最近、読みたい本が見つからない。読むべき本がわからない。いや、本当は常に本に迷い続けている。いつも行き当たりばったりだ。
じゃあいろんな本の末尾にリストアップされている「参考文献」を、自分も参考にすればいいんじゃね?
と考え、参考文献を全部メモアプリ(正確に言うとアウトライナーアプリ)に書き写してみることにした。
その一冊目として選んだ千葉雅也『勉強の哲学』の参考文献に、本書『未知との遭遇』が含まれていた。
「お、佐々木敦じゃーん」というわりかしカルい気持ちで本書を手に取り読み始めた。
決定論とはなにか。
例えば、あらゆる物理運動に因果があることを認めるのであれば、あらゆる物質の運動はすでに決定されており、そこに例外はないことになる。
この世の出来事は、超大量なミクロやマクロの要因によって生じているだけで、本質的には木からりんごが落ちるのとなんら変わりない。
人間には意志があり、それによってものごとを判断しているが、(唯物論を採用するのであれば)それらも全て物理的な作用に過ぎず、決定された物理運動に変更を加えているわけではない。意志もまた、決定された物理運動に含まれているからだ。
それが決定論。少なくとも物理的観点から見た決定論とは概ねそのようなものと言っていいだろう。
そんな決定論にどう向き合うべきか。
最も穏当な考え方は「そんなこと考えてもしょうがない」だろう。
全てが決定されていたとしても、人間のスケールでは決定された内容を知ることは到底できない。
もし意志すら決定されたものだとしても、現に自分の感覚として意志というものがあって、それで問題なく生活できているんだから、決定論について考えても大した意味はない。
そんなふうに考えるようにしている。少なくとも自分は。
しかし本書の結論はそのような穏当な事なかれ主義とはある意味で真逆の態度をとる。
- すべてが決定されているからこそ、前向きに生きよう。
本書の結論を1行にまとめるならばこういうことになると思う。
- すべての過去は、そうでしかありえなかった過去だ。「もしも」などない。だから起こったことは全て肯定しよう。
- そうとわかっていても、人間はどうしても後悔してしまう。だから後悔は優しく受け止めよう。
- 未来もまた決定されているが、未知である。未知を楽しもう。
3行でまとめるならこのようになるだろう。
「全部が決まっているなら、何を考えても無駄なのでは?」という意見に対しては本文中で反論している。端的に言えば「その無力感すら決定論に含まれているので、その無力感自体に意味がない」ということになる。
「因果とは無関係に、例外なくすべてが決定されている」という、最も強固な運命論、すなわち本書で「最強の運命論」と呼ぶものから導き出されうる無力感を反転し、むしろポジティヴに転換する。それが本書の試みだと言えるかもしれない。
これは一種の人生観であって、自己啓発的ですらあることは著者も認めている。
読後の第一印象としては「決定論は人間のスケールを超えているのだから、そこから人生論を抽出したとしてもなかなか受け入れるのが難しいのではないか」という感触があった。
しかし読んでからしばらく経つうちに、「知的に厳密に考えれば決定論を採用せざるを得ないのであれば、それを軸に生き方を考える方が知的に誠実なのかもしれない」とも思うようになった。
ともあれ本書はその結論に至るまでに、様々な議論を通過する。
インターネットが可視化(捏造?)した無限の情報と、それによって生じた学ぶことの困難さ。「おたく」から「オタク」への変遷。偶然論。運命論。可能世界。シャカイ系がセカイ系の一部であること。自己を多重にすること。インプロヴィゼーション。どれも興味深い議論だ。
それぞれの議論があまりに面白いので、本の全体をメモアプリに要約してしまった。1段落→1行くらいの割合で。3日がかりで。
無限後退を「適当なところで止める」という考え方は、まさに『勉強の哲学』に通じている。
それらの議論は本書全体の結論と確実に響き合ってはいるが、結論を補強し説得力を増していると感じたかいうと、個人的にはハッキリYESと言い切れないところはある。今のところ。
それは決定論や偶然論に対して「それって人それぞれの考え方の問題じゃないか」という認識が自分の中にあるからだと思われる。こういう考え方をポストモダン的と言うのだろうか。
「全ては決まっているので、過去は受け入れて、未知なる未来を楽しもう」という考え方は魅力的だが、論理的および感覚的に納得するのには時間がかかるのかもしれないし、そもそも納得できるのかどうかもわからない。結局のところ「ノるかノらないか」の問題でしかないのかもしれない。
しかし少なくともそのポジティヴさは積極的に取り入れていきたいと感じている。間違いなく。
インプロヴィゼーションとしての生。それは自分を可能な限りマルチプルに鍛え上げながら(もちろんその前に自らのマルチプルさに気付くという段階があります)、「諸現実=諸虚構」の無数のヴァージョン、すべてが正しいヴァージョンの不断に寄せ来る波として、絶えざる「未知」としての次の瞬間を、限りなく微分してゆくこと。そして過ぎ去った時間に対しては、あの「最強の運命論」をもって、力強く肯定してゆくことです。それはUNKNOWNをMIXしながら生きることでもある。「アレ?」と言えること、「吃驚」できることでもある。そうすれば、われわれの世界はセカイでもシャカイでもない、真のアドベンチャーワールドとしての正体を露わにし、僕たちの人生はゲームなど比較にならない、めくるめく冒険としての姿を覗かせることでしょう。少なくとも僕は、そのことを確信しているのです。(「未知との遭遇」)