チャンドラーによる「マーロウもの」長編小説を、村上春樹訳で、原書の発表順に読み続けて6作目*1。ようやく名作の呼び声高い『ロング・グッドバイ』にたどり着いた。
実は2013年に一度読んで感想も書いている(拙すぎて恥ずかしいのでどうしても読みたい人はブログ内検索してください)。でもさすがに昔過ぎて冒頭と結末以外のストーリーをほとんど覚えていなかった。
発表順に読んだ感想として、これまでのどの長編よりも圧倒的に読み進めるのが楽だったし、楽しかった。
チャンドラー特有の、持って回ったオシャレな言い回しが必要最小限に抑えられていること(だからこそ、ここぞという場面で最大の効果を発揮してもいる)。そしてなによりプロットがスッキリとまとまっていることが大きな要因だろう。
チャンドラーの文章的な美点は、長編第一作の『大いなる眠り』の時点ですでに光り輝いていた。20年ほどの作家としてのキャリアを経て、ようやく全ての欠点を克服して書き上げたのが本作。そんな印象がある。経験と身体能力を兼ね備えた絶好調のエースピッチャーが投げる渾身のストレート、みたいな。
はじめてチャンドラー作品を読む人にオススメしたい作品は? と聞かれたら、やっぱり本作しかないな、と言わざるをえない。いや、要素だけを取り出したらおすすめできない点は多い。多分マーロウものの中では一番長いし、前半はマーロウの見せ場が少ないし、全体通して派手なアクションは出てこない。「ハードボイルド小説の代表格」という評判を聞いて読み始めたら肩透かしを喰らう可能性は結構ある。
でも文章そのものの味わい深さ、ストーリーの鮮やかさ、それらの有機的な結合が生む「読み応え」において、本作は自分が今まで読んできた小説の中でも群を抜いている。最近は歳のせいかあんまし読書の集中力が続かないので、毎日習慣的に数十ページ読書するようになってたんだけど、本作に関しては面白すぎて後半を一気に一日で読んでしまった。本当に良質な読書体験だった。
多くの名作と呼ばれる小説と同様、実に様々な要素を含んでいる。探偵小説であり、また事件の中心にあるのは恋愛における愛憎だ。アルコール小説でもあり、都市や犯罪、資本主義社会に対する深い洞察もある。
しかしまず重要なのは本作が友情小説であることだろう。
友情、というと「友達サイコー、信頼、ハッピー」みたいな少年マンガ的な話を想像してしまうかもしれないけれど、そういうことではない。
己の所業によって落ちこぼれかけているが、それでもなんとか踏みとどまろうとしている。そのような、弱さと強さを兼ね備えた人間に対する、ある種の鏡像的な共感がベースとなった友情。それがマーロウにとってのテリー・レノックスであり、ロジャー・ウェイドだ。彼らは「あり得たかもしれない自分自身の姿」なのである。
と、同時に、マーロウも、テリーも、ロジャーも、あるいは大富豪のハーラン・ポッターも刑事のバーニー・オールズも、分割された作者の自我の一部であるように感じられる。と言ってもそれは明確な自我そのものではない。あくまでも仮説としての自我、可能性としての自我みたいなものであって、安直に登場人物の思考・行動を作者と結びつけていいというわけではない。
物語という器の中で、複数化された自我の相克を描くこと。新しい世界の可能性を開くこと。それが優れた文学作品のあり方のひとつだ。
たとえば村上春樹の「羊三部作」にも多分にそういうところがある。「鼠」は主人公「ぼく」の分身であり、作者自身のある意味での分身だった。村上春樹はそのような書き方をチャンドラーから学んだのではないだろうか。
本作を読んだ後、たまたま高橋源一郎『一億三千万人のための小説教室』を読んだら、本作と『羊をめぐる冒険』の文章の類似点を(肯定的に)指摘している箇所を見つけた。なかなかの偶然。
昔、チャンドラーという人が、ある小説を書いた。それを読んだ村上さんは、素晴らしいと思った(小説をつかまえた)。村上さんもまた、ボールを求めて、グラウンドを走り回っていたのだ。そして、小説をきちんとつかまえることができた人が、みんな、そう思うように、村上さんは、ただつかまえることに満足せず、その小説をまねよう、と思った。[高橋源一郎『一億三千万人のための小説教室』]
ロジャー・ウェイドが実在の小説家フィッツジェラルドを敬愛していたことは、彼の代表作『グレート・ギャツビー』を想起させる。
「かつて愛した人が時間の流れによって変わってしまった」という問題。それによってギャツビーは、いわば物語的な必然性によって命を落とす。リアリズム的に考えれば不幸な事件ではあるとしても、象徴的な意味で彼の幻滅が彼の死と連動していることは明らかだ。本作ではそれとほぼ同じ問題が、2つの殺人事件を引き起こす。
あるいはその問題をもっと広い意味で捉えるならば「一番大事な人を失ったらどうすればいいのか問題」と言い換えてもいいし、「God Only Knows(The Beach Boysの楽曲)問題」と呼んでもいいだろう。すなわち、「君がいなかったらぼくはどうなってしまうか、神のみぞ知る」という歌詞が問いかけるような問題。訳者の村上春樹の作品では『ノルウェイの森』が真正面からその問題と向き合っていると、自分は考えている。
最も強く追い求めた人と、結ばれるとは限らない。そうでない人生を送らなければいけない時、人はどう生きればいいか。
作中で言及されるようなフロイト的な分析をするならば、そもそも人が誰かを強く追い求めるのは、生まれた直後に持っていた全能感の喪失と、その埋め合わせのために親に対して抱いた密着感のさらなる喪失を埋め合わせるべく、己の欲望を他者に投影しているに過ぎないのかもしれない。つまり全部幻想に過ぎない、と。
わかっている。そんなことはわかっている。でもそんな理屈は、人間の主観的な世界観にとっては無意味なことだ。大切なものは大切だし、大切なものを失うのは苦しいし、それでも人は生きていかないといけない。そしてある者は上手く生きられずに、死んだり殺されたりする。本作の登場人物たちのように。
そしてそのような心情に、もっともよく寄り添ってくれるのが、おそらく文学だ。音楽の場合は歌詞が必要で、それは広い意味で文学だし、映像作品の場合でも、そのような作品は「文学的」と形容されるだろう。人は文学にそのような機能を、ほとんど本能的に求めているのかもしれない。
もちろん文学が寄り添ってくれたからといって問題が解決するわけではない。そんなに重大な問題が、そんなに簡単に問題するわけがない。でももしかすると、ある作品が、人生の一局面において、無人の荒野を進むための、たったひとつの「ともしび」になってくれるかもしれない。あるいは現実の困難に直面する前の「ワクチン」になってくれるかもしれない。
本作もまた、そのような意味合いにおいて、文学史に残る名作なのではないかと、自分は思う。恋愛に限らず、マーロウのように孤独を生きる人にとっての「ともしび」に。どれだけ多くの人と出会っても、人は結局ひとりで生まれて、ひとりで死んでいく。そんな人生にとっての「ワクチン」に。
本作を原作とした映画『ロング・グッドバイ』を、たまたま家族がU-NEXTに登録していたので観てみたら、かなりアレンジが加わっていて驚いた。原作ファンは結構怒ったらしいけど、そりゃーそうだろう、これだけ変えたら。
多分、原作のオチに納得できなかった人が作った映画なんじゃないかと思う。アリかナシかで言えば、そういうのはオリジナル作品でやればいいんじゃあないかと思うけれど、原作とは全く別のマーロウとしてカッコいいので、そういう意味では良い。妙に笑えるシーンもあるし。
70年代当時に、小説版の30~40年代のマーロウを再現しても、それはもう単なる回顧趣味にしかならない。時代に合わせたハードボイルド像を描こうとしたと考えれば合点がいく。それにしても、あのラストはかなり驚いたけど。
映画版は松田優作主演の『探偵物語』やアニメ『カウボーイビバップ』に影響を与えたらしい。なるほど。どうもチャンドラーとそれらの作品の「ハードボイルド」はかなり質が異なるように感じていたのだけれど、この映画の飄々としたマーロウが間に挟まっていたからだったんだな、とちょっと納得した。
あと映画版には若き日のアーノルド・シュワルツェネッガーがチョイ役で出演しており、鍛え抜かれた肉体美を披露している。そこに至るストーリーの流れが強引すぎて、「シュワちゃんを脱がせたかっただけなのでは?」という疑念が頭をかすめた。ドラマ版『リトル・シスター』に出演していたブルース・リーといい、チャンドラー作品の映像化は、なぜか後のアクションスターと縁があるらしい。
残る未読マーロウ長編は『プレイバック』のみ。終わってしまうのが寂しい。チャンドラー最後の完結長編をしっかり味わいたい。
*1:『さよなら、愛しい人』は5年前に読んだのでスキップした

