二人は『村上柴田翻訳堂』という、優れた英語小説を復刊または新訳するシリーズを立ち上げ、2016年から計10冊を刊行している。本書ではその計画の立案段階でにおこなわれた対談から、刊行された各作品にまつわる対談(刊行された各作品に収録されたもの)までを読むことができる。
自分はハードカバー版を読んだが、タイトルに『増補版』がついた文庫版には、『翻訳堂』の10作全ての対談がまるっと収められており、大変オトクになっている模様。今から読むなら文庫版一択。
読むほどに、翻訳って大変な仕事だな、としみじみ感じ入る。
自分が子供の頃は、まだギリギリ文学がエラいものだった。権威のあるものだった。だから文学の翻訳という行為に対しても、とにかくスゴいことだ、というイメージしか持てていなかった。
でも今や文学はそれほどエラくはなくなったように見える。結果的にそれでよかったのかもしれないし、文学が持つ「価値」や「効果」みたいなものは昔と少しも変わっていないと、個人的には思うのだけれど、世の中の受け取り方が変わってしまった。
ともあれそんな権威という名のベール、あるいは幻想が無くなった現代の目線で見ると、いかに翻訳という作業が地道でコツコツとした作業であるかということが、より想像しやすくなった感がある。
本書の冒頭の対談も「いい本なのに絶版になってしまった翻訳小説」という世知辛い話題から始まっている。せっかく時間をかけて翻訳したのに、絶版になっちゃうなんて……と、一読書好きとしてはナイーブなことを思っちゃうけれど、実際はむしろ、時間という試練を乗り越えて受け継がれる作品の方がその数は少ないんだろう。
文学作品の翻訳が「コスパ」の悪い営為であろうことも、素人の自分でもだいたい想像がつく。何かしら話題性のある本であればまだしも、いわゆる「古典の名著」を翻訳したところで売れる数はたかがしれている。
にも関わらず翻訳は高い正確性が求められる作業であって、一文ずつなるべく正しい情報を、読みやすく、かつできることなら原文の雰囲気を維持したまま訳すのが理想という、ハードなもの。
まして今は「翻訳なんてAIで一発でしょ」と考えている人のほうが多そうだ。実際のところ翻訳という作業は意味内容の正確性が重要なものであって、近似値的なものをアウトプットしてくる昨今話題の生成AIとはあまり相性がよろしくないように思われるのだけれど。
そんな中でも、とにかく翻訳がしたい、いい作品を多くの人に届けたい、という熱意ある方々の努力の賜物によって、我々読書好きは世界各国の様々な作品に日本語で触れることができているのであって、どれだけ感謝してもし足りない。足を向けて眠れない。穴があったら入りたい、はちょっと違うか。
もはや現代日本における翻訳の二大巨頭と言っていいほど、莫大な量の作品を翻訳してきた両名の対談には、実にさまざまな作家や作品の名前が登場する。誇張とかではなくリアルな数字として、おそらく2人の100分の1くらいの読書量しかないであろう自分にとっては、聞いたことはあるけど読んだことはない名前や作品ばかりだけれど、いったん固有名詞を頭に入れておくだけでも、次に読む本を選ぶときにふと役立ったりする。とりあえずフィリップ・ロス『素晴らしいアメリカ野球』をいずれ読みたいと思う。
2人が称賛する藤田和子氏によるブローティガンの翻訳は、自分もたまたま手にとって引き込まれた経験がある。開いた瞬間に「これは何かが違う」と感じた。いったいどんなやり方をすれば翻訳でそんなマジックを起こせるのだろう。
さらに本書には柴田氏単独による講演「日本翻訳史集中講義」も収録されている。明治時代の翻訳がいかに「言文一致」へ向かっていったかを学ぶことができる。
坪内逍遥や森鴎外『あひゞき』はわりと有名だが、森田思軒、黒岩涙香という名前は初めて知った。先進的な理念を持ちながらその実践を見る前に亡くなってしまった思軒と、時に原作の改変も辞さない奔放なスタイルだからこそ現代に通じる実作を残した涙香、という対比が大変おもしろかった。
村上柴田両名が翻訳した文を読み比べる、という対談もあり、フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』冒頭や、チャンドラー『大いなる眠り』の「タフでなければ~」で知られるセリフなど、歴史に残る名文を、同じく日本翻訳史に残るであろう2人の翻訳で読むことができるという、必見の企画になっている。
より逐語的でストレートな印象がある柴田訳と、文章の響きやリズムを重視した村上訳。それぞれに味わいがある。
村上春樹のストレートな創作論が随所で語られているのも見どころ。長年の盟友である柴田氏だからこそ、深い部分を引き出せているのかもしれない。
村上 (中略)モラリティをもってしないと描ききれない非モラルな状況があります。アイロニーをもってしか語れない幸福や安寧があり、ユーモアと優しさをもってしか語れない絶望や暗転がある。僕はそう思っていつも小説を書いています。
村上 (中略)でも基本的に言えば、僕にとって短編小説というのは、一種のゲーム感覚というか、ひとつの言葉から、ひとつの断片からどんな話を紡げるかという実験であることが多いですね。(中略)なんにせよ「これは私にしかできない」という個性的なシステムを自分の中にこしらえてしまうこと、それが何より大事です。言い換えれば、どこにでもあるような小説を書かないこと。たとえ上手くなくてもいいから、自分にしか書けない物語を創り出すこと。ペイリーやカーヴァーがやってきたのも、まさにそれなのです。

