小島秀夫が作るゲームが好きだ。
家族がプレイするゲームを見ることが多かった頃。メタルギアソリッド(MGS)1と2を見て「なんだか大人のゲームだな」と思った。自分でプレイするようになった3でカッコいいセリフとアダルトな展開に興奮した。4はPS3を持っていなかったのでリアルタイムではプレイできず。ゲーム性にどっぷりとハマったピースウォーカーはすべてのミッションをクリアした記憶。映像美とアクションの超進化にド肝を抜かれたMGSV。初めてゲームで深い深い「癒やし」を感じたデス・ストランディング(DS)。
rhbiyori.hatenadiary.jp
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普遍的なメッセージと遊びとしての楽しさを両立させ、ゲームに作家性を刻印できる小島秀夫は、現代では稀有なゲームクリエイターだ。子どもの頃は、ゲームが発展すればメタルギアみたいなすごいゲームがたくさん作られるんだろうと夢想していた。でもゲームの製作費が増えるにつれ、大作からはメッセージ性が消え、作家の個性が際立つ作品はもっぱらインディーゲームからしか見つけづらいものになってしまった。
商業性と作家性を高度に統合した作品を40年近く作り続け、今も止まらない孤高のトップランナー。そんな小島秀夫の作品を論じた本が出たので読んでみた。
「はじめに」で「本書は、小島秀夫作品のシステムやゲームデザインや主題と物語を、心理的・政治的・社会的・批評的な側面と結びつけて論じている傾向が強い」[p. 10]」と書かれている通り、小島作品に通じるテーマや頻出するモチーフを把握するのに、本書は大いに役立った。各作品の要素を取り出して比較してみれば明白なことであっても、自分のようにただフツーにゲームをプレイしているだけだとなかなか気付けない。そういうことに気付くことができた。そこにあえて気付かせないことも「物語」の力なのかもしれないけれど。というエクスキューズを一応してみる。
例えば父(的なもの)が頻出すること。ソリッド・スネークにとってのビッグボス。雷電にとってのソリダス・スネーク。サムにとってのクリフ。MGS3のザ・ボスは父的であり母的でもある。
あるいは家族にまつわる戦い。主人公の敵たちは、「戦争」や「配達」といった行為に深く依存し、「はぐれもの達の楽園的共同体」を作ろうとする。「アウターヘヴン」のような。
彼らのマッチョイズムは「労働」にアディクトし家族を顧みない旧弊な男性性にどこかしら通じているのかもしれない。そもそもMGSの「隠れて戦う」というシステム自体が非男性的で、「むしろ「男らしくなく」、戦いを回避したり、別の手段を模索したりするゲームであると評価されている。[p. 289]」という。DSの「運搬」というゲーム性も同様だろう。
主人公たちは敵が目指す「内向きな共同体」を否定し、より個人的で暖かみのある関係性を作ろうとする。たとえ血の繋がりがなくても、子を成すことができずとも、信頼によって結びつくような「絆」を。
「FOX DIE(MGS)」や「接触恐怖症(DS)」が表象するのは、他者と触れ合うことや他者を傷つけることへの恐怖。それをどう乗り越えるかがひとつのドラマになる。MGS2の雷電とローズの関係がその典型だ。
メタルギアシリーズにおける「スパイ」要素については「スパイの騙し合いは、恋や水商売の駆け引きやスリルとも重なり、イデオロギー工作や情報工作の蔓延は相手からの本当の愛が信じられなくなる心理と重なる。[p. 30]」と書く。小島監督は最近、自身のラジオ番組「コジ10」などで恋愛について「ゲーム作りと同じで、とにかくデートの準備に時間をかける」などと何度か語っていて、ゲームと恋愛に共通するものを感じていることは間違いない。
味方の中に実は敵のスパイがいた。敵だと思っていたら実は味方だった。そんな信頼と裏切りの連続の繰り返しは、恋愛における期待と不安の目まぐるしい入れ替わりにも似ている。ある種のハッピーエンドを迎えたMGS4が「敵だと思っていたら実は全員味方だった」という構造になっていることは、恋愛の成就に例えられるだろう。
他にも興味深い指摘はたくさんある。MGSV:TPP発売後、「MGSVは未完成だ」という言説が広くネット上で流布したが、著者はそれを否定こそしないものの懐疑的な見方をしている。
『V』は未完成であるという主張が、発売直後から成された。確かに、未完成に終わったエピソード51「蝿の王国」があった方が、臥竜点睛[原文ママ]になったのではないかという意見には、筆者も同意する部分がある。しかし、そのような未完成である理由として、コナミと対立したなどの様々な憶測や風説がネットで流通し、真実であるかのように出回っていた状況には、違和感を抱いた。[p. 264]
確かに言われてみれば、未完成とされる状況証拠は限定版Blu-rayに収録された制作途上のエピソード51「蠅の王」というたったひとつのエピソードだけだし、それすらも未完だった理由は明かされていない。諸般の事情でお蔵入りになり、作れなかったのではなく作らなかっただけかもしれないし。
MGSVのモチーフのひとつである小説『白鯨』(未読)が、白鯨と決戦することなく終わることを考慮すると、ラスボス的ポジションのサヘラントロプスと戦わずにストーリーが終わらせることで「未達成感」をプレイヤーに味わわせたことは「必然であろうと思われる」と著者は書いている。
若くして父を亡くした小島監督が、作品を通して父的な役割を果たそうとしている、という指摘も納得性が高い。
死による父親の不在、その孤独、死への誘惑の中で、映画や小説に「親」のように育ててもらった男が、「父」的な役割を下の世代に果たそうとしているのが小島のゲームであり、だからこそ、彼の作品には、時としてゲームの商業原則や快感原則をも超え出てしまう教育的・啓蒙的な要素が強いのではないか。特に、小島のゲームはプレイヤーを「叱る」場面が特徴(『メタルギアソリッド』で動物を撃っていると無線で怒られたり、『メタルギアソリッド3』で殺した敵兵の怨念が延々と襲うシーンが典型)だが、それもまた「代理的な父」としての機能を果たそうとしたからだと解釈できる。[p. 16]
作品を通して平和や愛情などの普遍的テーマを語ろうとすることが、だからこそファンに愛されている反面、ともすれば「説教臭い」とされて一部ゲーマーに敬遠されがちなことも説明がつく。MGS2の終盤やMGS4全般などは、「語り」に偏重しすぎてややゲームとしてのバランスを欠いているかもしれないと、ファンとしても感じるところ。
でももちろん小島作品はただの「オヤジの説教」ではない。現代において、それが困難で「敬遠されがち」なことだからこそ、時代に合わせて変遷しつつ、どうにかして「正しさ」を希求しようとしている。極めて個人的には、そこに作家カート・ヴォネガットに通じるマインドを感じる。人類の未来に対する、ある種のシニシズムも含めて。
他にも、小島監督の来歴、カメラワークの解説、映画作品との比較、心理学的な分析、社会背景との関わりなど、様々なアプローチで小島作品を評論していて、読み応えがあった。
一点だけ、本書を読んだと公言する上でどうしても看過できないミスがあった。MGS4について「大塚明夫の配役に、作中にまだ登場していない「ビッグボス」があることが分かる。[p. 189]」と書いているが、実際はMGS4のみ、大塚明夫の実父であり声優の大塚周夫氏がビッグボスを演じている。できればここは修正していただきたい。
