これほど大柄な小説に対して、どうやって感想なんて書けばええねん、と若干キレ気味である。いや、本を読んだら感想を書く、と決めているのは、まぎれもない自分自身なのだけれども。
最初に本書を手に取ったのは十数年前。今考えると、2006年にハードカバー版が出版されたとのことなので、ちょうどその頃書店で見かけて読もうとしたものと思われる。しかし全く歯が立たずに挫折。
2024年に文庫版が出てから起こった「百年の孤独ブーム」を横目で見ていたら、「今なら読めるんじゃね?」という気持ちがふつふつと湧いてきて、再び挑戦。
再び読んでみると、全然問題なく読み進めることができた。どこで挫折したのかもわからないほどスイスイと。当時は自発的に読書を始めたばっかりだったから、読む力が足りなかったのか。本書に対してよく言われるように、人物の名前が把握できない、ということもなかった。前半に出てきた人が後半にまた出てきて、誰だか思い出せなくなることはあったけれど、ありがたいことに本作の登場人物をまとめたWebサイトがあるので、それに2、3 回ほどお世話になった。
様々な種類の「読む味わい」を味わうことができた。面白さ。楽しさ。愉快さ。悲しさ。切なさ。やるせなさ。興奮。不安。などなどの、数え切れないくらいの種類の味わいを。
ノーベル文学賞を受賞のきっかけになった小説ということで、高尚なイメージを持っている人も多いかもしれない。でもそれ以前に、本作はスペイン語圏でベストセラーとなっている。めちゃくちゃ売れた本なのである。そのような小説が難解であろうはずがない。人類の誰にでも感知し得るような魅力が、一作の中に詰め込まれている。
「次々にいろいろなことが起こる」。それが本作の読書の快楽を生み出していると感じた。そのできごとの中に、幽霊と会話したり、人が突然天に登って消えていったりと、超現実的なことが含まれているから「マジック・リアリズム」と評されたのだろうけれど、その超現実性そのものは、面白みの中心ではないなと感じた。古今東西の物語と比べてみれば、幽霊が出てくるなんてそれほどに珍しくもない。
色々なできごとが、ただ起きるだけでなく、ものすごい勢いでエスカレーションしていくこと。そこに面白みがある。子どもが生まれるとなれば17人も生まれるし、雨が降るとなれば4年間降り続ける。性交するとなれば毎晩ヤりまくる、といった具合。
最初は「いや、ありえんやろ(笑)」と半笑いで読み進めるのだけれど、読んでいるとなぜだか「もっとやれ!」という気分になってくる。ハイスピードで山車を引きずり回すタイプのお祭りとか、運動会の綱引きとかを見ている時のような気持ちに近いだろうか。人間の、人間たちの生み出す、そこしれない熱、パワーのようなものを感じた。
そんなダイナミックなできごとの合間に、心揺さぶるようなシーンと、そこにいる人々の心の動きが綿密に描かれていて、主婦が感じるフラストレーションから、悲しい結末の恋、さらに独裁者が感じる恐怖までをもカバーしており、ほとんど「人間の全部が描かれている」と言いたくなってくる。そのくらい射程が広い。
そんな乱痴気騒ぎみたいな小説的外見を持っているハズなのに、同時に、ある種の哀しさみたいなものが、読んでいる間中ずっと漂っていた。
そのひとつはマコンドの村が文明化していくことの哀しさで、もともとは都会へ続く道さえなかったマコンドの村に、道路が作られ、電気がやってきて、鉄道が通るようになるのだけれど、なぜだかそれが哀しいことだと感じた。元々あった豊かさが失われてしまう、と感じた。普通は文明が発展すればワクワクするはずなのに。
文明が行き渡るほどに、ホセ・アルカディオ・ブエンディアが、ジプシーの持ち込む文物にいちいち驚いていたような、トキメキが失われてしまう。それが哀しい。
もうひとつはタイトルにもなっている「孤独」で、ブエンディア家の者はみな宿命的な孤独を背負っている。それぞれが、生きたいように生きた結果、様々なズレや歪みが家庭内に発生してしまう。全然わかりあうことができない。
登場人物たちはみな、放埒なようでいて、宿命に縛られ、常に疲弊しているように見える。アウレリャノ大佐の未来予知やピラル・テルネラの予言。ウルスラの「時間が繰り返している」という感覚。繰り返される同じ名前の名付け。それらが全てが宿命性を暗示している。そしてあのラスト。
その宿命性は、本作のラストが物語論および小説論めいていることとなにか関係がありそうだけれど、どう関係があるのかはまだよくわからない。
後半はちょっとスピードダウンしてるなという感じがあったりもした。冒頭を読むかぎり、アウレリャノ大佐が銃殺隊の前に立つところで本来は終わる予定だったんじゃないか、と想像してしまう。それが書いているうちにどんどん話が膨らんでいったんじゃないだろうか。筒井康隆が文庫版あとがきで「私は『族長の秋』の方が好き」と書いているのもそういうところが原因なんじゃないか。ぜんぜん違うかもしれないけれど。
でもそういった過剰さや逸脱こそが、本作を規格外の怪物的相貌にしているのもおそらく間違いない。
読了後にネットで情報を漁っていたら、新潮2024月8月号に『百年の孤独』特集が載っているのを発見し、いずれチェックしようと思っているのだけれど、その中の池澤夏樹と星野智幸の対談の帯文のようなところに「呪いにも似た文学」と書かれているのを見つけた。
確かに本作の読後感には「呪い」じみたところがある。「人間、これでいいんか」「歴史、それでいいんか」みたいなことを考えてしまう。大げさだけど、人類のやってることって結局こういうことなのかもしれないな、という感慨。誇張しすぎた人類史としての小説。
