rhの読書録

読んだ本の感想など

手段からの解放 / 國分功一郎

 哲学の本。ではあるけれど、決して難解ではない。難しい話も、何度も違う言い方で噛み砕いて説明してくれている。

 第1章が論文で、第2章がその論文を元に構成された講話を採録したもの、という構成になっている。同じ議論を、書き言葉と話し言葉で2回説明してくれるので、より理解が深まりやすい。

 とりあえず本書を読んで得た自分なりの理解をまとめていく。詳しい理論的な話は、自分のような素人が書いても不正確かつ伝わりにくくなってしまうと思われるので、直接本書を読んでいただきたい。ひとつヨロシク。



 著者の國分功一郎による、シリーズ哲学講話の前著『目的への抵抗』では、目的という概念への(哲学的な意味での)批判が行われた。本著はそこから進んで、どのようにすれば「手段」というものから自由になれるか、ということを、カント哲学を論じながら問う。
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 目的を持って生きること。それ自体は人間にとってごく自然なことだ。カントの哲学で有名な「定言命法」は、人間が善を先見的に知っていること、つまり「人間にはあらかじめ目的がインストールされている」ことを意味している、という。

 さて、どうしてなのかわからないけれども、何が道徳的で何が道徳的ではないかが人間には分かっています。これは言い換えれば、人間には既に自分のあるべき姿が分かっているということです。カントはこのあるべき姿を人間にとっての「目的」と言いました。人間には、あらかじめ目的がインストールされている。
 目的があらかじめ人間にインストールされているということは、人間はこの目的から逃れられないということです。つまり、人間は道徳的であろうとすることを義務づけられているわけです。[p156-157]

 一方で、定言命法によって成されない善も存在する。「間接的に善いもの」、すなわち設定された目的にとって手段として有用なもの。

 カントは「それが善いことだから行う」という定言命法にかなう行為を「高次の欲求能力」と呼び、それに対し例えば「善いことをすると気持ちいいから善いことをする」というような「〇〇にとって善いから行う」という行為を「低次の欲求能力」と呼んで区別する。

 カント自身は低次の欲求能力について、「あらかじめ設定した何らかの目的を達成するのに役立つから善い」という理由で何事かを為すことと言っています。「あらかじめ設定した目的」とは、たとえば生存とか安楽な暮らしといったもののことです。
 いい会社に入りたいから受験勉強をするのは低次の欲求能力の実現です。「いい会社に入る」という目的・・のために、受験勉強が手段・・として有益であると考えられているからです。[p182-183]

 これは自分には、なんだかものすごくムズカシくて、意識の高いことを言っているように聞こえる。レベルの高い善行と、低い善行がある。そしてレベルの高い善行とは、「社会のための善」などではないどころか、「自分にとっての善」ですらない。とにかく「善は善なので善をなすこと」が、カントさん的にはレベルの高い善だということになるらしい。

 それは置いておいて、低次の欲求能力=間接的な善は、それ自体は危険ではない。

 しかし目的のための手段の正当化が全面化すると、危険な状況が起こり得る、と著者は言う。例えば全体主義のような状況では、あらゆることが全体のための手段としてしか存在を許されなくなる。

 その中[全体主義についての考察の中:引用注]でアーレントは、全体主義的な支配においては、「チェスのためにチェスをすること」が許されないのだと言いました。どういうことかと言えば、単にチェスをする場合でも、「戦略的思考を身につける」とか「勝負強くなる」とか言った何らかの目的に奉仕するのでなければならないということです。ただ単にチェスを楽しむのは、全体主義においては許されないのです。構成員全員の生のすべてが、全体の目的・・に奉仕しなければならないからです。[193-194]

 シリーズ前著の『目的への抵抗』の中で「あらゆる目的は手段を正当化する」というハンナ・アーレントの議論に依拠して「目的」を論じた著者は、本著でカントを読み進めるうちに「手段化」の危険に思い至る。

 最大の問題は目的というよりも手段であり、手段化ではないかと考えるようになったのです。実際、アーレントが指摘しているのも、結局、最悪の手段・・が目的によって正当化される危険性に他なりません。チェスさえもが手段化される危険性をアーレントは訴えているのです。

 (前略)アーレントは全体主義社会を目的の概念から分析する過程で、ナチの政治家ハインリッヒ・ヒムラーが全体主義社会の理想とする人間を定義して述べた言葉、「それ自体のために或る事柄を行うことの絶対にない人間」を引いています。
 誰がどういう文脈で口にした言葉であるかを隠しておいたら、このような人間は現代では望ましいとされるのではないでしょうか。現代社会が求めているのは、何かをそれ自体のために行うことがない人間ではないでしょうか。何事をも何らかの設定された目的のために行い、何事をも手段として有用かどうかという物差しで測る――そういう人間ではないでしょうか。[p202-p203]


 また「手段化」は、人間の快の享受さえ奪いかねない。どういうことか。

 カントによると、定言命法にかなう善は人間に「快」をもたらす。そして他に人間に快をもたらすものに「美しいもの」「崇高なもの」そして「快適なもの」がある。日本語だと紛らわしいが、「快」と「快適なもの」という別のドイツ語を使っているという。

 人間を快適にするもの。享受する快。その典型がタバコ・コーヒー・アルコールなどの嗜好品で、カントはタバコについての論考も書いている。

 嗜好品を味わうことそのものには目的も手段もない。嗜好品を味わうことによって人間が成長するようなことも基本的にはない。このことを指してカントは享受の快を「低次の感情能力」と呼び、「何かを享受することのためだけに生きるのは、人間のあるべき姿ではない[p157」」とまで言っている。ただしカントは「享受のみの生」を否定しているのであって、「享受の快」そのものを否定しているわけではない。

 「享受の快」は目的や手段とは無縁である。しかし容易に目的のための手段におちいってしまう。たとえばワインを飲んでただワインを味わうのは享受の快だが、「明日の仕事に備えてよく眠るためにワインを飲む」というような場合、ワインは手段になっている。

 さらにそれが行き過ぎた状態が「依存症」で、特定の化学物質(婉曲表現)を使用して快感を得ることは、一見すると「享受の快」そのものに見えるけれど、ひとたび依存状態に陥ると、「苦しみから逃れるための手段として化学物質を使う」という、いわば100%の手段化状態になってしまう。


 「手段化」を逃れるためにはどうしたらよいか。それぞれの個人的な「享受の快」を追い求める、というのがひとつの筋道になりうる。しかしただシンプルに快適なものを味わうという方法は、現代では通用しないかもしれない。

 カントの時代、「快適なもの」の判断は人それぞれだった。しかし現代では資本主義、消費社会、文化産業が、「何が快適であるか」をコントロールしようとする。

 たとえば、土曜日にテレビをつけると、今流行のお店を紹介する番組が流れています。もちろん、次の日にその店に行ってもらうためです。そして、その人は「これが快適なものなのだ」となんとなくそう学ぶ。そういうことを続けていたら、つまり、マスメディアから流れてくる「これを享受せよ」というメッセージばかりを受け取っていたらどうなるでしょうか。[p164]

 社会からのコントロールに対抗するにはどうしたらいいだろう。それは自らの経験を大切にすることだと著者は説く。

 それは美の判断の経験を大切にするのと同じくらいに、快適なものの経験を大切にすることです。何かを享受する機会を、更には、何かを享受することを学ぶ機会を、産業に奪われないようにすることです。[p164]

 享受の快を大切にすることは、一人一人の自分なりの感性や感覚の養いを大切にすることです。そしてそれは単に個人的な問題ではない。消費社会に取り囲まれている以上、これは政治的、社会的、経済的な問題であるのです。[p165]

 経験と習慣。それが現代社会によって損なわれた主体を取り戻す筋道になるのではないか。そのような予感を語るあとがきで、本書は締めくくられる。



 手段の正当化、あるいは手段化、という問題そのものは、おそらく多くの人が共感できることだろう。

 古今、さまざまなフィクション作品は「目的のために他者の犠牲をいとわない者」、つまり他者を手段にする者を「悪」として描いてきた。自分が最初に思い浮かぶのはマンガ『ジョジョの奇妙な冒険』における「悪」だ。自らのために弱者を利用する敵は必ず敗北する。それが『ジョジョ』のルールだ。

 目的のために手段を突き詰めること。つまり効率を求めること。かつて村上春樹が効率という言葉で、原発事故と、それを引き起こした現代社会のシステムを批判したことも想起される。

 そこから更に進んで、手段化がなにをもたらすか、そこから逃れるためにどうしたらよいか、という問題を論じているところが本書の画期性なんだろう。


 手段化、というワードからは様々なことが思い浮かぶ。

 例えばデジタルやアナログのゲームを教育に活かそう、という動き。それ自体はいいことなのかもしれない。でも「教育に役立たないゲームの存在を許さない」というような風潮が蔓延しだしたとしたら、危険な兆候かもしれない。アーレントが挙げたチェスの例のように。

 SNSで「考察」するために映画やマンガ、アニメを見る人々。それ自体はまぁ無害なことだろう。でもそこに本当に作品を鑑賞する喜びがあるのか、ということは顧みてもいいのかもしれない。

 ブログで感想を書くために本を読む。そうなのか、オレは? 確かにそういう側面はあるかもしれない。でも本質的には楽しいから書いていて、結果的にそれで本に対する理解が深まる(こともある)。少なくとも今のところはそうなっている、と思う。わずかばかりの広告収入は得ているけれど、それは生きるために少しでもお金が必要だからで、インプレッション目当てになってしまわないよう注意しなければならない。

 とにかく目標を達成することだけに価値を見出す。そのための手段は選ばない。そういう人たちがお金を持って勝手気ままに人々を動かす。そんな世の中になってる気がするけど、どうなんでしょうね。


 人と人をつなぐのは、「善」や「美」や「快」などであって、決して目的本位の行動ではない。そんなことは自分を省みればすぐにわかる。なのについ我欲に走って目的本位の行動をしてしまう。そんな自分の心に染みる本だった。