正直に言うと、全ページに目を通しはしたけれど、全文章を通読はしていない。なぜかというと主に昭和の文学者の話をしているところに興味を持てなかったからで、なぜそんなことをわざわざ言うかというと、本文中に「もちろん、読まずに書評するのはありだ。しかし、そのためにはかなりの芸が必要だ。」とあり、ならばただの読書感想であれば芸が無くても書いていいのではないかと思ったから。そんなことを公言したら自分の書き手としての信頼度が目減りするだろうけど、まぁ、そんなの元からないし。
かつて「文学」の世界には、本書の著者のように「この小説はいかがなものか」などと「評論」する人がいた。本書の冒頭は、著者が感じた高橋源一郎の文学的な「後退」の当否を読者に問う文章から始まる。それを読んだことが本書を手に取った理由。
でも今やそのような評論をする人はおそらくもうどこにもいなくなってしまった。いや、全出版物を読んでるわけじゃないし、もしかしたら今もZINEとかでアツい評論を書いている人はいるのかもしれないけれど、少なくとも主流的なものではなくなったと言っていいだろう。たぶん。
かつて平成の半ばに自発的に読書を始めた自分は、「文学」について勉強しなきゃいけないのかもしれない、なんてことを感じていた。昭和の文学者の人となりとかについて詳しくならなきゃいけない、と思った。思わされていた、と言っていいかもしれない。今にして思うと全然そんなことは無かったのだけれども。
結局、著者が称揚するような「文学」、ないし自分が学ばなければいけないと思わされていたような「文学」って、要するに「戦前・戦後の日本文学」という、局所的で一時的なものだったんじゃないか。そんな風に思うように、あるいは思えるようになったのは、主に高橋源一郎の諸小説、初評論などを読んだからだと思われる。
そして戦前の日本文学が終わったように、戦後の日本文学も終わった。そりゃあそうだ。戦後世代がいなくなりつつあるんだから。
もちろん戦後文学の影響は今も様々に残っている。今の書き手に直接的・間接的に影響してる。でも戦後文学は、数ある小説の中の一つになった。「戦後文学の伝統を引き継ぐものだけが本物の文学だ」みたいなことを言う人はまずいなくなった。いや、もしかするとまだいるのかもしれないけれど、もしかしたら……以下同。
文学が偉くて文学以外は偉くない、みたいなことを言う人もいなくなった。全部おんなじ「小説」でイイでしょ、という風潮になった。そっちのほうが健全でいいと自分も思う。
確かに小説に良し悪しはある。これぞ文学、これぞ芸術と言いたくなるような作品はあるし、売れているからというだけで、あるいは書き手が有名だからというだけで持て囃されるような小説をクサしたくなる気持ちもわかる。でも一方で、特定の分野の良い小説だけを褒め称えるような凝り固まった風潮があったのもまた確かで、「孤高の評論家」を自認するような書き手に限ってそういう煮凝りのように凝り固まった価値観を持っていたようにも見受けられた。それは良い意味の「こだわり」ではなく、悪い意味の「こだわり」、固定観念への固着じゃないか。
それに結局、一時の風潮で持て囃される小説は早晩消えていくし、良い小説は時代を越えて読み継がれていく。「文学の守護者」みたいな顔をしてデカい顔をする人が果たして本当に必要だったのか。必要ないからいなくなったんじゃないか。
その点、著者はデカい顔をするタイプではない。安易に多数派になびかない態度は一貫している。でも文学に正統性・伝統性を求めている。「文学(=日本の戦前・戦後文学)」が正しく、それに則ってるかどうかが価値基準になっている。「最近(2000年頃)の文学はつまらん」という態度がうっすらにじみ出ている。だから「文学」を探そうとする。本当は新しい文学はいつも目の前に生まれ続けているのに。それは今の自分の目には「自分が子どもの頃に最初に遊んだゲームタイトルが一番面白いと言い続けてる人」とあまり変わらないように見える。
じゃあ本書を読む必要はないかというとそんなことはなく、なぜなら著者がもう飽きれるくらいに書き手として真面目だからで、本当だったらこんな緩みきった読書感想なんてものを書くべきじゃないんじゃないか、と思わされるくらい真面目。
どう真面目かというと、(それが自分の目には古い価値観に見えるとしても)ちゃんと己自身の評価基準に則って小説の良し悪しを判断していることで、「これをホメておけばウケるだろう」というような自己利益のための書評をしておらず、逆にそのような書評を、贈り物を競い合う民俗的風習になぞらえて「ポトラッチ的書評」と呼んで批判し、同時にもっぱら書き手の人格批判のためになされる辛口批判を「ためにする批判(目的ありきの批判、という意味だろう)」と呼んでこれも退ける。
村上春樹の生原稿を売り払ったことで評価を落としたヤスケン(今は俳優の安田顕のほうが有名だろう)こと安原顯からの、全く噛み合わないただの罵倒みたいな批判にしっかり応答しているのも、真面目さの現れに見える。
それが日本の「文学」にとって必要のものだったのかとか、今の文学にもそういう精神性が必要なのかどうか、といったことは、少なくとも今の自分にはわからないのだけれど、その真面目さに、一人の読書好きとして心をうたれたことは確かだった。
という今回の読書感想は、自分が昭和の評論家の嫌いなところを吐き出すための「ためにする感想」になってるきらいがかなりある。全然よくないことなんだけど、そのことを注意書きした上で公開することにする。
