自分はかつて、町田康の文章を読むことで「開眼」したところがある人間である。読んだり書いたりすることって面白くていいんだ、こんなに自由に、やりたいように書いていいんだ、考えたいように考えていいんだ、と、決定的に知らしめられた。わからされた。
でも自分が具体的になにをどう書けばいいかというと、それはもちろんハンパなく難しい問題だった。ただマネをするのはクソダサだし。素晴らしいからこそむしろ距離を取らないといけなかった。自分のアプローチを見つけなければならなかった。
いちおうそれなりに長くブログなんかを書いてきたことで、昔よりは、自分の書き方が出来てきている感じはする。昔よりは、苦しくなく書ける。
でも、そのことが、つまり「楽に書けるようになったこと」が、はたしてあの頃感じた「文章の自由」に近づくことなのか。むしろ楽してるんじゃないか。自動的なものに流されてるだけなんじゃないか。わからない。そのうっすら感じていた「わからなさ」に、本書は気づかせてくれたのかもしれないし、そんなのは全部自分の錯覚、思い込みなのかもしれない。全然レベルが違う話なのかもしれない。やっぱりわからない。
以下、要約。
いい文章を書くにはどうしたらいいか。現実を文章に変える『変換装置』の精度を高めること。そのためにはなるべくたくさんの本を読むしかない。
なにを書けばいいのか。『心の錦』について書けばいい。個人の『内実』を書けばいい。自分の心にある、大事だと思うこと、困難なこと、本当に書きたいことを書く。
でも内実を書くのは難しい。なぜなら個人の内実は、世間にとっても、あるいは自分自身にとっても、取るに足らない、ごくささいな、くだらない『ゴミカス』や『糸クズ』のようなものだから。
平常時の人間は、心に浮かんだ内実=糸クズを『デフォルトの善悪』や『雑な感慨ホルダ』に入れて処理しようとする。法律は正しくて悪人は悪い、とか、自然は良くて人工は良くない、といった、プリセットな考え方を用いることで、自分の中にある考えを分別して済まそうとする。そうしないと不安だから。あるいは単に忘却してしまうこともある。
そのような雑な分別に流されることなく、糸クズを文章として表出することができたとき、それは書いた人と読んだ人にとっての救済になりうる。「うまく言えた!」「よく言ってくれた!」っていう感じで。
ではよりよい文章を書くためにはどうしたらいいか。書きながら自分の書いたものを読み、読みながらその先を書き、と、書く瞬間に意識を集中し続けること。音楽のアドリブのように。雑な感慨に流されぬよう気合を入れて。『いけず』や『刻み』といった技巧も用いるが、あらかじめ決めてそうするのではなく、その時の判断で。そうすることで文章に『ノリ』が生まれる。
以上が本書の、自分なりの要約、ということになるだろうか。『』内は本文内に登場する言い回しである。ただそもそも、文章の流れを無視した要約という行為そのものが、この本が言い表そうとしていることに反しているかもしれない。だとしたら申し訳ない。
方言や古い言葉を多用しているにも関わらず、異様にリーダビリティが高く、まるで首根っこをつかまれて顔面を押し付けられているようにグイグイと読めてしまう、そんな町田康文章の秘訣が、本書ではつまびらかにされている。その内容は、著者の文章をこれまで読んできた者なら、いちいち納得できるものとなっている。
さらにスゴイのが、『ノリ』のある文章の書き方を、実際に『ノリ』のある文章によって解説するという、いわば文章上の「言行一致」をなしとげていること。自分もこれまですこしばかり「文章の書き方」についての本を読んできたけれど、ここまで説明と実践が一致している本は、記憶にない。
本当のことを書くために、言葉のかぎりを尽くしながら、己の持つ今を出し切ろうとする、まさにその様を、実況中継のように書く。そうしてこしらえられたアツアツの言葉たちが、火の玉のように読むものに内奥に飛び込んでくる。
その瞬間に思ったことを書く。しかもただ書くのではなく、その瞬間、その流れの中で、つねに選ぶべき言葉を選んで書く。その判断は、常識に頼らず、自分自身が培ってきたものによって行う。そしてひたすらにそれを繰り返す。
自分の筆力の限界により、本書の説く「書き方の秘訣」をまとめるとこんな感じになり、なんか簡単そうに見えてしまうけれど、もちろん全然簡単じゃない。
個人的な思い、すなわち本書で言うところの『心の錦』は、それこそ『糸クズ』のような、ささいでちっぽけなものだ。普通は、そんなものは無視してしまう。なぜならそんなものに関わっていたら現実世界で役立たずの烙印を押されてしまったりするから。
「で、それって何の役に立つんですか?」と聞かれたら一発で吹き飛んでしまう。それほど個人的な思いは脆弱なものだ。
それでもある種の書き手は、個人的な思いを文章で表現することに、全身全霊をかける。非常識だと後ろ指をさされる覚悟で。マトモな覚悟でできることじゃない。
それこそが文学。と、カッコよく言い切りたい気持ちと、「でも文学ってカッコつけて言うような時代じゃないよナー」と思う気持ちが二つ、我にあり。実際のところ、それをどう呼ぶかはたぶん本質的な問題じゃないんだろう。ちなみに本書には「文学」という言葉の影はほとんど無い。多分一度も出てきてないんじゃないかと思う。理由は本書を読めばおわかりいただけるハズ。
ただ、時代を超えて世に残る文学等の作品には、多かれ少なかれ「個人的な思い」が刻印されている。陳腐な表現だけど、それが人間の機微に触れているということなんだろう。
それってお笑い芸人等がやる「あるあるネタ」とはどう違うのか? というと、確かに似ているところもある。みんなが知ってるけど、まだ言ったことがないことを言う、という意味では。
でも通常の「あるあるネタ」は、みんなが安心して「あるある~」と言えるようなことを言うものだ。対して文学におけるそれは、みんなが「そんなものはナイナイ」と言っているところに「いや、本当はあるんじゃないの?」と言うところに価値がある、と自分は思う。さもなくば「あるある」だけで終わってしまって後には何も残らない。
「あるあるネタ」みたいな小説・映画・漫画のほうが、世の中には多いし、別に多くてもいいんだけど、自分は「ない」とされるものを「ある」と言っている方の作品をなるべく読みたい。ついでに言うと、本当に面白いお笑いにも、そんなようなところはあるんじゃないかと思う。
と、なんだか偉そうなことを言ってしまった。ただ本を読んで感想を書いているだけの人間が。
特に終盤の章からは、少しでもおもろい文章を書いている人が増えてほしい、そしてそれを読みたい、という著者の気持ちが伝わってくる。
同時に、こんなおもろくないブログ書いててすんません、という気持ちになる。それは自分が。
文章を修行すること。頭の良さげな文章を書いて尊敬を集めるとかでなく、ウケる文章を書いてネットでめちゃバズりするでもなく、面白い文章を書いて自分と読んだ人を面白くすること。そんなことしてなんになるの? いいじゃん、面白いんだから。そんな修羅の道を進むことは誰にもできることではない。でもその深淵をのぞきこむことはできる。たとえば本書を読むことによって。
内容とは、そいつそのもの、文章とはそいつそのものちゅうこっちょ。どうあがいたっての。だから俺がこれまで示してきたのは、自分そのものの文章に辿り着く道のりちゅうこっちょ。人間は自分の顔を自分で見ることが出来ない。だけど変換装置を使い、いけずを行い、糸クズが蠢いて文章が駆動すれば、そこに立ち現れる世界は、自分が映した世界ではあるが、間違いなくそこに自分も映っているのである。(33 高尚の罠――「内容の罠」と「表現の罠」)
