自分がレイモンド・チャンドラーを知ったのはいつだろう。おそらく時系列的には『名探偵コナン』の単行本カバー折り返し部分に毎巻書かれている「名探偵紹介」のフィリップ・マーロウの回だと思われる。特段印象には残ってなかったけれども。
そんな自分がチャンドラー作品を読むようになったのは、おそらく日本における結構な数の読書家と同じだろう、村上春樹の紹介がきっかけだった。
『ロング・グッドバイ』を読み、『長いお別れ』を読んだ。読んだのだけれど、なんというか、作品の「中核」みたいなものをつかみそこねた感じが残った。印象的なシーンは心に残ったけれど、各方面から絶賛されているほど心に響かず、それは自分の読解力不足だなと感じた。
そんな自分にとって、チャンドラーの作品を「マーロウもの」を中心に発表順に追いつつ、彼の作品の進化・深化や私生活での出来ごとを詳細かつ丁寧に「講義」してくれる本書は、まさにうってつけだった。渡りに船、どころか豪華客船が来たような。多くの評者のチャンドラー評を引用しつつ、ひとつずつ議論を積み重ねていて、説得力があった。
チャンドラーのキャリア全体を肯定すること。ひいてはチャンドラー的な「ハードボイルドの美学」を肯定することが本書のスタンスになったと、あとがきで著者は書いている。
本書の議論は[……]その根底には、チャンドラー的な「ハードボイルドの美学」を、斜に構えず、それでいて開き直るのではない形で、肯定したいという姿勢があった。[諏訪部浩一『チャンドラー講義』講談社、2024年(以下同)、p317]
ハードボイルドの美学とはなんだろう。チャンドラー作品において探偵マーロウが体現する「ハードボイルド」は常に揺れ動いているようにも見えるけれど、その根底には「ロマンスと諦観が表裏一体になった個人主義」のようなものが確かにうかがえる。
そして時代やチャンドラー自身の変化による「揺れ幅」が、シリーズに深みや奥行きを与えているように見受けられる。
一作目『大いなる眠り』のマーロウは「美しい女性を守り、依頼主(≒主君)に仕えたい」という(ともすれば現代では「有害な男性性」とさえ言われかねない)騎士道を発揮しようとする。しかしその企図は失敗し、幻想は砕かれる。
幻滅を味わったマーロウは、次作『さよなら、愛しい人』において、より傍観者的立場をとるようになる。
結局、この小説[『さよなら、愛しい人』]のマーロウは「哀しい物語」を読んで(観て)しみじみする読者(観客)のような存在ということになるだろうか――かなりの程度、そうであるといっていいと思う。[p117]
滅びゆく男女をマーロウが諦観の目で見つめる、というパターンで作品を量産していくこともできたかもしれないが、チャンドラーはそうはしなかった。おそらく文学に対する美意識と自意識の高さゆえに。
ハリウッドで脚本家としての経験を経たチャンドラー。小説執筆に戻って著した『リトルシスター』では、ハリウッド的な拝金主義が覆いつつあるアメリカで、「依頼者の不在」によって表象されるような「ハードボイルド探偵」のアイデンティティの時代とのズレが主題となる。
どこを見渡しても「ハリウッド」的な人間ばかりである世界が、マーロウにとって住みにくい世界であるというのは論を俟たないが、それは単に「住みにくい」というにとどまらない形で、マーロウという探偵の実存を脅かすような世界である。[p208]
そして傑作『ロング・グッドバイ』。マーロウが出会うのは依頼者ではなく路上で知り合った男テリー・レノックス。「マーロウもの」の特徴だった「直喩」や「ワイズクラック」といった特徴的文体は減り、「探偵フィリップ・マーロウ」から「人間フィリップ・マーロウ」への転換が図られている。
『ロング・グッドバイ』のマーロウは、もはや「ハードボイルド探偵小説」という「ジャンル」がシリーズものの主人公に保証してくれるような加護を受けていない。彼は探偵を職業とする一人の「人間」として、世界と、他者と、そして自分自身と向かいあわねばならないのだ。[p240]
反抗すべき社会悪が見えづらくなった世界で、マーロウは一人の個人として他者と向き合い、他者の内にある悪と対峙することになる。
アイリーンの自殺(それを防げる立場にありながら)を見逃すし、自らの分身ともいえるレノックスの誘いを断って友情を終わらせる。それは探偵として倫理的に正しい行動ではなかったかもしれない。しかしマーロウ個人の尊厳を守るために必要な戦いだった。
個人としての戦いを多面的に描いたこと、そしてそれをハードボイルド小説の中で成し遂げた『ロング・グッドバイ』を、著者は高く評価する。
本書としては、やはりこの『ロング・グッドバイ』にチャンドラー文学の到達点を見ておきたい。これは一つには[……]マーロウの自己欺瞞を批判的に――「リアリズム小説」的に――読むことも十分に可能だからである。そしてもう一つにはチャンドラーがそのような読み方を可能にしておきながらも「ハードボイルド探偵小説」を捨てなかったことを、積極的に評価したいと思うからだ。[p266]
自分の人生を振り返ってみれば、ハードボイルド小説こそ読んでこなかったものの、ハードボイルドなキャラクターに惹かれることが多かった。
学生時代にプレイしたゲーム『メタルギアソリッド』シリーズの主人公「ソリッド・スネーク」や「ネイキッド・スネーク」。暫定マイ・ベスト・アニメの『カウボーイビバップ』の「スパイク」。大人になってから観た『探偵物語』や数年前に読んだ漫画『事件屋稼業』も大変よかった。
「自分の信念に従って生きる」というハードボイルドの基本姿勢。「己に忠を尽くす」(メタルギアソリッド3より)こと。それは困難な生き方だ。いつの時代も。
戦ったら数が多いほうが勝つに決まっている。マーロウの有名なセリフ「タフでなければ生きていけない~」は、個人という立場が弱いからこそ、個人としてタフにならなければならない、ということを示している。ハードボイルド(固ゆで卵)は生卵よりは確実に強固だけれども、壁に投げつけたら簡単に砕けてしまう。「硬い殻の中に柔らかい身が入っている」ともいえるわけで。
さらに言えば個人主義は、必ずしもカッコいいわけじゃない。むしろ現実社会においてはダサくて幼児的とさえ見なされる。そしてそれは見ようによっては事実だったりする。「人は一人では生きられない」と悟るのが大人になることだとすれば。
こんなことを言ったら世界中のファンにボコボコにされるかもしれないけれど、マーロウがやっていることだって、見ようによっては「孤独な男の空回り」と言えなくもない。あくまでも、世俗的な視点から見ると、という意味で。
あるいは日本におけるハードボイルド表現が「ユーモア」や「ギャグ」とセットになりがちなのは、日本的な「ツッコミ」の文化の影響かもしれない、とふと思った。漫画『銀魂』の「ハードボイルド同心」などはその最たる例だろう。
個人主義は正しさを保証するものでもない。時に道徳的でないことをしなければならないかもしれない。『ロング・グッドバイ』のマーロウのように。
でも人生には自分の信念を守るために戦わないといけない時がある。っていうかその戦いは常にうっすら続いているともいえる。ある意味で。
そんな時に役立つのがこちらの「ハードボイルドの美学」。なんて通販番組みたいに簡単な話ではもちろんなく、なにがプラスでなにがマイナスなのか、何にも誰にもわからないのがこの一度きりの人生。
だけれども、マーロウの、ひいてはチャンドラーの戦いの歴史を知ることは決してムダにはならず、むしろ多くのものを得られるだろう、という予感が今の自分にはある。だからもっとチャンドラー作品を読んでいきたい。
あるいは村上春樹の小説家としての独自の立ち位置の形成にも、チャンドラーの「ハードボイルドの美学」が影響していると捉えることもできるだろう。そういった意味でも本書は読んでよかった本だった。
