色々な書き手たちが推薦図書に挙げていた本。長らく気になっていたのをようやく読むことができた。
人は物語の中を生きている。生きずにはいられない。自分や他人の人生を物語化している。歴史や社会制度も一種の物語だ。
ではそのような物語をなぜ人は求めるのか? 物語とうまくつきあうにはどうしたらよいのか? という問題について、様々な哲学的考察などを引用しつつ辿っていく本。
え? 私の人生は現実のものであって、物語とは全然関係ないじゃん。「学校」も「会社」も「国」も実際に存在してるじゃん。と、思われる方もいるかも知れない。そういう人ほど特殊詐欺とかに引っかかりやすいのではないかと、心から真面目に心配している。余計なお世話だろうか。
そしてそういう人にこそこの本を読んでみて欲しい。きっと今までできなかったような「ものの見方」ができるようになるハズ。
ストーリーとはなにか。それは出来ごとを時系列順に並べたもの。
朝起きる。トイレに行く。手と顔を洗って朝ご飯を作る。というのが自分の朝の習慣だけれど、これもひとつのストーリーといえる。全然面白くはないけども。
そして人は、実に様々なことをストーリーを通して把握しようとする。
[……]人は、「自分は何者か?」というだいじなことを言おうとすると、「物語」の形で言わざるを得ません。
そして
「自分の家族は何者か?」
「自分が勤めている会社はどういうものか?」
「自分が住んでいる国は?」
「自分が生きているこの世界は?」
といったことについても、「ストーリー」の形で理解しようとします。
人間は、時間的前後関係のなかで世界を把握するという点で、「ストーリーの動物」です。
そして、そのストーリーを表現するフォーマット=物語に、人間の脳は飛びついてしまいます。人が語っているのを聞くときも、自分が語る番が回ってきたときも。
人間はしんそこ「物語る動物」なのです。[『人はなぜ物語を求めるのか』千野帽子、ちくまプリマー新書、2017年(以下同) p20-21]
「ストーリー」に「因果関係」が加わると、さらに滑らかになり、聞いた人はより「わかった」という感覚を抱くことができる。
因果関係が明示されると、なぜ物語として滑らかな感じがするのでしょうか?
それは、できごとが「わかる」気がするからです。どうやら僕たちは、できごとの因果関係を「わかりたい」らしいのです。[p53]
たとえば「腹が減ったので飯を食った」というストーリーはものすごくわかりやすい。なぜなら誰もが腹が減ったら飯を食いたくなることを知っているから。
一方、「ムシャクシャしたから殺した」というストーリーは、理解できるけど納得はしがたい。なぜならムシャクシャして殺したくなるところまでは心情的に理解できるけれど、多くの人は実際に実行に移さないから。
本書でも言及されている小説であるカミュ『異邦人』の主人公ムルソーは、殺人を犯した動機を「太陽が眩しかったから」と供述する。すごくわかりにくい。因果関係がない。だから裁判官や大衆の「理解」が得られず、ムルソーは処刑されるわけだが、多くの人が求めるわかりやすい「ストーリー」を語らないこと、拒否することが、カミュの「不条理」の哲学とつながっている。
人はわかりたい。とにかくわかりたい。だから「前後関係」と「因果関係」をいとも簡単にすり変えるという誤謬をおかしたりもする。Aの後にBが起こった。だからBの原因はAだ、という風に。専門用語では「前後即因果の誤謬」と呼ぶらしい。
ジンクス、というのがまさにそれで、「私が試合を見るといつも日本代表が試合に負ける」みたいなことを言う人がわりとよくいるが、「私が試合を見る」→「日本代表が負ける」という前後関係があるだけで、後者が前者の原因だという証拠はどこにもない。なんの因果関係もない。
存在しない因果関係をでっち上げたがるほど、人の「わかりたい」という欲望は強い。その欲望は人間の生存に大いに役立っているわけで、それを迷妄だと笑うのは浅薄だろう。
たとえば科学を成り立たせているのは、前後関係から因果関係を「仮定」して、実験を繰り返してそれを証明するという手順にある。わかりたいという情熱は必ずしもムダにはならない。ジンクスだって心の安定を得るのに役立っているかもしれないし。
人が自分に対して作る物語、つまり自己認識もまた、わかりたいという欲望が作ったものと言える。そしてそれは大抵「自分の人生の目的はなんだろう」というかたちをとる。
「なぜ生きてるんだろう?」と問うときは、原因や理由(「なんのせいで?」)よりも、むしろ目的、あるいは意味(「なんのために?」)を問うているのです。理由ではなく、意味が知りたい。[p99]
しかし目的を知ることだけが人生とは限らない。ヴィクトル・E・フランクルはユダヤ人強制収容所での経験を記した『夜と霧』の中で「自分が人生に期待する」のではなく「人生が自分になにを期待しているか」を考えるようになった被収容者のエピソードを書いた。
それは自分の人生という物語を転換するような経験だったといえるかもしれない。
「なぜ私が?」と問うストーリー形式から、「人生が私になにを期待しているか?」と問うストーリー形式へと<転換>することで、その後の人生がそのままその問への答になってしまう。これは恐るべき発想の転換です。[p105]
人生に期待する。期待が外れてがっかりする。その繰り返し。そんな生き方は、物語の力がよくない方向に働いた行き方だ。
著者は物語論を研究する上で、「人生に期待することをやめる」という選択肢が存在することに気づいたという。
それ以来、「人間は物語る動物である」と自覚することで、ストーリーのフォーマットが悪く働いて自分が苦しい状況に陥る危険を減らし、あわよくば「ストーリー」のいいとこだけを取って生きていきたいという、虫のいいことを考えています。そして、この虫のいいことを考えれば考えるほど、いろんなことがラクになってしまいました。[p108]
ここまでが本書の全5章の内の2章。そこから、黒子のバスケ脅迫事件の受刑者の著書『生ける屍の結末』などを引用しつつ、さらに物語と人との関係について考察していく。
僕たち人間は日常、世界をストーリー形式で認知しています。そのとき、僕達はストーリーの語り手であると同時に読者であり、登場人物でもあるのです。物語る動物としては、自分や他人のストーリーに押しつぶされたり、自分のストーリーで人を押しつぶしたりせずに、生きていたいものです。[p212]
人は自分自身についての物語を作りながら生きている。
自分はここ2年くらい毎日日記をブログに投稿してきたけれど、それを読むと、というか自分が書いたことを思い返すだけでも、いかに自分が自分の行動を物語化しているかがわかる。
それがはしたなくあらわになるのが買い物をするときで、その商品がいかに自分に必要なものか、どれだけ買う価値があるか、というストーリーを逐一練り上げながら買い物をしている。とにかく「損をした」と思いたくない、という欲望が働いているんだろう。町田康の『バイ貝』という本のことを思い出す。
日記を読み返すことで「自分って変なとこにこだわってるな」と自分を客観的に見つめ直すこともできる。だからといって自分のこだわり、つまり物語を手放せるかというと、そう簡単ではない。なぜなら物語は人生への納得や世界の把握のための大切な「よすが」だから。
そしてこんな風に読書感想を書いているのも、ある種の物語化ではある。一冊の本が持つ要素を、自分なりのより短い別の筋道が立った説明、すなわち物語に移し替える。その過程で実に多くの要素を捨象している。そうしないと長くなりすぎるから、という事情はあるにせよ、こんなんでいいのかな、っていう気持ちはいつもある。
ある人が「この人はなんでこんなことを言うんだろう」というようなときでも、その裏には必ずその人にとっての切実な物語がある。それは「公平世界仮説」のようなごくありふれた普遍的なストーリーだったりするかもしれないけれど。
メディアやSNSで起こる、誰かの発言を切り取って叩く、という状況は、もしかしたら言葉が生まれたときから行われてきたことなのかもしれない。それこそ「パンがなければお菓子を食べればいい」の時代から。
「発言切り取り叩き」はこの世から無くならないかもしれないにせよ、なぜその発言に至ったかという物語を知ろうとするほうが、より建設的で開かれた態度と言える。まぁ「そんな時間ないよ」「嫌いなやつの考えなんて知りたくない」と考える人たちが汲々として「叩き」にはげんでいるのかもしれないけれど。
そういえばある小説家が、別の作家の問題発言を論難するにあたり、その作家の著作を全部読んで発言の背景を考察するという、大変恐ろしい、文筆的修羅みたいなことをやっていた。物語を作る力にはそんな使い方もある、ということだろうか。
人は物語から自由になれない。「物語から自由になった!」と考えたとしても、それもまた物語の内。でも言葉が必要なくなるような体験・アクティビティの最中であれば、束の間、物語の外に出られるのかもしれない。その体験もまた物語に回収されるとしても、また別の体験をすることもできる。そんな気がする。
