rhの読書録

とあるブログ書きの読書記録。

絶品の文章に、かわゆい猫たち(猫のよびごえ / 町田康)

猫のよびごえ

猫のよびごえ

 町田康の猫にまつわる随筆最新刊。「猫にかまけて」「猫のあしあと」「猫とあほんだら」に続く四作目。他に、犬目線で書かれた「スピンク日記」「スピンク合財帳」もある。

 「シャンティー。あれは、掃除機、といって、とっても便利な文明の利器ですよ。あれがあるお陰で主婦のみなさんなんかはムチャクチャ楽になったんです。なので、いまはどこの家にも掃除機がある。けっして悪魔の機械なんかじゃありませんよ」
 と、説得するのだが、シャンティーは、
 「いや。間違いない。あれは悪魔の機械だ。出ていったらあれに吸い込まれて死ぬ」(40ページ)

 シャンティーとは、町田家に住む猫である。このような、著者と猫との「会話」が度々出てきて、それがいちいち面白い。「あれに吸い込まれて死ぬ」という断定口調に、動物的な直截さが現れている。

 人間は日々いろいろなことを考えて行きている。その考えを考えている当人は、その考えをとても大事なことであると考えている。しかし実際のところ、その考えの大部分は、ちょっと視点を変えればすごくどうでもよいことだったりする。

 一方、この本に出てくる猫は、そのような考えを持たず、より快・不快に忠実に生きているように見える。食べて、寝て、「山芋殴り、猫の滝登り、とっくり運び」といった遊びをして(どんな遊びだかさっぱりわからないが)、喧嘩をして、日々を過ごす。まるで、生きる上で本当に大事なことは何なのかを、教えてくれているようである。

 そんな猫たちに対し、著者は敬意を持って接し、彼ら、彼女らの「言葉」に耳を傾ける。だから猫と人が会話をしていても違和感が無い。

 それどころか、人に慣れていない猫たちまでをも預かり、身銭を切って世話をするのである。単なる「猫好き」というだけでは、なかなかそこまでできるものではない。

 この本が読んだ人の胸を打つとしたら、それは作者が文字通り己のみを投げ出して、猫たちと接し、出会い、別れ、日常を送っているからに違いない。

 では最後に、読んでいて最もスゴいな、と思った部分を紹介。

 ドナイショ、ドナイショお、で半年くーらす。後の半年ゃ、寝てくーらす。と、ドナイショ踊りを踊って踊り疲れて眠って起きた。
 理論的に言うと一年が経っているはずだが計測してみると一晩しか経っていなかった。
 どういうことだ。訝りはしたが追求はしなかった。その追求しない姿勢こそが歳をとるということだ、と苦笑いした。苦笑いというものがあるのであれば甘笑いというものがあるはずだが、それはなく、福笑い、という子供騙しがあるだけだ、と怒り狂うことができる若さが自分にあればな。ははは、思えば二十歳のときから私は老いていた。(69ページ)

 内容自体は、こういってはなんだがわりと無内容なのだが、特に後半にかけてのスピード感がスゴい。一文の中で語り手のポジションが五転、六転くらいしていて、強烈なおかしみを生んでおり、しかもそれを軽々とやってのけているように見せている。

 こんな絶品の文章に、かわゆい猫たちの写真がふんだんについてくるのだから、これはもう読むしかない。僕が金欠なのに即買いしてしまったのも、仕方のないことなのである。きっと。