックの一人称が「おら」だったりと、今読むとちょっと古風。

 柴田元幸訳の本書は、簡素な中に詩のような美しさがある。ハックがいかだに乗ってのんびり川を下るシーンが何度か挟まれるのだが、その自然描写には思わずウットリしてしまう。ただ、ひらがなが多い上に語彙が簡易すぎるせいで、逆に情景描写を読み解くのに苦労するところもあったが、これはどちらかというと日本語という言語が持つ性質からくる問題なのかもしれない、などと思った。


 少なくとも日本では児童文学として扱われてきたという本作だが、個人的には子供に読ませたい小説ではない。アナーキーでバイオレンスで、悪徳に満ちている。こういう本は親が子に読ませるより、子どもが勝手に読んだほうがいい気がする。

 本作には善人、悪人、どちらでもない人間が登場する。いちおう悪人は悲惨な末路を迎えるが、本作において生の躍動感にあふれているのは、善人よりも悪人の方だ。そして善人にも悪人にもなろうとしない大多数の人々に対する作者の視点はなかなかに冷淡。ハックは善人になったり悪人になったりしながら、どっちつかずの態度で彼らと接していく。

 ハックの父親は、子どもに教育を受けさせず働かせ、酒を飲んでは子どもをムチで殴るという、今でいうDV毒親。読んでいてちょっと胸が痛くなる。

 そんな父からハックは逃げ出すが、必ずしもそんな暮らしすべてを嫌っていたわけでなく、「あまりにムチ打ちが激しいから」という理由で逃亡する。それ以前の、ダグラス未亡人との「文明的」な暮らしにもハックはうんざりしていており、その両方からハックは逃れようとする。

 ややお人好しで周囲に流されやすいハックは、自らの身分を偽りながら難事を切り抜けていくのだが、そんなハックが出会う「王」と「公しゃく」は身分を偽りながら詐欺や盗みを働く小悪党であり、なんとなくハックにとっての反面教師であるようにも見える。やりすぎるとこうなるぞ、という先例として。

 しかし彼らの悪徳が、間違いなく本作の読みどころのひとつになっている。デタラメな演劇で観客を騙すシーンは痛快だし、その後に本格的な「成りすまし詐欺」を働く場面はサスペンス的なハラハラ感が生まれている。

 17章、18章でハックは2つの家柄の復習の連鎖に巻き込まれるが、ごく普通の市民がヤクザ映画みたいな殺し合いをしている様がなんだか空恐ろしい。「こういう人たちが銃社会に賛成してるとしたら恐ろしいな」と日本人の自分としては思う。

 ミシシッピ川流域の住民たちの多くは野蛮でゴシップ好きであり、ことあるごとに誰かをリンチにかけようとする(タールを塗って鳥の羽まみれにして棒に乗せるのが当時のやり方らしい)。その様は現代のSNSで繰り広げられる光景とさしたる違いはないように見えてしまう。

 かつて本書がアメリカで禁書にされた理由は、差別用語の多さゆえだったそうだが、その裏では「こんなアメリカ人の姿を直視したくない」という無意識の抑圧が働いていたのではないか、と勘ぐりたくなる。

 22章のシャーバーン大佐の演説は、そのような付和雷同な人々を大いに皮肉ったものとなっている。しかしそのシャーバーンにしても、しつこくつきまとってきたというだけの理由で老人を射殺してしまう、暴力的な人間として描かれており、「こいつの言うこと聞いたらアカンのではないか」と読者に両義的な気持ちを抱かせる


 最終的にハックとジムは幸せになって「めでたしめでたし」で物語は終わるが、長い冒険を経てハックが成長したとかそういう印象は特に無いあたりに、作者の人間全般に対する冷めた目線が感じられる。

 とにかく出てくるエピソードがいちいちエグみが強い。ここに正義は無いのか、みたいな気分になる。ゲームに例えると『ドラゴンクエスト7』のような。

 ハックがトムと出会うシーンは「そう来るか!」という伏線回収的な驚きがあってアガったが、そのぶん、その後トムが大仰な救出作戦を練るくだりは、正直言って読んでいてイライラした。トムに対して「フィクションの世界に生きる世間知らずのガキじゃん」という感情を抱いた。トムが鉄砲の弾に当たってそのまま死んでいたほうが、子どもの読者への教育効果は高かったんじゃあないか、なんてことまで思ってしまった。そうやってフィクションの登場人物を上から眺めて判断するのは不毛だ、というのはわかっているけれども、素朴な感想として。

 物語の辻褄という観点で言っても、トムと出会った時点でサイラス一家に事の顛末を説明していれば全ては丸く収まったはずだし、そのあとすぐに悪役の王と「公しゃく」も退場している。片付けるべきことはすべて片付いてしまっている。しかも最後に脱出作戦はすべてトムの仕組んだ茶番劇だったことが明かされる。さながら、大したストーリーでもないのにラストで「実はこの物語はゲームの中で…」みたいなメタ展開を仕込んで、してやったり感を出すタイプのクソゲーのようなストレスを感じた。

 このエピソード、丸ごといらないんじゃないか、と思っていたら、訳者あとがきによるとヘミングウェイも「あそこは読まなくていい」と述べていたらしい。そのあとで訳者なりの擁護はしているけれど。

 しかしこのエピソードには、様々な困難に生身でぶつかりダーティーにならざるを得なかったハックと、共同体の保護の中でしきたりに従うことを頑なに決めているトムとの対比が描かれている、と考えれば、その存在意義には納得できる。読んでてストレスが溜まるのは変わらないけれども。


 口語を用いた画期的な語り口や、当時のアメリカ文化を描いたという歴史的な意義のみにとどまらず、善も悪もごたまぜにして生き生きと生きる人間を描いた小説として、時代を超越した価値を感じた。読んでよかった。