なんとなく苦手意識があった円城塔の小説に挑戦。
なかなかに難解な小説であった。おそらく難解という前評判が耳に入っていたから苦手意識があったんだろう。
わかったことやわからなかったことを書いていく。
まず全体を要約してみる。多分本作未読の人が読んでもなんのことだかよくわからない要約になっていると思う。読んでいてもわからないかも。
これを書いている自分自身の頭を整理するためのものでもあるので、ご容赦いただきたい。
全5章となっており、章ごとに語り手、あるいは書き手が変わっていく。語り手を信頼するのなら。
第1章。
東京-シアトル間の飛行機の中。飛行機の中だと上手く本が読めない、と考える「わたし」に、A・A・エイブラムスという実業家の男性が話しかけてくる。「着想を銀の網で捕らえている」という。着想は蝶の姿をしている。
わたしの着想にヒントを得て書かれた本「飛行機の中で読むに限る」が、豪華客船で旅する富裕層の間に口コミで大ヒット。
蝶を鱗翅目研究所に持ち込んだところ、新種の蝶として認定され、アルルカン(道化師)にちなんで「アルレキヌス・アルレキヌス」という学名がついた。
第2章。
第1章の内容が、無活用ラテン語で書かれた小説『猫の下で読むに限る』の翻訳であることが明かされる。著者は友幸友幸(ともゆきともゆき)。第2章は、出版されたその『猫の下』の翻訳者による、後書きのような文章。
友幸友幸は旅する小説家、手芸家、言語学習者であり、その消息をA・A・エイブラムス私設記念館が捜索しているが未だに見つかっていない。なおエイブラムス(第2章では女性とされる)は死去している。
友幸友幸は世界各地を転々とし、その地の言語と手芸を学習し、膨大な文章と手芸作品を残している。そのすさまじい言語学習スピードは異能力の域に達している。
第3章。
第2章の描写と照らし合わせると、おそらく第3章は友幸友幸視点の語り。場所はモロッコのジュカ。
彼女は各地で言語と手芸を覚えては、別の地にわたり手芸作品を売って生活している。記憶スピードは早く、忘れるのも早い。
章の終盤、突然シアトル-東京間の飛行機に移動する。そこはおそらく彼女の小説世界の中。
隣りに座った慈善家の女性が「幸運を捕える網」を私に見せる。
第4章。
前半は、A・Aエイブラムス私設記念館のエージェントとして友幸友幸を追う男のレポート。後半は同じ男視点の語り。レポートはサンフランシスコで書かれている。
レポートの内容は友幸友幸、およびエイブラムス私設記念館に付いての考察。
さらに男が『猫の下で読むに限る』の翻訳をした、とも語られる。だとすると第2章の書き手もこの男だということになる。
男はエイブラムス私設記念館で、受付の女性にレポートを提出する。女は男を「ミスター友幸友幸」と呼ぶ。
第5章。
レポートを受け取った女の視点。女は友幸友幸本人だということが明かされる。彼女は自らの手芸を「読み」、また自らの書いた文章を読むことで記憶を巡っていた。
女は男から受け取ったレポートを読む。レポートに使われている日本語は習得していないが、文字の筆跡を確かめ、書き写すことで、少しずつ内容を感知することが、彼女にはできるようだ。
突然レポートがある種の「呪い」であることを感知した彼女は、気がつくと「喪われた言葉の国」に立っている。
老人と出会う。老人は女に蝶を捕まえる網の制作を頼む。女は網を作って渡す。
老人は鱗翅目研究者だった。時間と場所が、第1章でエイブラムスが鱗翅目研究者に蝶を運んだ場面に戻っている。老人は蝶を新種ではない既知の種族であると伝え、エイブラムスに網を渡す。
老人から解き放たれた蝶は「わたし」になる。時間と空間を超えたわたしは飛行機に乗る(エイブラムスと思しき)男の頭に卵を産みつける。
以上、要約終わり。
一読しただけだと何の話をしているのかよくわからない摩訶不思議な小説に見えるかもしれない。
しかし注意深く読めば、実は物語の構造自体はそれほど複雑ではない、と思う。
第1章は友幸友幸による『猫の下で読むに限る』という小説内小説である。また、第3章の後半と第5章の後半は彼女にとっての「物語世界」のようなものと読める。イメージか、幻覚か、もっと身も蓋もない言い方をしてしまえば妄想か。
それらのパートにおいては、時系列が錯綜し、空間は飛び越えられ、発想が蝶の形となり網で捕らえられるなど、非現実的なことが起こる。
しかしそれ以外の、友幸友幸やエージェントの男目線のパートは、いわゆるリアリズムに則っており、非現実的なことは起こっておらず、時間的または空間的な矛盾やねじれは無い、と思われる。自分の見落としがなければ。
ただひとつ非現実性があるとすれば、友幸友幸の超人的な言語学習能力くらいだろうが、これも小説設定と考えればむしろ控えめなくらい。
「無活用ラテン語」や「ジュカ語」など、登場する事物も現実に即しているようだが、「ミスタス」という地名だけは現実に存在しない架空のもので、検索したところ元ネタはオンラインゲーム『ウルティマオンライン』に登場する都市と推測されている。これは著者の遊び心と見るべきだろう。
エイブラムス(らしき人物)の性別が男→女→男と変化しているのも、友幸友幸の物語世界の中でのことなので食い違いはない。第2章の「子宮がんになった」という記述を信頼するのであれば、(小説『道化師の蝶』における)実際のエイブラムスの性別は女ということになる。
これらのことを踏まえると、この小説のストーリーは「友幸友幸という超人的な言語学習能力を持った人物が、自らの小説、あるいは物語世界を『書き換えていく』物語」として読むことができる。こう書くとそれほど複雑な話ではないように見える。まぁ、この結論に至るまでに、自分はこの小説のことを読み始めてから5日くらいかかったけれど。それもどこまで妥当かはわからないし。
このような入り組んだ構造の小説は、テクニカルなSFやミステリ小説に馴染みのある人であればスムーズに読めるのかもしれないが、文学に「人間」や「社会」を求める人にとってはなかなか受け入れがたいものであり、芥川賞選考員の間での評価が世代間で分かれたのもそのような理由なのかもしれない。
この小説にテーマのようなものはあるのだろうか?
芥川賞を受賞した当時は、着想やアイデアについて書かれた小説だ、と言われていたらしい。
自分としてはもっとシンプルに、著者である円城塔にとっての「小説の書き方」がテーマであるように感じた。
創作を創作論として解釈するのはベタすぎてあまり意味がないのかもしれない。優れたマンガはマンガ論として読めるし、優れた映画は映画論を含んでいると鑑賞できる。小説もまた同じ。
しかし例えば第3章の、友幸友幸の手芸の作り方、あるいは物語の書き方についてのくだりは、特異な小説を書き続ける著者自身とダブって見える。(自分はあんまり読んでこなかったけど。)本人にとっては自然なやり方なのに、世間からはズレているらしい、という感じが。
あるいは各章が小説の創作の過程に対応しているのではないか、という読みも自分の頭には浮かんだ。
- 第1章:着想
- 第2章:文体の選定
- 第3章:実作
- 第4章:推敲
- 第5章:読者による「読み」と、新たな着想
みたいな感じで。ちょっとこじつけがすぎるだろうか。
だとすると、友幸友幸がレポートを読んで「呪い」と感じたように、このブログ記事みたいな分析的な読み方もまた、著者にとっては「呪い」になるのだろうか。だとしたら申し訳ない。まぁ、考えすぎだと思うけれど。
本作にはさらなる着想が埋まっている。たとえば第4章の「繰り返し語られ直すエピソードが、互いに食い違いを見せるたび、文法の方が変化していく言語というのは無いものだろうか?」という部分。
実際にそんな小説が可能なのか? あるいはこの『道化師の蝶』小説がそのようなものを意図して書かれたものなのか?
流石にそこまで話が複雑になると自分にはもうお手上げ感がある。本作にしても、もうちょっとわかりやすく書けたんじゃないの? と正直思う。でもこの書き方が著者にとって必然なのであれば、読者としてはそれを受け入れるしかない。
それに、ただ複雑なプロットで読者を煙に巻くだけの書き手ではないことは、(自分はあまり追えていないけれど)その後の著者の活躍が証明しているだろう。次は『屍者の帝国』を読みたいと思う。