rhの読書録

読んだ本の感想など

どくとるマンボウ航海記 / 北杜夫

 いまから約60年前に発行されたが、かなりのベストセラーだったらしく、ある世代より上の物書きの多くが本書を愛読していたと語っている。というか自分が子どもの時でさえ「小学生推薦図書」的なものに本書が含まれていたような気もするが、記憶が定かでない。2023年にも増補改訂版が発行されているあたり、いまだに一定の人気があるのかもしれない。

 ある種の時代性を象徴した本なのではないかと思い、読んでみることにした。



 船医として水産庁の調査船「照洋丸」に乗り、世界を巡った著者自身の経験を元にした航海記。しかし真面目で形式張ったところなどは全く無く、むしろいちいち文章に「おふざけ」が含まれている。あんまし関係ないけど、昔はこういう文章を「ユーモアあふれる」などと形容したけれど、最近はユーモアという言葉自体をほとんど見かけなくなったことに気づく。

 ところで照洋丸というその船の大きさであるが、最初私が聞いたときは八〇〇トンばかりとのことであった。これはちっとばかり小さいなと思っていると、水産庁の役人の話ではそれが七〇〇トンとなり、船長の話では六一〇トンとなり、役所で貰ったパンフレットによると六〇二トン九五と書いてある。どうも段々と小さくなる。このぶんではいざ実物を見るときにはポンポン蒸気くらいに縮小してしまいそうである。[北杜夫『どくとるマンボウ航海記 』、以下同]

 その「おふざけ」は、知識と教養と文才がある人間が全力でやる「おふざけ」であって、そしてそういう本はたいてい面白い。風景描写ひとつとっても微に入り細を穿っており、その筆力の確かさは明らかだ。なにしろ著者は本書発行のすぐあとに芥川賞を受賞している。

日が雲に隠れ、また現われ、それにつれて海面は刻々に変化する。その変化は千様であり、山のそれよりももっと素早く、また荒々しくとりとめなく、一定の規範を有しない。私はしぶきのこない船尾の甲板に出て、潮騒と風の唸りを聞き、溶岩のうねりのように湧き立つ波頭を長いこと見つめた。それは原始の溶鉱炉で、最初の生命がこの地球上に生じてきた場所にいかにもふさわしく、重々しく鉛色に湧きかえっている。

 冒頭でマダガスカル島の原住民に伝わる「アタオコロイノナ」という神について言及されるが、エッセイ全体に冗談や明らかの嘘が頻出するため、長らくこの神の名前も著者の創作だと思われていたらしい。Wikipediaなどによると、実在する文献でなどで言及されている神であるらしく、「Ataokoloinona」で検索すると英語のサイトも出てくるので、少なくとも完全な著者の創作ではないらしいのだが、いずれにせよ、当時の文献にわずかに記されていたような超マイナーな神の名前を、わざわざもののたとえに出すこと自体が、教養高い著者流の「おふざけ」であることは間違いない。



 船旅を共にする船員たちや、各地の港の様子からは、「人間が自由に生きているな」という感じがする。現地の人々は、船に乗り込んできて怪しい土産ものを売りつけてきたり、夜のお店に呼び込んだり、薬品をせしめて売り払うために仮病を使ったりと、実にたくましく生きている。ヨーロッパの街はまだ秩序だっているが、アジア、インド、アラブ圏の混沌っぷりはなかなかすさまじく、まるでファンタジー世界の話を聞かされているよう。

 彼らの姿は、まるで戦争の後の平和を心の底から謳歌しようとしているようにも見える。なればこそ、港町にわずかに残った戦争の傷跡が、読む自分の心に響いてきたりもした。

 本書がベストセラーとなったのは、その明るさ、呑気さが、戦争が終わって明るい未来が待っているかもしれない、という日本人の気持ちにフィットしたからなのかもしれない。

 しかし著者の「おふざけ」から、堅さや重さから逃れようという、命がけの、ほとんど破滅願望と紙一重にすら感じられる危うさを感じてしまうのは、自分が安全志向の現代に染まりきっているからだろうか。

 果たして今も世界の港は、本書のように猥雑でデンジャーで自由に満ちあふれてるんだろうか。そんな自由が許される世界をいつまで続けられるんだろうか。そんなことを考えてしまう。

 それはそれとして、照洋丸でマグロ延縄漁が始まると、マグロ食べ放題状態になる、というエピソードには、一人のマグロ好きとして羨ましさしか感じない。山盛りのトロを毎日食べて「サシミになる肉片」(赤身のことだろう)は捨ててしまうという。死ぬまでに一度はそんな船に乗ってみたい。でもよく考えたら船酔いするから無理だな。そんな食べ盛りの小学生男子みたいなことも考えてしまった。