「天文学によると、宇宙は膨張しているらしいが、その外側がどうなっているのか知りたい」という新聞の投書を読んで、著者は気づく。
偉い学者に「宇宙は膨張している」と言われれば、なんとなくみんな納得したふりをする。でも内心では「それってどういうこと?」と思っていたりする。なのに「大人同士の暗黙の了解」でわかったフリをしている。
知識を持った人間の方が、わからないことに対して「わからない」と素直に言えたりする。「それでも知りたい」と問うのは、素人の無知さであると同時に、勇敢さでもある。そして自分は幸か不幸か、無知な人間だ。
だからあえて問いたい。「それでもほんとのとこ、どうなってるんだ」と。
というエッセイから始まる、エッセイ集。ただ、全体の割合で言うと「未知」に関しての文量は冒頭の数篇だけで、その後は著者の興味の対象である怪談、ホラー映画や小説、オカルト、そして悪役についての考察などに話題が移っていく。
中島らもの小説やエッセイはいくつか読んだことがあるが、本書もいつか読みたいと思っていた。印象的なタイトル、そして表紙の著者近影。これほど「僕にはわからない」という言葉とマッチした立ち姿がこの世に存在するだろうか? なんてことを思っちゃうほど、つきづきしい。このたびようやく読むことができた。
中島らもの文章はわかりやすい。脳髄に直接スコーンと入ってくる。そんな明晰な文章でもって、本書は科学と非科学のあいだを行ったり来たりする。
超能力に対する擁護には結構な苦しさがある。「超能力は調子が良くないと使えない」「調子が悪い超能力者はトリックを使う」と言うが、それは超能力不在論の小さな穴を突いているだけで、超能力存在論の擁護にはなりえていない。今やオカルト的なものはネットの情報伝達速度やスマホの高画質な撮影機能などなどによってすっかり下火である。
代替医療がプラシーボ効果で自己治癒力を引き出しうるのは、本書に書かれている通りの事実だ。しかし「重要なことは科学的手法を用いることではなく、病気を治療することだ」と書くが、現実には代替医療に頼って標準医療を受けずに健康を害してしまう人がいる。
宗教的修行者が苦行によって自力で脳内快楽物質を出すのも、薬物を使って脳内快楽物質を出すのも、同じではないか主張するが、しかしそれはそれとして、薬物を乱用して生き方が自分にとって望ましいものだと、本当に考えていたのだろうか。
と、書くとなんだか自分が良識の代弁者になったみたいで嫌になる。そういうことを言いたいんじゃあない。自分はオカルト的なものをみじんも信じていないが、誰かが超能力を信じることを咎めようとは全く思わないし、むしろ尊重したい。クスリは、まぁ日本に住んでるなら日本の法律に従ったほうがいいんじゃあないかナ、とは思うけれど、酒や煙草やカフェインは合法なのでじゃんじゃんやったらいいし、それで身を持ち崩しても基本的には個人の自由。
ただ、自分が考えたいのは、なんで著者は「苦しいロジック」を持ち出さなければいけなかったのか、ということで、単に良識に従いたくないのであれば「超能力、あるかもしれんやん」「おくすり、気持ちいいからええやん」という論理のほうが、よっぽど筋は通っている。説得力があるかどうかは別にして。
気をつけなければいけないのは、正しくないといけない、という考え方は、時に間違っていることがある、ということで、それが一番わかりやすいのがフィクションの場合で、正しい人間が正しいことをするだけではフィクションは成り立たない。そのことは本書の第4章にあたる「わるもの列伝」を読むことでもよくわかる。
正しい考えと間違った考えを分けるものは何か。人間の心に善と悪があって、善の心から正しい考えが発生し、悪の心から間違った考えがやってくるのか。たぶんそんなことはない。じゃあ考えそのものに善悪は無く、人や社会がそれをヒヨコのオスメス判別みたいに善と悪に選り分けるのか。なら善悪はただの人工物か。
わからない。わからないが、わからないままだと困るので、ひとまずわかったことにしておいて、日常生活を送っている。あなたもわたしも。
そもそも、今現在の自分が感じる「正しさ」は、インターネット検索によってもたらされたウィキペディア的知性がその何割かを占めている。まさにそれと同じことを著者は「現代の目線で太古の宇宙観(巨大な象が世界を支えてる、的な)を笑うのは間違っている」と指摘している。
そう考えると、自分の中にある正しさの根拠がわからなくなってくる。わからない状態のほうがマトモに思えてくる。
わからないものを求める、という人間の本質。それが面白いフィクションをつくるのに役立ったりする。その一方で、ポスト・トゥルースみたいな事態を呼び寄せてしまったりもする。
人間の知性、ならびに言語は、現存しないものを思い浮かべてしまうことができる。例えばここに「カモノハシ型戦車」と書けば、読んだ人の脳内でカモノハシ型戦車の建造が始まる。そんなものは存在しないのに。
そして、現存しないものが、人間の行動という現存を変容する力を持ちうる。というか現代人の生活は、ほとんど現存しないものを中心に回っている。食べ物を作ったり狩ったりして生きるだけのシンプルな人間社会は、だいぶ昔に終わってしまったらしい。2020年代の現代人が追い求める「バズリ」にも、もちろんなんの物理的実体も無い。
人間社会は、「非現存」、つまり現実に現物として存在しないナニカを、そのアタマの上に載せて、それを崇めながら営まれている。それは今に始まったことじゃない。
中島らもは、時代の主流な「非現存」に対して、別路線の、オルタナティブな「非現存」を求めようとしていた。アフリカの呪術医に会いに行ったりして。現代から見ると、偏った方向に突っ走っているように見える。でもそれを愚かだと笑うのは現代人の驕りと言わざるを得ない。っていうか、自分の中にある「正しさ」への無批判な信奉を疑ったほうがいいんじゃないかな、と思う。主に自分自身に対して。
じゃあお前はオカルトや疑似科学を信じるのか、と聞かれたら、別にそういうことじゃない。そういうものはシンプルに正しくないと感じ、考えている。
ただ自分の中にある「正しさ」は、過去に誰かが拵えたものであって、それを保証してくれる人は存在せず、なのに自分はそんな不完全で中途半端な「正しさ」を、完全な「正しさ」だと思い込んで生きていて、そのことに気づかない。気づけない。むしろ「正しさ」は自分の中に勝手に住み着くもので、そこから完全に自由になることは、自分にも、おそらく誰にもできない。
「わからない」ままであり続けるのは、時に危険で、うっかり道を踏み外すかもしれない。でも本当に厳密なことを言うと、人はなにもわからないままに生きて、なにもわからないままに死んでいく、とも言えるわけで、そこに違いはないのかもしれない。中島らもはそんなことをずっと見つめていたのかもしれない。
