rhの読書録

読んだ本の感想など

『百年の孤独』を代わりに読む / 友田とん

 『百年の孤独』を自分で読んだので、『『百年の孤独』を代わりに読む』も自分で読んでみることにした。

 しかしはたして「代わりに読む」とはどういうことか。一応まえがきで説明はされており、それは現在Hayakawa Books & Magazinesのnoteで公開中だけれど、率直に言うと、わかるようなわからないようなことが書いてある。
www.hayakawabooks.com
 「代わりに読む」という言葉には「〇〇という本を読んだ私が、あなたに説明してあげる」というニュアンスがあり、なればこそ解説書的な内容を期待した読者が多く手に取ったのではないかと想像せられるが、そのような内容にはなっていない。

 『百年の孤独』のストーリーほぼ全編を要約しつつ、それを著者が読んで連想した映画・テレビ番組・小説・マンガなどの作品や実際のエピソード等(著者だけでなく筆者の友人たちの連想も含まれるらしい)を並行して紹介していく。そのような本。読むという行為の文章化、とでも言えばいいだろうか。

 たとえば小説冒頭、ホセ・アルカディオ・ブエンディアと妻ウルスラがマコンドに移住する場面では、ドラマ『それでも家を買いました』の主人公夫婦が連想され、引っ越ししたがる夫と、引っ越ししたがらない妻、という共通点が対比される。
時に『百年の孤独』と「著者の連想」は奇妙に混じり合う。マコンドに映画『無責任一代男』の植木等が闖入したりする。

 そんなことをしていいのか。百年の孤独を読んだことがない読者が本書を読んだら混乱するんじゃあないか。

 それはそうかもしれない。さすがにそれが露骨な「冗談」であることは理解できるように書かれているが、「じゃあ本当はどんな話なんだ」と戸惑う可能性はある。

 でもそもそも百年の孤独という小説そのものが冗談みたいな小説なので、そうして脱線することが「小説の精神」に則っているとも言えるわけで、それもまたこの小説に対する正しいアプローチなのかもしれない。

 連想される作品等は、おそらく著者のリアルタイムのものが多く、自分も全然知らないものばかりだった。『笑っていいとも!』のワンコーナーの話をされても現代の若者にとってはサッパリわからないだろう。いいともが終わってから10年以上経っている。

 でもそれが著者自身の本当の連想だから率直にそれを書いたのだろうし、そうすることが「代わりに読む」ことなのだろう。著者の友人の連想も含まれているということで、そこにフィクションはあるかもしれないが、誰かの連想であるという意味ではリアルなものだと言える。

 よく、読書が苦手な人が、その理由として「本を読んでると別のことを考えてしまって集中できない」と言うが、それもまた本の読み方のひとつとしては全然間違っていない。

 ことばは誰かに働きかけるためにある。ことばに応じて何かが起こればそれが読書になる。一行読んで、別のことを考えて、それで今日の読書はおしまい。それも読書の立派なひとつのありかただ。

 むしろ自分のように「ブログ記事」という体裁を整えるためだけに、ある一冊の本に限定して感想を書くような行為こそが、不自然な「カッコつけ」だとさえ言える。こういうことをしないと「本を読んだ」って言えないんだよ、という偏見を再生産してしまっているのかもしれない。そんなことを考えた。


 結局のところ「代わりに読む」というのがどういうことなのか、最後までハッキリ明かされることはない、と思う。少なくとも自分が読んだ限りでは。

 本を読んで、そこから連想されたことを書くことを、著者は「代わりに読む」と呼んでいる。それはまぁ、そう呼ぶこともできるかもしれない。でも著者は「結局最後まで代わりに読むことはできなかった」と言っている。なぜなら「代わりに読まれました!」と名乗り出る人がいなかったから。そしてアウレリャノこそが「代わりに読む人」だった! ということを最後に著者は発見する。

 それもまぁ、そう言われればそうなのかもしれないが、そうであることについて、自分の中に納得が発生していない。今に至るまで。

 本書はnoteに連載され、そこではどうやら読者参加型のなんらかのアクティビティが行われていて、その全体のことも「代わりに読む」と呼んでいる気配があるのだけれど、具体的にどのようなアクティビティが行われたのかも、やはり最後までよくわからない。

 『百年の孤独』が自らをある種の「からかい」であることをほのめかす小説であることを考えれば、本書もまた「代わりに読む」という概念を弄んで読者を振り回す本なのかもしれない。それが著者にとっての「可笑しさ」なのかもしれない。

 たとえるならば、オリジナルの競技でギネス・ブックに載った市区町村の話を聞かされたような気分。そうなんですか。スゴいですね。

 と言うと、なにか皮肉を言っていると思われるかもしれないけれど、決してそうじゃない。どうか信じて欲しい。

 自分にはよくわからないけれど、何かで盛り上がっている。その盛り上がりを作ることも、きっと尊いことなのだろうと、年齢を重ねるうちに自分も思えるようになってきた。自分にとって本書はそういう本なのである。あくまで今のところは。


 ストーリーの要約としてよくまとまっているので、本書を合わせて読めば、より深く『百年の孤独』の内容を記憶できそうだと感じた。

 「連想」の出し方も実に見事で、ストーリーと連想が絶妙に絡み合っていくさまは、新手の芸を見せられているようだった。優れた小説を読むと「この世界の全てのことが書いてある」と感じてしまうものだが、それを実地に検証したのが本書である、とも思えてくる。やっぱりスゴいな、『百年の孤独』は。