タイトルに「メタルギア」という文字列が。これは読むしかない。と思って軽々しく手に取ったが、読むのにえらく苦労した。
著者はアフガニスタン系アメリカ人。本作の中にもアフガニスタンのこと、アフガニスタンでの戦争のこと、イスラム教のことなどが中心的に登場し、そのどれにも自分の中に知識がないため、たびたび読み止めて頭の中を整理したり、ネットで調べるなどしなければならなかった。
カリフォルニアに住むティーンエイジャーらしき少年。両親はアフガニスタン出身。
貧しい暮らしをしているが、あの「コジマ」の新作を遊ぶため、なんとかお金をかき集めて、ゲーム『メタルギアソリッドV:ファントムペイン』を手に入れプレイする。
メタルギアソリッドVの序盤のステージ、1980年代のアフガニスタン。ちょうどその頃、少年の父はムジャヒディン(聖戦の戦士)としてロシア兵と戦っていた。戦争の後遺症に苦しむ父を救えるのではないか、と考えた少年はマップを南に進む。するとそこには父の故郷のロガールがあり、父がいて……。
というのが表題作の短編の導入。現実の過去とゲームとが奇妙に入り交じる。「きみ」という二人称で語られることで、ゲームのプレイヤーと、プレイヤーが操作するキャラクターがシームレスに切り替わるのが上手い仕掛け。念のため未プレイヤー向けに書いておくと、実際のゲーム内にロガールは登場しない。小説の描写どおりにマップを南に進んでも岩壁があって進めない。
本作は小説でありフィクションだけれど、「父の戦場が舞台のゲームを、息子がプレイする」ということは現実にも十分起こり得ることであって、自分のように戦争のない日本に生きる者は、まずそのことに何かしらの感慨をうけるだろう。
少年は自転車でゲームショップに行き、メタルギアソリッドVのソフトを受け取りに行く。自分も昔、その前作『メタルギアソリッド ピースウォーカー』を買うために、快速列車で一駅隣のビックカメラまで(ビックカメラのポイント欲しさに)自転車をこいで買いに行った思い出がある。
一方には父親が戦争に参加した少年がおり、他方には戦争と全然無縁な少年がいる。そしてそのどちらもが同じゲームシリーズを楽しみに、自転車をこぐ。この世界はそんな風になっている。
『メタルギアソリッドV』が出てくるのは最初の短編だけで、あとの短編はアフガニスタンのこと、戦争のこと、イスラム教のことなどが中心的なテーマになっている。
「マジックリアリズム小説」と評されている通り、現代を舞台にしながら、神話的な「ふしぎなこと」が、自然にそこにあることとして発生する。人が羊や猿に変身する。誘拐された子どもの身体がバラバラになって郵送されてきて、それを母が縫い合わせる。
小説的な実験もある。冒頭から後半まで句読点(。)がまったく無い短編。『ゴドーを待ちながら』のパロディ。
アフガニスタンやイスラム教について小説を通して知ることができる。というのが自分にとっての本書なんだけれども、それが真っ当な読み方なのかどうか、かなり自信がない。そんなことは「基礎教養」として知っておくべきで、もっと「文学的な含意」みたいなものを読み取るべきなのかもしれない。メタルギアをプレイするならそれくらいの勉強はしとけよ、と自分でも思う。
でも無知な自分は、本書を通してほぼ初めてそういう基本的なことを知った。だから自分にとって本書はそういう本になった。そこに正しいも間違いもない、と思いたい。
イスラム教のことを理解も納得もしていない自分でも、本書を読むことで、一時的にだけれど、イスラム教徒としての時間を生きることができたように感じる。まるでゲームをプレイするみたいに。
というと月次な褒め言葉を並べているのかもしれないけれど、やはり実際にそう感じたんだからしかたない。
イスラム教の「常識」として、たとえば一族の都合で結婚相手が決まったりする。あるいはなにかのお礼に娘を嫁として差し出したりする。現代日本人の自分としては到底共感できない。共感、という言葉が軽いのであれば「心の底からの納得」、と言ってもいい。
でも小説を通してなら、「一旦」小説内に生きる人間になって、「一旦」共感することができる。女性の扱いが違うのも、戦争が起こるのも、優先順位が現代日本人と違うからで、そこには環境という大きな要因が絡んでいる。決して悪徳を為そうとしているのではない。
それにそもそも全てが共感不可能なわけじゃない。親に決められた結婚に背いて駆け落ちする娘。Tシャツにセーラームーンやトトロやナルトを刺繍して着る娘。違う世界に住んでいても、同じ人間であるという、ムチャクチャ基本的なことがそこにある。
第二次世界大戦時、日本人は戦争を自然災害のように受け止めた、という言説をどこかで読んだ覚えがある。しかし本書にも、同じように戦争を災害的に受け入れようとする人々が出てくる。そこに国は関係ないのかもしれない。
もし自分が著者の立場だったら、アフガニスタン人としてアメリカの矛盾を書くとか、逆にアメリカ人から見たアフガニスタン人の苦しみを書くとか、そういう安直な方向に流れていってしまうだろう。でも著者はそういう立場はとらない。
アメリカの言葉で、アフガニスタンのことを書く。でもアメリカ的な目線から批評的に書くことは周到に避けている。
メタルギアシリーズの生みの親である小島秀夫は、同作のテーマを「反戦・反核」であると語っていた。戦争を描くことを通して平和を希求すること。それは本書にも通じているように思われる。
本書の場合は、いきなり戦争を描くのではなく、普通のアフガニスタン人や、普通のアフガニスタン系アメリカ人の生活を描く。小説的なマジックを用いながら。
そしてそのいずれの生活にも、様々な形で戦争が影響を及ぼしている。ある者はゲームを通じて過去の父がいる戦場に赴き、ある者は戦争の後遺症に苦しみ、ある者は猿に変身しタリバンと手を組み猿の軍団を率いて民兵と戦う。
小説的なマジックがあるからこそ個人の生活が確かなものとして感じられ、個人の生活が浮き彫りであるからこそ、戦争の哀しみが際立つ。教条的でバーチャルな「反戦」とは異なる、リアルな手触りがそこにある。
