面白い本を読むと、なにかを語りたくなる。あるいはなにか語らなきゃいけないような気持ちになる。そんな「なにか」を書くブログ。
ペット・サウンズ / ジム・フジーリ 村上春樹 訳
アメリカのバンド、ビーチボーイズが1966年に発表したアルバム『ペット・サウンズ』はロック史に残る名盤とされている。音楽雑誌が行う「ロックの名盤ベスト100」的な企画では、ほぼ確実にトップ10に入ってくる。ビートルズの『サージェント・ペパーズ~』と並んで。
その制作をプロデューサーとして手掛けたブライアン・ウィルソン。彼の来歴を追いつつ、名盤制作の経緯を解き明かしていくのが本書。
原書は「一冊丸々使ってアルバム1枚を紹介する本」というコンセプトで出版されている「33 1/3」というシリーズの中の一冊とのこと。なお日本のアルバムを紹介したシリーズもあり、初音ミクやカウボーイビバップのサントラ、ユーミンなどが取り上げられているらしい。
ペット・サウンズ収録曲、およびその前後に発表された曲を、コードやメロディの進行、楽器の使い方といった観点から、1曲ずつ読み解いていくというスタイルをとっている。楽曲を聴きながら読むと理解度が10倍くらいに跳ね上がる。サブスク時代の現代にこそピッタリな本、かもしれない。
著者ジム・フジーリは探偵小説などを書いてきた小説家。幸せな少年時代の終わりに「ペット・サウンズ」と出会った。サーフィンや、ディズニーランドがある、光り輝くカリフォルニアから、その音楽はやってきた。
自分は学生時代、レッド・ホット・チリ・ペッパーズを聴いてロックに目覚め、ビートルズやレッド・ツェッペリンなど60年代ロックも聞くようになった。というか家にCDが揃っていたのでそれを聴いていた。
でもビーチボーイズのアルバムは一枚も無かった。し、買って聞こうとも特に思わなかった。
当時の自分にとってロックとは、ギターがジャカジャカ、ベースがブンブン、ドラムがドカドカいうもの、もしくはDevoみたいなテクノ、くらいの認識だった。とにかくギラギラしたもの。それがロックだった
ビーチボーイズに対しては、フニャフニャしたコーラスを歌う、昔のグループ、というイメージしか無かった。サーフィンや夏を歌うサーフサウンドのイメージ、すら無かった。
それからしばらくして(ちょうど本書が出版された頃と思われる)自分にビーチボーイズを自分に「届けて」くれたのが、本書の訳者でもある村上春樹だった。
『村上ソングズ』収録の『God Only Knows』の訳詞を読んで衝撃を受けた。なんて切ない歌詞なのか、と。
一見すると、恋人への呼びかけのような体裁を取ってはいる。しかし全然ポジティブなことを言っていない。
一番の歌詞は「ネガティブなことを否定する」という話型をとっているが、その裏で、ネガティブなことの到来を予感しているのが、ありありと伝わってくる。
そして二番の歌詞は、もう「君がいない世界の僕」のことだけで埋め尽くされている。
そんな痛切な歌詞が、まるで天に登るようなハーモニーで歌い上げられ、きらびやかな楽器群によって彩られる。
そうして『God Only Knows』は速攻で自分の好きな曲のトップクラスに躍り出たのだった。
ビーチボーイズの歴史を辿ると、伝説のアルバムを作った天才で純粋なブライアン・ウィルソンという物語をつい作ってしまいそうになる。本書からもそれは感じる。音楽面に関しては、才能よりも努力を強調してはいるものの。
若さゆえの純粋さ。誰かを純粋に見つめるある若者の視線。その壊れやすさと美しさ。時に傲慢さ。それらが簡潔で端的なことばに詰め込まれた歌詞。その世界に引き込まれそうになる。
そんな作品世界をなぞるように、ブライアンはペット・サウンズを作った後どんどんダメな感じになっていく。その様は、たとえば隠遁生活で生涯を終えたJ.D.サリンジャーを思い起こさせる。そのピュアさに満ちた作風と合わせて。
しかしその後ブライアンは復調。旺盛な音楽活動を行い現在も80歳で存命である。
そのことがペット・サウンズというアルバムの意義を一層高めているように思われる。自伝映画なんかも公開されているらしい。ピアノのみで自作を演奏したアルバムがあり、これもまたイイ。
ブライアンの父親マリーの蛮行には、読んでいて背筋が寒くなる。虐待のみならず、自分の息子たちのライバルになるようなバンドをデビューさせたり、曲の権利を勝手に売り払ったり。
しかしウィルソン家が音楽一家なのも、ビーチボーイズがスムーズにデビューできたのもおそらく彼のおかげ。功罪あって罪が大きすぎる人物、というべきか。
メンバーのマイクも本書の中では悪役に見える。実際アメリカ本国でも相当に嫌われ者らしい。完全なはた目からビーチボーイズの経歴を見ると、ブライアンが離れた後のバンドを乗っ取ったようにも見えなくもない。
しかし彼が見た通り、ペット・サウンズがそれまでのアルバムと比べて売上が伸びなかったのも確かである。世間の評価が追いつくのには時間が必要だった。
ビートルズのポールが激賞したとされるように同業者からの評価は高く、ポップな曲もあるにはあるが、アルバム全体としてとっつきにくい感は否めない。商業的な要請に答えるのもプロデューサーとして必要なことだ。
バンドメンバーのことを顧みず、当時トップクラスに優秀なスタジオミュージシャンを集めて作りたい曲を作ったブライアンは、メンバーからすればバンドという共有財産を私的利用したように映ったのかもしれない。
たとえば後年マイクが3人のミュージシャンと共作した曲である『ココモ』などのほうが、聴けば一発でわかるほどわかりやすい。なんかイヤラシイ曲だな、とも感じるけれども。
しかし今となっては、そんな諸々があったおかげでペット・サウンズという名作が世に生み出されたわけで、その実りを享受できる我々は幸せなのだろう。BBCが制作した、豪華ミュージシャンによるGod Only Knowsのカバー(ブライアン本人も参加)なんてのも作られた。映像はちょっとゴテゴテしているがサウンドはとても美しい。
ところでペット・サウンズのペットってどういう意味なんだろ。
God Only Knowsの解説の、例えば以下のような部分。
もし我々がすべてを奪い尽くすような愛に身を委ねたなら、その先それなしに生きていくのは不可能になってしまうことだろう。なのに、それだけのリスクに見合う報償が与えられるかどうか確証はないにもかかわらず、そこに身を委ねたいと我々は切に望むのである。
これを読むと、なんだか村上春樹の諸作の解説を読んでいるようでもある。例えば『スプートニクの恋人』とかの。
こういう視点は男性的なものなのだろうか?あるいは、そもそも女性の世界には、男性は始めから存在しないのだろうか?
というようなことを考えたが、怖いので一旦それ以上考えないようにした。
しらふで生きる 大酒飲みの決断 / 町田康
酒。飲まずにはいられないもの。という自分は酒は飲まない。
理由は、自分のような人間が酒を飲みだしたらいよいよ終わりだな、という確信があるから。自己評価の低み。今ではすっかりぼっちだが、酒の上での失敗もひとつやふたつあるし。
本書の著者は、ほぼ毎日欠かさず飲酒していたが、ある日酒を飲むのをやめようと思い立つ。
なぜそんな考えが生じたのか? それはわからない。なぜならその「考え」を渋谷駅西口の歩道橋の上から突き落としてしまったからだ。
「考え」を突き落とす? どういうことだ? とお思いかもしれないが、それは文学的な手法、というか、言語的戯れ(たわむれ)、というか、とにかくそんなようなものなのであまり気にしなくてよいだろう。
自分の考えは自分でもよくわからない。そういう事情の言い換えだと自分は読んだけれど、別にそれはひとつの解釈であって、もっと違う見方をしてもいい。というか自分もしたい。
そして著者の考えは、なぜ酒をやめようと思ったのか、どうすれば酒がやめられるのか、に及ぶ。
自分のような科学万能主義に毒された人間からすると、酒は脳に物質的な快楽を齎すので、酒に領された考えは酒によって歪められて認知的なバイアスがかかっている、と思ってしまいたくなる。そのような切断によって、己の精神的安全性をキープしたくなる。そういう欲望が生じる。
しかし誰にでも認知的なバイアスはあるわけで、他人のそれを見ようとしない態度は、自分のそれをも見えなくしてしまう危険がある。誰だってなにかに依存しているわけで、そのありさまは大抵、他人からはズレて見える。
そこに著者はあくまで言葉で向き合おうとする。酒は強く、言葉は弱いが、それでも。その様を読者は瞠目しなければならないと思う。
著者は、酒飲みにとっての、酒をやめようという考えを「狂気」と呼ぶ。
世間一般から見れば、断酒は褒められるべきことであり、むしろ「正気」だ。しかし酒飲みの世界ではそれは顛倒しており、酒を飲むことが正気で、酒を飲まないことは狂気なのである。そのことを正面から見つめている。
そして、実際に酒を絶ったからと言って、あれは狂気ではなく正気だった、などとは言わない。それは主観的事実に反するからか、それとも正気・狂気は世間が決めるものではないからか。
人は生きる上で様々な苦しみ、ストレスを得る。それを解消せんがために酒を飲む。しかし酩酊している間は意識が麻痺しているので何の喜びも得られないし、翌日の二日酔いや酒毒による体調悪化など別の苦しみやストレスを抱え込むことになる。
人生のマイナスをプラスにすべく酒を飲むが、実際はマイナスが増える。そしてそのマイナスは酒を飲めば飲むほど負債のように増えていく。快楽と苦しみは表裏一体である。
だから、そもそも人間はプラスになるべきだ、幸福を得るべきだ、という認識を捨て、自分はアホである、というかそもそも他人と自分を引き比べること自体が無意味だ、と認識すべき。
というのが筆者の断酒に至る理路である、と自分は読んだ。
自分の感覚は微妙に違っていて、そもそも快楽と苦しみが表裏一体というより、快楽自体が苦、であり、なぜなら快楽はそれを享受している間は確かになんだかイイ感じになるが、それが終わった後はもっと快楽を求めたくなり、そうして快楽を求めては得る、ということを繰り返していくとさらに強い快楽が欲しくなり、やがて快楽を求める心が苦しみそのものに変わっていく、という性質がある、と考えている。
そのことを認識すれば、むやみに快楽を追い求めるようなことはしなくなる。というか、できればしなくなってくれ。
というのが自分の考え方。たしか昔読んだ中村元の仏教の本に、快楽が苦であるという仏教の考え方が書かれていて、得心した記憶がある。
多分、本書の著者の考えと自分の考えは、方向性としては同じだが、人生の憂さとかは関係なく、単に快楽そのものにそういう性質がある、と見るところに違いがあるのかもしれない。
酒を断ったことで著者は、
①ダイエット効果
②睡眠の質の向上
③経済的な利得
そして
④脳髄のええ感じによる仕事の捗り
という様々な利得を得たという。しかしそのことによってすなわち幸福を得たわけではない。なぜなら幸福はすぐにかき消えてどこかへ行ってしまうものだから。
さらに精神的なゆとりも生まれた。それは、
これまでは目的地を、楽しみ、と誤って設定し、急いでいたが、本当はそれが、死、であることを知り、死を恐れる気持ちから急ぎたくなくなり、また、なにもない瞬間を大事に思いたい、という心境に到ったからであろう
とのことである。それは大きく言えば人生観が変わった、ということかも知れず、であれば小説観も変わった、のかもしれない。それはこの後の著者の著述などを見ていけばわかることだろう。
書き出し「世界文学全集」 / 柴田元幸
小説の書き出しを読むのが苦手だ。
何の予備知識もないまっさらな状態で、文章を読み始めなければならない。与えられる情報はせいぜい表紙と著者名のみ。そこからその文章が何を伝えようとしているのかを汲み取らなければいけない。
映画における冒頭の10分はそこに描かれる世界を端的に理解するための重要なシーンだが、小説の場合はそれを自分の脳内で組み立てなければならない。
おそらく小説が好きな人は、その組立作業こそを楽しんでやっているのだろう。次はどんな物語を始まるのだろう、と胸を高鳴らせながらページを繰る。
しかし、小説という形式を特段愛している訳では無いが、できれば面白い小説は読みたいな、などと祈念している怠惰な自分にとっては、小説の冒頭を読む行為は、結構しんどいものである。
そんな自分の性向をすっかり忘れて、軽い気持ちで「書き出しだけなら気楽に読めるかな、あの柴田元幸の翻訳だし」などと思って本書を手に取ってしまったが、読み通すのにかなり苦労し、自分の性向を改めて噛みしめるハメになった。
続けて読もうとしても、場面転換に脳がついていかない。なにしろ古典英米文学なんて『グレート・ギャツビー』より昔のものは読んだことがないし、地名も頭に入っていない。
作者ごとに文体も変わるので、毎回自分をチューニングし直さなければいけない。文体の違いを翻訳で表現している訳者のスゴさを感じつつ。
でも苦労して読んだだけあって感じ入ることが多々あった。
それぞれの作品の作者たちは、それぞれの視点で、見える範囲のものを作品化していった。
それをこうして冒頭だけ並べたものを連続して読むと「実に世界は多様だな」ということまざまざと感じさせられる。
もちろんそれぞれの作者たちは多様性なんてことは特に考えなかっただろう。そもそも「多様性は大事」なんて価値観がほとんど無かった。あのオスカー・ワイルドも別に多様性を守るために文章を書いたわけでは無かった。
そもそも多様性という一つの価値観を崇め奉るのは、本当に多様性の理念に適っているのか? という自己矛盾も感じる。
しかしそんな価値観の問題とは無関係に、いろんな人が、一生懸命生きて、一生懸命書いたんだな、ということが、一冊の本から伝わってくる。だいぶ頭の悪そうなことを言っている気がするが、率直な感想なのだから仕方ない。
単なる短編アンソロジーではなく、ある意味作者が一番気合を入れる冒頭を集めた「冒頭集」だからこその迫力が生まれているのは間違いない。
特にアメリカ文学からは若い国ならではの変化の速さを見つめる視点が感じられる。『無垢の時代』の「ニューヨーク音楽院は移民の子孫が主な観客だったが、メトロポリタン・オペラハウスにはロックフェラーなどの有名な富豪が集まった」という注釈が何故か心に残っている。
自分が本書の中で一番「笑えた」のは『ジェーン・エア 第二版序文 』。自分の本を批判した人々に対してブチギレまくっている。ブチギレすぎて逆に自分にものすごく自信がある人みたいになっていて、さすがに自分を「事実を吟味し暴く者、金箔を削りとってその下の卑金属をさらす者」とするのは、現代の価値観からすると自信ありすぎじゃない? と思うが、それだけ強くなければ生きられない時代だったのかもしれない。
一番の「発見」が『草の葉 / ウォルト・ホイットマン』。全く名前を知らなかったが「自由詩の父」と呼ばれるほどの詩人らしい。すごく良かったので次に読んでみたい。
なおWikipediaでざっと調べたところ、本書収録作品の内、書き出しだけでなく柴田氏が全文翻訳したものとして『ロード・ジム』、『ハックルベリー・フィンの冒けん』、『ガリバー旅行記』が本書の前後に出版されている。
もちろん本書は当代随一の翻訳家によるキュレーションとしても「使える」本なわけだが、その前にまず本から伝わるこの迫力を味わってみて欲しい、ということをお伝えしたい。
ライティングの哲学 書けない悩みのための執筆論 / 千葉雅也 山内朋樹 読書猿 瀬下翔太
自分はブログを書いている。いちおう10年以上。普段は別のブログをメインで書いている。このブログは読書感想用。数年間あまり本を読まなかったため更新が滞っていたが、最近また本を読み始めたので頻度が増えた。
素人ながら日課でブログを書いているわけだし、千葉雅也『勉強の哲学』等を読んでいたこともあり、「書くこと」についての本である本書『ライティングの哲学』は、本屋に並び始めた時から気になる存在ではあった。
でも手には取らなかった。
なぜか。それはおそらく、これまで自分が「書けない」という悩みを避けてきたからではないかと思う。
以下、自分のブログを書くスタイルについての記述が続くが、本書の精神に則っとるつもりで、あえてカットせず残しておきます。感想は最後の方で、そんなに長くないです。
書くことそのものは決して楽ではない。むしろ苦しい。ベットでゴロゴロしているほうがよっぽど楽である。当たり前の話。
しかし、「いくら書こうとしても遅々として進まない」とか「無限に手直ししてしまって完成しない」とか「書き上がったものが絶望的な低クオリティで絶望する」みたいなことは、基本的には、ない。
ない、というか、そういう悩みから積極的に逃げ続けることによって、なんとかブログを書き続けていられている、と言った方が実情に近い。
「いい文章を書こう」みたいな気持ちはすべて捨て去る。本当に、そんな気持ちがあったら、一瞬で立ちすくんでしまう。
「普通の文章を書こう」でもまだダメ。自分は普通だというプライドがまだある。プライドは書く邪魔をする。
「思いついたことをそのまま書く」。かなりいい線をいっている。しかしまだ、なんというか、「アーティスティックな自分」的なニュアンスが残っている。
「自分が見たりやったりしたことについて、考えたことや感じたことを書く」。それが自分がブログでやろうとしていることに、一番近いのではないかと思う。まだ格好つけている感はあるし、よく考えると最近読んだ本の受け売りな気がしてきたけど、少なくとも自分の感覚とそれほど遠くはない。
「書きたいこと」について書くのではない。それが目の前にあるから書ける。そういう感覚。そういう感覚でなければ、自意識が邪魔をして進めない。
ものだけでなく、自分の考えについて書くときも、「自分の考えを文章上に再現する」というより、そこに「自分の考え」が在って、それをただ記述している、という感覚。
面白くしようとか、笑わせようとかも思わない。書いていて、「ここには何か挟めそうだな」と感じたら、そこで何か工夫することはある。
「このアイデアを文章に仕立て上げてやろう」みたいなこともなるべく考えないようにしている。結果的にそれに近くなることはあるけど。
「ブログのネタになりそうだな」と思って何かをやることは、ある。というか自分のやることは半分くらいブログのネタのためだ。
でも「こういうことを書こう」と思って何かをやることは、ない。なんというか、「計画」という森に迷い込んで出られなくなりそうな気がするから。
要約すると、「企み」や「企て」(タイプしてみて初めてこの二つが同じ漢字なことに気づいた)をしない、というかできない。
とにかく「そこに書かれることがあるから、それをただ書いている」という感覚でいるようにしている。そうしないと書き続けられないから。
言葉には自動性があるので、とりあえず書き始めることでなにか生まれることがあるし、書き続けることで初めて思い浮かぶこともたくさんある。書く楽しみの結構な割合をそれらが占めている。
メインブログは短い記事しか書かないので、1日で書き終わる。長くて2、3日。
で、書き終わったらある程度寝かせてから(日記用ブログを除く)、読み直す。
できることならなるべく長く寝かせておきたい。書いたことを忘れて、他人の目線で読み直せるくらいに。でもブログだし、さっさと出さないと次に行けないので、普通は半日、長くて1日。
読み直して意味がわかりにくいところなどがあったら直す。校閲、というほどしっかりやるわけじゃない。所詮はブログなので。
たまに読み直して「これは自分の考えと全然違うな」と思うこともあって苦笑する。そういうときは消す。もしかしたら残したほうが面白くなるのかもしれないけど。
この辺のプロセスは、本についての感想ブログを書く時には少々事情が変わる。書くのに2、3日はかかるし、書き始めて「文章のノリが違うな」とか「冗長すぎる」と思って頭から書き直したりすることがよくある。メインブログでゲームや買ったものについて書くよりは、やっぱり一段も二段も難しい。
それでちゃんと書けているのかというと、特に自信はない。相変わらず散らかってるけど、最後にはまぁなんとかまとまったように見えなくもないかな、というような気持ちで投稿ボタンを押している。
もっと悩んだほうがいいのかもしれない。苦しみの先に成長があるのかもしれない。でも悩んでいたら書けない。だから悩まないようにしている。
そもそも多くの場合、自分で「上手く書けたな」と思えるのは、感情が先走って、考えようとしなくてもそのことについて考えてしまい、仕方ないから書き始め、書こうと思う前に書き終わっていた、みたいな時。だから細かい努力をしてもあまり意味がないかもしれない、と経験上考えている。
それ以外の文章は、悪く言えば「平常運転」くらいのノリ。
おそらくある種の人は、あえて自らの感情を動かすような状況にぶつかっていって、それによって「名文」をものにしてきたのだろう。
でも自分はそんなにタフじゃない。きっとそんなことをしたらすぐに潰れてしまうだろう。実際は逆で、そうやって自分にリミッターをかけるからタフになれないのかもしれないが。
以上をまとめるなら、素人ゆえの無責任ゆえ、自分はブログを書けている、ということになる。
無感覚、と言ってもいい。そうでもしないと怖くて文章なんて書けない。
ちなみにツールは、本書でも何度も登場するアウトライナーほぼ一本で書いている。千葉氏が、たしかTwitterで紹介していたのがきっかけだったか。Workflowyは有料なので、無料の「Dynalist」を使い、いきなりほぼ本文を書いている。
あらかじめ全体の構成を考える、といったことはほぼ無い。どんなに長くても8000字くらいだし複雑な内容でもないなので、そもそも構成が必要ないのである。書いてから目次をつけることはある。あまつさえインデント機能すらほぼ使わず改行で構造を作っている。ブログと関係のないメモをとる時の方がよっぽど機能を使いこなしている。
ほぼ書き終わったらブログ編集画面にコピペ。誤字脱字をチェックしながら、チェック完了の目印も兼ねて読み終わった行を行頭スペースで字下げしていく。この字下げのやり方がいいのか悪いのかも、素人なのでよくわかっていない。
全部の行を字下げし終わったらジャンルタグなどをつけて、基本的に深夜12時に投稿。投稿時間で生活感を出したくないので。
アウトライナーを使う意味があまり無いような気もするが、自分の感覚としては、箇条書きのスタイルのおかげで、いきなりテキストエディタやブログ編集画面に向かうよりも、間違いなく「無責任」に書くことが出来ている。
そんな自分が、プロの作家の「書けない悩み」についての本を読んだら、自分のペースを乱してしまうかもしれない……そんな懸念があった、のかもしれない。
最近「読書ハイ」なこともあり、その勢いで読んでみたのだけれど、少なくとも悪い影響を受けたような感じは無い。今のところ。
アウトライナーの使い方について語り合いたい、という千葉氏のツイートがキッカケで開かれた4名の書き手による座談会。話は自然と「書くことの悩み」へと向かっていった。
次に「座談会を経てからの書き方の変化」をテーマにした4名による執筆。
最後に「執筆」を踏まえた2度目の座談会、という3部構成。
プロの書き手達の、現実の最前線で書くことと向き合っている悩みを読むと、ただただ畏敬の念を抱くばかりである。こうして無責任に書いていることがちょっと恥ずかしくなってくる。でも「めちゃめちゃ恥ずかしい」では無いのは年月による擦り切れだろうか。
なのでうかつに「ここが参考になった」みたいなことも言いにくい。デキる人間が言う「テキトー」と、デキない人間が言うそれは、まるで違うのであるからして。
しかし無責任に言わせて頂くなら、かなり興味深く面白かった。4者が最後の座談会でそれぞれの「書く理由」に行き当たる場面は、どこか感動的ですらあった。
自分にとっては、なによりこうしてブログを書くスタイルやスタンスを振り返ることができたのが、一番の収穫だった。
むしろ自分が本書を読んで考えたのは、「読むことの悩み」。
こと書くということについてはすっかり無責任マンに成り果てた自分だが、本を読むという行為については、未だに苦しんでいる。
書いていることを全部理解しなければいけないと思いこんでいるフシがある。
本書で4人が抱えている、書くことへの厳密さから生まれる悩みは、自分が本を読む時に感じる悩みにちょっと近い、のかもしれない。もっと読むことを「断念」したい。
いつもそばには本があった。 / 國分功一郎 互盛央
哲学者の國分功一郎と、思想史学者の互盛央が、哲学や思想に関する本にまつわる記憶を中心に、様々なテーマで語り合う。
形式としては「往復書簡」に近いが、互いが互いに語りかけるのではなく、ひとりがモノローグを綴り、それを読んだもうひとりがさらにモノローグを綴る、という形となっている。
互氏によるまえがきの『ソシュールの思想 / 丸山圭三郎』から始まり、『ヒューモアとしての唯物論 / 柄谷行人』『想像の共同体 / ベネディクト・アンダーソン』など次々に本紹介しつつ、どのように読んだか、どのように位置づけているか、といったことが語られる。たとえば。
大学生の時に柄谷行人の公演を聞き、『マルクスその可能性の中心 / 柄谷行人』を読んだ國分氏は「商品の価値は商品に内在していない」という一言に衝撃を受ける。それはすなわち「商品価値は幻想である」という意味であり、「そんなものは幻想に過ぎない」とい言い方は当時のアカデミズムにおける流行だった。しかしまわりの友人達のおかげもあり、國分氏は「そんなものは幻想に過ぎない」だけではダメだということに気づく。
自分の話をすると、心に残っている中で最初に読んだ哲学・思想の本は『寝ながら学べる構造主義 / 内田樹』だった。自分にとっては、「全ては幻想である」という構造主義と、その後にやってきたポスト構造主義はセットだった。もちろんその意味は当時の自分には全然分からなかったし、ただの読書好きである今の自分にもよくわかっていないのだけれど、とにかく「なんとなくそういう感じなのね」という雰囲気だけを自分勝手に都合よく自分の中に取り入れていた。
その後もつまみ食いするように、哲学や思想の本をちょいちょいと読んできた。誰かと哲学の話をしてください、と言われても絶対にムリだけど、ものの考え方には確実に影響を受けている。そしてその中には國分氏の『暇と退屈の倫理学』や『中動態の世界』といった本も含まれている。
自分は小さい頃、やたらとことわざの本を愛好しており、小学校低学年で「ひょうたんから駒」とか「人間万事塞翁が馬」とかいうことわざを読んで「なるほどなぁ」と思う、というややヒネたガキだったが、今の自分にとって哲学や思想というものは、良くも悪くもそういうものに近いのではないかと思う。
だもんで、本書に書かれているような、哲学的な個別のことがらについては、「なるほどなぁ」と思う以上の能力を自分は有していない。それはもう、全然有していない。
しかしそんな自分にとっても本書は面白く、興味深く、そして刺激的だった。多くの哲学・思想の本と同じように、言葉を使って考える人全てにとって意味を持つようなことがらが、全体に響き渡っていた。
生活のために必要な言葉、あるいは誰かを動かすために発された言葉は、短くて、わかりやすくて、時にものすごく強い。
でもそういう言葉は、ずっと聞いているとだんだんと疲れてくる。巨人に両足を掴まれて頭をぶんぶん振り回される、みたいな気分になってくる。もちろんそういう言葉は実用上は必要なのだけれど。
そんな時に哲学の本を開くと、そこには全然別の世界が開かれている。現実が論理を要求し、論理のための論理が生まれて、やがて論理が現実に回帰してくる、といった感じで。
そういう言葉は、複雑で、わかりにくくて、ある意味で弱い言葉なのかもしれない。本書で「弱い言葉」として國分氏が語っているように。
でもそういう言葉でなければ辿り着けない領域は確実にある。それはもう、ある。と、思う。きっと。
だから自分は黙して哲学の本を、わからないなりに読むのだろう。
日本のジーパン / 林芳亨
昔、リゾルトのジーンズ「710」を履いていたことがある。家族が筋トレしすぎて足が太くなって履けなくなったのでお下がりで貰った。
めちゃくちゃ履きやすかった。当時はリーバイス501ばかり履いていた(古着屋でヴィンテージではない安いものを探して買っていた)のだけれど、710はとにかくよく足に馴染んだ。毛羽立った生地の味わい。当時の501には無かったセルビッジによって浮き出るアタリ。しっかりしているのにゴツくなりすぎず、テーパードされたスッキリとしたシルエット。決して主張はしないが、履き込むほど「自分のもの」になっていく。不思議なジーンズだった。
それが今では気がつけばジーンズ自体を履かなくなり、最近はセールで買ったチノパンばかり履くようになってしまっている。
そんな体たらくの日々の中、リゾルトのデザイナーである林芳亨氏の著作を発見したので、昔を懐かしみつつ手に取った。
80年代後半にジーンズブランド「ドゥニーム」を立ち上げブームを作り、その後独立し新たに「リゾルト」をスタートした著者。
あえて4種類のモデルしか販売しないリゾルトのラインナップ紹介から(つい先日、新たなジーンズ1種とシャツブランドの展開を発表した模様)、デザイン上のこだわりと販売戦略、リゾルトの原型となった「リーバイス501」や日本産ジーンズの歴史、ドゥニーム設立とそこに至るまでの個人史まで、大阪弁を交えつつ軽快に、そしてジーパン愛を込めて語られていく。
織り方や染め方まで当時を再現したデニム生地、リベットやボタンといったパーツの細やかな形状、縫製の機械など、あらゆる細部にこだわり、また日々の変化に対応し続けることで、理想の「ジーパン」が出来上がる。並々ならぬバイタリティと情熱あってのことだろう。
いわゆるレプリカジーンズは、リーバイス501、それも特定の時代の501の良さを復元しようというもの。
なぜリーバイス501なのか? という単純にして深遠な問いについて自分も考えてみたけれど、そう簡単に答えが出るはずもなく。ファッションとかマニアのこだわりってそういうものでしょ、と言われればその通りなのだけれど。
それはそれとして、ただリーバイス501のマネをしただけでは、新たな価値は生まれない。
リゾルトの良さは、大人の上品さと、飽きの来ないシンプルで昔ながらのデザイン。
さらに同じモデルを継続して扱うことで、客が安心して長年愛用できる販売形態。
そして「たかがジーパン」という言葉に表されるように、「ジーパンは履いて洗って使うもの」というスタンスを、創業からブログやインスタグラムで発信し続けてきたことにあるのだろう。新品を買って履き込む喜びはヴィンテージでは味わえない。良いものを売り、その使い方も提案する。作り手の顔が見えるものづくりの良さ。
などと、最近すっかりジーパン離れしてしまった身ながら思う。いつかまた履きたいなぁ。
増補改訂版「アニメ評論家」宣言 / 藤津亮太
普段アニメをあまり観ない自分が、アニメにまつわる本書を手に取ったのは、著者がラジオ番組『アフター6ジャンクション』に定期的に出演し、アニメについてトークするのをたびたび興味深く聴いているから。
前も書いたけど、ここ数年マトモに本を読んでいなかった自分にとって、カルチャーの摂取元はもっぱらラジオやポッドキャストだったので。
アニメ評論家である著者の、アニメ評論をまとめた本。2003年に出版された単行本を、文庫化に際し加筆修正し、書き下ろしを含む多数の評論を加えている。
宮崎駿、富野由悠季、庵野秀明といった、時代を代表するアニメ作家ごとに章立てしてまとめられている。
それぞれの評論は発表順もバラバラで、通史として書かれているわけではないのだが、全体を読むことで、アニメ業界における「作家」の誕生とその発展の歴史を、イメージとしてつかむことができるような作りになっている。なんとなーく、そういう本だったらいいなと思って手に取ったら、思っていた以上に「そういう本」だった。
自分のイメージではアニメと言えばTVアニメだったが、本書はどちらかというとアニメ映画に比重が置かれている。いかにしてアニメ映画の映画的手法が確立していったか、「アニメの映画」ではなく「映画としてのアニメ」になっていったかが詳細に述べられる。
本書でとりあげられているアニメで自分が観たことがあるのは『かぐや姫の物語』『パプリカ』『エヴァンゲリオン(TV版から『Q』まで)と、あとは子供の頃に観たジブリ作品くらいだが、全く問題なく面白く読めた。
資料を当たりながら制作当時の事情をつぶさに拾いつつ、ときにアニメ作品を映画・小説・詩・文芸評論などに引き寄せて大胆に語る、といった文章的冒険に満ちていて、ただの客観的事実の記述に留まらない、評論ならではの読む喜びを味わえた。
前半の、宮崎駿をはじめとしたいわゆる「巨匠」たちの作品の評論は、俯瞰的・分析的に作品の背景を知ることができる。
対して、後半取り上げる比較的近年の作品の評論は、作品が持つ芯のようなものに寄り添い、その熱量をそのまま再現しつつ語るような前のめり感が感じられた。本書を読んでもっとも視聴したくなった作品は『マインドゲーム』だった。
評論、というと一昔前までは(もしかすると二昔(ふたむかし)以上前の話かもしれないが)、なにかというと作品にケチをつけるもの、というパブリックイメージがあったが、著者の本書における評論はそういったものとは一線を画している。
まず文章として面白い。そして読むと、論じているアニメを観たくなる。こう書くと当たり前過ぎて、逆に失礼な気すらするが、ただの褒め殺しにならずにこれらを両立するのは稀有なワザだと思う。Z世代以降の若者に届くのはこういう評論なのかもしれない、などと思う。
以下、雑多な感想。
『カリオストロの城』のルパンが中年として描かれている話などは、上記のラジオでも聴いたような覚えがある。
宮崎駿が演出したTVアニメ『ルパン三世』最終話「さらば愛しきルパンよ」の評論を読むと、脚本家、首藤剛志が手掛けたアニメ『ポケットモンスター』の没プロットをどことなく想起する。最終回でこれまでのテーマをまるっと反転させる、というあたりが。
アニメの動きを時間的連続性の中で描こうとする宮崎駿と、断続的な絵によって強い印象を与える出崎統。前者はディズニーなどのアニメーションの影響を強く受けているのだろう。
自分はある時期からディズニー映画の生成的で過剰なモーションに悪夢的な忌避感を覚えるようになったのだけれど、ジブリ映画にもそれに近いものを感じることがある。ポニョなどは予告編を見るだけで結構怖い。
本書を読んでいる間に、本屋に行ったら「太陽の王子 ホルスの大冒険と東映長編まんが映画の世界」という本がちょうど発売したばかりで並べられていたので、本書に取り上げられた「ヒルダの表情」のコマを思わず探してしまった。ジブリ映画と違って動画配信サービスにあるのでいずれ本編もチェックしたいところ。
『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』の評論で、畑中佳樹による村上春樹作品への評論が引用されている。「村上春樹の世界は普通名詞の世界から固有名詞の世界へのリハビリである」というもの。
先日発売されたばかりの村上春樹の最新作「街とその不確かな壁」にも、詳細は伏せるが冒頭からそのようなモチーフが登場している。引き続き普通名詞と固有名詞は、村上作品にとって重要なモチーフであるようだ。
あらゆるところで日本のアニメ史において重要な作品として紹介される『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』。
本書の評論を読み、改めて観ておかなければならないなと思った。時代を先取りしすぎている。それと『攻殻機動隊』も。というかこれまで押井守のことをあまり認識してなかったけど、この二作だけでも後世への影響が甚大。スゴイ。