rhの読書録

とあるブログ書きの読書記録。

世界を物語として生きるために / さやわか

 ライターで批評家のさやわか氏による批評集。

 読み始めるまで気づかなかったが、表題の「世界を物語として生きるために」は、初出であるユリイカ2009年4月号を所有していたので、再読となった。

 思えば、自分が著者の存在を知ったのが、その批評だったかもしれない。

 それから今まで著者の著作をいくつか読んできた。

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 最近では、よく聴いている「THE SIGN PODCAST」というポッドキャストで著者の声をよく耳にする。自分が関心のあるテーマの回(漫画やアニメ、映画など)には著者がほぼ必ず登場しており、その批評的見地を語ってくれている。ファイナルファンタジー回やインディーゲーム回は特に良かった。

 自分は難しいガイネンとかを駆使して考えるのは得意ではなく、いわゆる批評のような文章はおおむね雰囲気で読んでいるのだけれど、それはそれとして、自分の関心のある領域を論じてくれる批評家がいるのは稀有なことだと常々感じている。この「批評・冬の時代」においては特に。現代思想も「ハイスコアガール」もどちらも等しく語ってくれる人がいる幸せ。



 本書を読んで最も心に残ったのは、前書きのように置かれた冒頭の橋本治論「終わり/始まり 八匹目の終わりと始まり」だった。

 多くの人にとって「なんだかよくわからない書き手」だった橋本治。

 その裏側には橋本治の優しさがあった、と著者は言う。

 こんな文章があったらいいのにな。でもまだ世の中には存在しない。だったら自分が書こう。そのようなスタンスが橋本治の根底にあったのではないか、と。

 橋本治は「正当性は論理によって獲得される」と書いた。長い論理を用いて対象を記述することで、その正当性を確認していく。そのようにしてあらゆるものを論じる書き手だった。

 しかし、結果的に人を煙に巻くような書き方をしがちなこともあり、日本の批評史の中に位置づけられているとは言い難い。



 人生相談に定評のあった橋本治だが、週刊ヤングサンデーに連載していた「101匹あんちゃん大行進」という連載を、8人目の相談者で打ち切ってしまい、連載はそのまま終了になる。

 連載は単行本化されていないようなのだが、インターネット検索すると、この連載打ち切り事件について言及している人がそれなりにいるため、著者以外の当時の読者にも少なくない印象を与えたようだ。

 最終回の1つ前の相談で、暴力を用いようとする相談者に対し、橋本治は暴力というものの性質そのものを説いた。

 そして、暴力の性質を知らずに暴力を用いようとする相談者は、もしかすると「いじめ」=「暴力」の被害者であり、その復讐をしようとしているのではないか、と橋本治は推測した。

 この回答に対して、別の人物から、橋本治を中傷するような内容の手紙が来た。

 これを受けて、橋本治は二度と若者雑誌に書かないことを宣言し、連載を終了した。



 中傷的な手紙の送り主の主張は、端的に言えば「いじめの加害者は糾弾すべきだ」というもの。その発想は「暴力には暴力でやりかえせ」という思想に裏打ちされたものと言える。

 さやわか氏はそこに、当時(1995年ごろ)から台頭し始めた「今日の僕たちが直面しているあらゆる危険な闘争状態」の先駆を見る。

 橋本治は中傷という暴力に暴力で対抗するようなことはせず、連載をやめることでこれを拒絶して去っていったのだった。



 まず橋本治の書き手としての徹底した真摯さに心打たれる。

 自らの仕事ひとつを無くしてでも、モラルの方を「取った」。彼にとって、若者と距離を取ること自体、あらかじめいつか来ることだと覚悟していたようなのが、だとしても自ら身を以て範を示すことは、ザラにできることではない。

 いや、範を示すなどという啓蒙的な発想はおそらく彼には無かっただろう。ただ己自身の倫理に従った。そんな印象を受ける。

 また、自分にとって橋本治は未知の作家だった。まさに「なんだかよくわからない書き手」だった。

 ほとんど読んだことは無いのに、周辺的な情報から、「桃尻娘」みたいな悪く言えば飛び道具的な物書きだと勝手に思い込んでいた。

 自分の読んできた書き手の中に、橋本治を読む意義を教えてくれる人があまりいなかったことも、一因かもしれない。

 連載打ち切り事件以降、若者向けの媒体から全面的に手を引いたのだとしたら、それも自分に届かなかった原因だろう。

 この批評全体が、それほど長大では無いにせよ、さやわか氏による、橋本治の「論理による正当性の確認」になっている。いずれ橋本治の著作を手に取りたいと思えた。



 表題の『世界を物語として生きるために』は、ドラクエ、FFなどの「和製RPG」の物語主導性が、世界的に見て特異であることなどを論じている。

 末尾には昨今の「異世界系」の小説やアニメが和製RPG由来であることへの指摘が加筆されている模樣。



 古屋兎丸「Marie の奏でる音楽」について論じた『「かわいいの世界」は可能なのか』。

 つい先日のSIGN PODCAST『ちいかわ』回に通底しているものを感じた。聖なるものと不気味なものの近さ。
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 『ボタンの原理とゲームの倫理』。(コンシューマー、PC、スマホなどのデジタルの)ゲームとはボタンを押すと反応するものである。プレイヤーに「ボタンを押していること」を意識させるようなゲームが、プレイヤーへの倫理的な問いかけになりうる、という議論。

 以前、佐々木敦『あなたは今、この文章を読んでいる。 パラフィクションの誕生』を読んだ時、「ゲームって結構パラフィクションだよな」と強く感じた。

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 佐々木敦の定義によると、パラフィクションとは「鑑賞者が鑑賞者であること」に言及するフィクション(たとえば「読者が読んでいること」に言及する小説)だ。

 本書で取り上げられている『Far Cry4』の隠しエンディングは、プレイヤーが「ついボタンを押したくなってしまうこと」を利用したギミックだ。物語の本質とは関係ないため、厳密にはパラフィクションとは言えないかもしれないが、パラフィクション的表現とは言えるだろうか。

 ボタンの原理が倫理を問いかけるという構図は、パラフィクションにおいても成立するのかもしれない。

 ならばそれは、読むことに言及する小説が「読むことの倫理」を問いかける、という形になるだろう。それはSNS時代において意味のあるものになるかもしれない。というのはただの安直な思いつき。

ギター上達のための全知識 / 養父貴

 今年に入ったあたりから、ギターを弾いている。主にソロギター。

 十数年前に買って自宅でぼちぼち弾いていたアコギ。コードを弾くだけでそれなりに満足して、最近はすっかりしまいこんでいたが、引っ張り出して練習し始めた。

 だんだん練習することそのものが楽しくなってきていて、運指とかスケールとかの練習ばかりしてしまい、一向に曲が弾けるようにならないのは、だいぶよくない感じなのかもしれないが、特に目標があるわけでもないのでそれはそれでいいのかもしれない。

 もっとギターを上手くなりたい。でもよくある「入門書」ではどうも物足りない。コードで曲を弾いて、ちょこっとアルペジオもやって、それで終わり、みたいなものばかり。そういう本も「ギターの楽しさに最短距離でたどり着く」という意味で間違いなく価値はあるが、それで飽きてしまった自分向けではない。

 そんな自分がたどり着いたのが本書。

 いわく、芸術は精神の具現化である。

 精神的欲求によって生じる「想像力」、それを音としてイメージする「変換能力」、そして実際に音を鳴らす「表現力」。この3つのプロセスによって音楽は生まれる。

 というように精神面から「音楽すること」、ひいては「ギターを弾くこと」についての精神面から語ってくれる。実にフランクな口調で。

 なぜ人はギターを弾くのか? もちろんその答えは人それぞれではある。

 しかしその「人それぞれ」をキチンと言葉で伝えてくれる入門書のは稀だ。

 ギターを通して表現するから言葉はいらない、ということなのかもしれないが。


 もちろん精神面だけでなく、実践的な知識も授けてくれる。

 アドリブやボイシングなど、正直言って自分には高度な内容が多く、機材やライブなどエレキギター中心の知識なこともあり、直接役立ちそうなことはそれほど多くはなかった。なにせ自分は、Bコードの押さえ方に変なクセがある事に気づいて矯正しているくらいの初心者。

 しかしプロのギタリストがどのような心構えと実践で演奏しているのかを知ることができで、これから自分が音楽を聴くときの「解像度」がだいぶ上がった感がある。

 練習についての心得、スケール練習やピッキング、メトロノームの活用など、わかる範囲のものはちゃんと取り入れていきたい。

国語辞典を食べ歩く / サンキュータツオ

 国語辞典に収録された「食」にまつわる言葉を、「小型国語辞典ビッグ4」である岩波、三省堂、新明解、明鏡を中心に、さまざまな辞典を比較しながら紹介していく本。

 お笑い芸人であり大学教授でもある著者が出演するラジオ番組「東京ポッド許可局」などを昔から聴いていたこともあり、手に取った。


 辞書を愛好し、自ら辞書の編纂にも関わるいわば「辞書グルメ」の著者が、辞書の味わい方をわかりやすい語り口で教えてくれる。

 知ってる言葉の知らなかった使い方を知れたり、辞書ごとの傾向を比較したり、改定による変化を比べて言葉の歴史に思いを馳せたり。

 蕎麦の語源が「稜角を持つ」ことを意味する「そばだつ、そびえる」であることだとか、「ロールケーキ」は和製英語だが似たような「スイスロール」は実は英語でも使われている言葉だとか、シンプルに面白い知識も学べる。

 とにかく格式高いが時にそっけなくも見える岩波、妙に食べ物に詳しい明鏡など、辞書ごとの個性も味わえる。

 なお、冒頭から「ハンバーグ」「すし」「カレー」などが取り上げられていることもあり、読んでいてヒジョーにお腹が空くのでそこは注意が必要である。夜中に読んだせいで大変でした。


 「辞書を読むと面白い」なんて話を聞いたりもするが、実際にどうやって読めばいいのかわからない、というような人にオススメしたい本。

 かく言う自分も以前、著者の影響で古本屋で「新明解国語辞典」を買ったりしてみたが、あまり開くこともなく本棚の肥やしになってしまっている。思い起こせば小学生の頃、「辞書を引くのが早い」ということで一瞬だけ祭り上げられたことがあったが、それも遠い昔のこと。

 ところで今、上の文章を書きながら新明解で「肥やし」を調べたら、

 ㊀肥料㋥その当座は不快にさえ思えていたのに、結果としてその人の成長に効果をもたらした経験。

 という意味しかなく、「本棚の肥やし」「タンスの肥やし」みたいな「使わないのに場所を取っているもの」という使い方は見当たらなかった。比較的新しい使い方なのだろうか。

 と、こんな風に辞書を引くことの面白さに、本書は立ち返らせてくれる。

 もうずいぶん前から「辞書なんてネットで調べればいい」という時代になってしまったのは揺るがし難い現実ではあるけれど、その辞書を利用できるのは頑張って編纂してくれている人のおかげであることを忘れてはいけない。そういうありがたさもしみじみと感じることができる優れた本だった。子ども向けの本としても安心して読ませられそう。

なんとなく、クリスタル / 田中康夫

 本作を読む前の、事前知識による印象は「日本文学史に名をのこす話題作」といったところだろうか。

 1980年頃の裕福な日本の若者の生活や文化を描いた小説。

 非常に大量な注釈によって、当時の物質主義、ブランド主義、欧米礼賛を肯定しつつ批評するような独特の目線で描いた。

 みたいな感じ。

 実際に読んでみると概ねその通りではあった。

 文庫版で読んだが、見開きの右ページが小説の本文、そして左ページが注釈に割かれている。こんな構成の本は今まで読んだ記憶がない。


 大学生でファッションモデルの由利が、満たされているがどこかアンニュイな生活、彼女いわく「なんとなく気分の良い、クリスタルな生き方」を送る。

 ストーリーに目を見張る部分があるような小説ではないと感じた。少なくとも、誰かが本作の物語内容に踏み込んで語った文章などは、自分は読んだことがない。

 かといって、いわゆる純文学の文学賞を受賞する小説に多くあるような、技巧的な文章で書かれているというわけでもない。

 しかし小説としての企みはこの上なく成功している。

 その企みとは、当時の風俗をクリティカルな目線で描くこと、そして現実の生活から乖離していた文学を日常に引き戻すこと、だろう。

 1980年代の日本の文学会における、文学らしい文学、「人とは」「社会とは」みたいなことを大真面目に語っていた文学、そういうものが日常の生活からどんどん乖離していく中で、眼の前にある日常や生活をまっすぐに見つめた小説を書こう、と著者は考えた。その試みは間違いなく正しく機能している。

 そこに本質も目的もなく、ただただ欧米文化を取り入れることに時間を空費しているように見える登場人物たち。

 注釈の内容の半数ほどが、ただのカタカナ語の綴りだったり、著者のブランドや人物に対する感想だったりするのも、企まれた「薄さ」を加速させている。


 しかし起伏のない物語の中で、些細な不安がわずかに顔を出す。

 その不安とは「こんな生活がいつまで続くのだろうか」という種類のものだ。

 たとえば登場人物たちの家族についての描写が入る場面では、伝統性や土着性みたいなものがわずかに顔を見せる。どんなに自由な生活に見えても「そこ」から自由にはなれない、ということを示すように

 そしてその不安は小説の末尾でピークに達する。

 小説の末尾には、唐突に”人口問題審議会「出生力動向に関する特別委員会報告」”と”「五十四年度厚生行政年次報告書(五十五年版厚生白書)”という2つのデータが提示される。

 きらびやかな生活の裏で少子高齢化が進行しているという指摘だ。そこには単なる皮肉や、エスプリという以上の、著者なりの問題意識が垣間見える。

 だからこそ、だろうか、読後感にはなにか寂しいものが残る。

 青春の寂しさ。

 こういう時代は喪われてしまった、という寂しさ。

 いや、今もこういう生活をしている人はいないことはないのかもしれないが、日本全体の豊かさが違えばその意味合いも変わってくるのではないか。


 しかしそれはそれとして、シンプルに著者の性格がよろしくないというか、「こういうことを言ったらエラい人が怒るだろう」というポイントを的確に突くのが得意なんだろうな、というのが伝わってくる。

 実在のミュージシャンやファッションブランドを名指しで揶揄しているが、もし本作が芥川賞でも取っていたら結構な問題になったのではないだろうか。

 そういう人が政治家として現在は活動しているのはちょっと面白い現象だ。

 ついでに言うと妙なカタカナ語の使い方も気にはなる。「アーベイン」とか「ラブ・アフェアー」とか。

 自分は当時の風俗にまるで詳しくないので完全な予測だが、著者の文化的な感度は相当に高いのではないかという感触がある。端的に言って「センス」がよく、そこが当時の「文化的」な人にはウケたのかもしれない。

 時代の空気感を表すためにあえて大量の固有名詞(ブランド名、地名)を出しているわけだが、現実にこれだけの固有名詞を駆使できる人物がいたとしたら、一角の人物になっていてもおかしくない。女性向け雑誌の編集長とかが適任だろう。

 主人公やそのパートナーが平然と他の異性と関係を持っているという部分が、発表当時はどのように受け取られたのかちょっと気になるポイント。当時の大人たちは眉をひそめたのだろうか? 現代の視点だとこれくらいの描写はなんでもないように思えてしまうが、当時は批判があったのだろうか。

 ただ現代も、不倫に対する風当たりは、相変わらずというか、むしろSNS等の影響で強まっているような印象もある。

 男女観やセックス観が微妙に通俗的なポルノじみているのは、時代的なものがあるにせよ、もうちょっとなんとかならなかったのかという印象はある。同時代の小説でももうちょっとマシだったのではないか。


 本作には『33年後のなんとなく、クリスタル』という続編がある。本作の33年後を描いた小説であり、本当にリアルタイムで33年後である2013年に書かれている。次はそちらを読みたいと思う。

アウトライナー実践入門 ~「書く・考える・生活する」創造的アウトライン・プロセッシングの技術 / Tak.

アウトライナーとの出会い

 『勉強の哲学』という本を通してアウトライナー(アウトライン・プロセッサー)というツールの存在を知った。
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 そこからかれこれ6年ほど。特に理由もなく離れる時期があったりしつつも、なんだかんだでアウトライナーを使い続けている。使っているのは「Dynalist」。

今までのアウトライナーとの付き合い方

 元々はアウトライナーを「ブログ記事の作成」「日常のメモ」「ゲームの攻略を自分用にまとめる」などの用途で使っていた。

 先月くらいからアウトラインの運用を改め始め、今月に入ってからは「全てのアウトラインをひとつのファイルで管理する」という「アウトラインの一本化」運用を始めた。割といい感じだけれどこのまま続けるかはわからない。

 そうしてアウトライナーについて考える中で、『勉強の哲学』で参考文献に挙げられていた本書の存在を思い出し手に取った。

 そのような自分にとっては示唆の多い本であった。長年使っていても気づかなかった、新たなアウトライナーの活用法を知ることができた。

 アウトライナーには実に様々なメリットがある。どうやら、というか、やはり、と言うべきか、自分はそのうちの一部しか引き出せていなかったらしい。

 もっと早く本書に出会っておけばよかった気もするが、自分なりの使い方を確立する時間もそれはそれで無駄ではなかったようにも思う。

アウトライナーを使うメリット

 アウトライナーとは、ごく簡単に説明するのであれば、箇条書き形式のテキストエディタである。

 始めてアウトライナーを使う人は、ただ文頭に「・」がついているだけの文書作成ソフトにしか見えないかもしれない。

 しかしこの「・」があるおかげで、「しっかりした文章を書かなければいけない」という意識から少しだけ自由になれる。

 箇条書きのように、頭に浮かぶオブジェクトをそのまま書き出してみよう、という気分になりやすいからだと思う。

 そしてこの「・」を掴んで移動することができる。(マウスならドラッグ、タッチパネルならタッチ長押し移動)

 普通のテキストエディタであればコピー&ペーストが必要なところも、「・」すなわちトピックごとの移動であればより簡単に行える。

 さらにトピックに階層行動をつくったり、トピックを閉じて下位のトピックを隠したりすることができる。

デジタルが手軽にしてくれたツール

 一見すると「そういうこともできるのね」くらいに見える機能だが、仮に同じことをアナログでやろうとするとどれほど手間がかかるかを想像してみると途方もない。

 思いついたことを紙のカードかなにかに書く。それを机の上に並べ替える。大量の紙と広い机が必要だ。カードの内容を2つに分割しようと思ったらまた新たにカードを2枚用意する必要がある。

 そのような仮にそんな並べ替えをしたとしても、一覧性は悪いし、持ち運ぶことなど到底できない。

 なによりそんな大仰なことを、金と時間をかけてやることじたいが億劫だ。本を一冊書き上げるとか重大な調べ物をするとか、それくらいの動機づけがなければできることではない。

 しかるにアウトライナーであれば、そのような知的操作を簡単かつ気軽に行える。ちょっとした買い物のメモにすら、アウトライナーは使えるのである。デジタル時代のありがたみ。

 そんな便利なアウトライナーを、自分はせいぜい「便利なテキストエディタ」や「便利なメモアプリ」くらいにしか使えていなかった。

 本書の実践法を学んだことで新たなアウトライナーの活用ができるようになるかもしれない。

これまでの自分の文章の書き方

 自分が文章を書く時は、頭の中で全体の構成をぼんやり考える、というか自然にぼんやりとした構成が組み上がるのを待ち、イケるなと思ったらなるべく一気に書き出す、というスタイルが主。

 短いブログを書くならそれで事足りる。ごくまれにもっと長い文章を書くことになると気があり、そういう時は書きながら構成を作ることもある。

 難しめの小説の感想を書くときだけは例外で、思いつくことを頭から順番に書いていって、結果的に構成が出来上がるのを祈る、みたいなことになりがちだったりする。

 すでに頭の中にある構造を書き出す感じなので、自分にとってアウトライナーはせいぜい「便利なテキストエディタ」くらいのものだった。

 階層構造はほぼ使わない。並べ替えも、まれに「こことここを入れ替えたほうがピッタリハマるな」ということがあるくらい。

実際に本書の技法を実践した感想

 今回この記事を書くにあたって、階層構造や並べ替えを意識的に使うようにしてみている。

 「シェイク」や「トップダウンとボトムアップ」の往復。アウトライナー操作の5つの型。それらを意識して書いてみた。実際にできているかどうかは別として。

 文章構造をわかりやすくするためにつけた仮の見出しをあえて残してみた。階層構造もそのままにしてもよかったのだけれどさすがに読みづらそうなのでやめる。

 正直に言うと、時間がかかって大変だった。文章の並べ替えを細々やることに意識を持っていかれて、なかなか書くことに集中できない。

 これらはおそらく単に自分が慣れていないがゆえのことだろう。もっと長大な文章を書くためには多かれ少なかれこのような作業が必要になるわけで、それに必要な能力が自分に足りていないのかもしれない。

 普段は脳内でやっている文章の構成化を手元でやっているような感じがする。頭の中のことを可視化できているとすれば、それはよいことかもしれない。

アウトライナーは文章作成以外にも利用できる

 メモ。日記。日誌。アイデア帳。日常の中で出てくるあらゆる「ことば」を、ひとつのアウトラインに放り込む。

 本書ではそのような運用法を「ライフ・アウトライン」と呼んでいる。

 自分が「アウトラインの一本化」を行ったのも、そのような運用法を目指してのことだった。

 それまでは使う度に新しいファイルを作っていた(Dynalistには、Workflowyなどには無いファイル機能がある)。まっさらなところから始めたほうがやりやすい感じがして。

 ひとつのアウトラインに日記もメモもブログの下書きも全て放り込む運用をすると、メモとしての使い勝手は劇的に向上した。

 とりあえず思いついたこと、覚えておきたいことを全部アウトラインに放り込んでおいて、後で整理すればいい。このことに気づいた時は、ほとんど革命と言っていいほどの、自分の中の「アウトライナー力(りょく)」の進歩を感じた。

 「後で整理する」という発想は本書を読んだことではじめて得られたものだ。このことだけでも大いに価値があった。

 一方、ブログ記事などを書く時は、どうしても前後(上下)のトピックに書くことが引っ張られてしまっているような感覚がある。これが良いことなのか悪いことなのか、自分の中ではまだ判断がつかない。



 本書で学んだことを実践できるようになり、その効果を実感できるようになるとしたら、それはまだまだ先のことかもしれない。

 いずれにせよ、アウトライナーを使う上で必要を感じたら、折に触れて本書に触れてみたいと思った。

 ところでDynalistのスマホアプリ版の更新が2年くらい前から止まっているせいか、だんだん挙動が不安定になってきていて困っている。なにかいい代替ツールはないものか。Workflowyに有料登録するのが一番いいんだろうけども。

恥知らずのパープルヘイズ / 上遠野浩平

 ジョジョファンとして存在は知っていたが、なんとなくスルーしていた本作。最近読書欲が高いのでこの機会に読んでみることに。

 まず文章が読みやすい。あとキャラクターの名前がなんか覚えやすい。マッシモ・ヴォルペ。ヴラディーミル・コカキ。

 テーマや、作品としてのノリをジョジョ5部から引き継いでいる。原作オマージュ表現もそれなりに入っている。簡単なようでなかなかできることではない。

 当初は裏切り者として設定されていたが、諸事情を考慮してチーム離脱という扱いになったフーゴというキャラクター。

 ある意味で「週刊連載のライブ感」の犠牲になったキャラとも言えるが、彼を救済する物語として、一歩踏み出せなかった男フーゴが、一歩踏み出すまでの話として、キレイに「ケリ」がついている。素晴らしい。

 ただ、こうして小説という形で「ジョジョ」を読むと「こいつらやってることは裏社会の殺し合いだよな」と冷静に俯瞰してしまう自分もいる。それを感じさせない漫画ジョジョの絵力も改めてスゴいんだなと再認識した。

 なお著者は最近出たジョジョ4部スピンオフ『クレイジーDの悪霊的失恋』の原作小説も書いている。あちらもある登場人物の「ケリ」をつける話でかなりよかった。

道化師の蝶 / 円城塔

道化師の蝶 (講談社文庫)

 なんとなく苦手意識があった円城塔の小説に挑戦。

 なかなかに難解な小説であった。おそらく難解という前評判が耳に入っていたから苦手意識があったんだろう。

 わかったことやわからなかったことを書いていく。


 まず全体を要約してみる。多分本作未読の人が読んでもなんのことだかよくわからない要約になっていると思う。読んでいてもわからないかも。

 これを書いている自分自身の頭を整理するためのものでもあるので、ご容赦いただきたい。

 全5章となっており、章ごとに語り手、あるいは書き手が変わっていく。語り手を信頼するのなら。

 第1章。

 東京-シアトル間の飛行機の中。飛行機の中だと上手く本が読めない、と考える「わたし」に、A・A・エイブラムスという実業家の男性が話しかけてくる。「着想を銀の網で捕らえている」という。着想は蝶の姿をしている。

 わたしの着想にヒントを得て書かれた本「飛行機の中で読むに限る」が、豪華客船で旅する富裕層の間に口コミで大ヒット。

 蝶を鱗翅目研究所に持ち込んだところ、新種の蝶として認定され、アルルカン(道化師)にちなんで「アルレキヌス・アルレキヌス」という学名がついた。

 第2章。

 第1章の内容が、無活用ラテン語で書かれた小説『猫の下で読むに限る』の翻訳であることが明かされる。著者は友幸友幸(ともゆきともゆき)。第2章は、出版されたその『猫の下』の翻訳者による、後書きのような文章。

 友幸友幸は旅する小説家、手芸家、言語学習者であり、その消息をA・A・エイブラムス私設記念館が捜索しているが未だに見つかっていない。なおエイブラムス(第2章では女性とされる)は死去している。

 友幸友幸は世界各地を転々とし、その地の言語と手芸を学習し、膨大な文章と手芸作品を残している。そのすさまじい言語学習スピードは異能力の域に達している。

 第3章。

 第2章の描写と照らし合わせると、おそらく第3章は友幸友幸視点の語り。場所はモロッコのジュカ。

 彼女は各地で言語と手芸を覚えては、別の地にわたり手芸作品を売って生活している。記憶スピードは早く、忘れるのも早い。

 章の終盤、突然シアトル-東京間の飛行機に移動する。そこはおそらく彼女の小説世界の中。

 隣りに座った慈善家の女性が「幸運を捕える網」を私に見せる。

 第4章。

 前半は、A・Aエイブラムス私設記念館のエージェントとして友幸友幸を追う男のレポート。後半は同じ男視点の語り。レポートはサンフランシスコで書かれている。

 レポートの内容は友幸友幸、およびエイブラムス私設記念館に付いての考察。

 さらに男が『猫の下で読むに限る』の翻訳をした、とも語られる。だとすると第2章の書き手もこの男だということになる。

 男はエイブラムス私設記念館で、受付の女性にレポートを提出する。女は男を「ミスター友幸友幸」と呼ぶ。

 第5章。

 レポートを受け取った女の視点。女は友幸友幸本人だということが明かされる。彼女は自らの手芸を「読み」、また自らの書いた文章を読むことで記憶を巡っていた。

 女は男から受け取ったレポートを読む。レポートに使われている日本語は習得していないが、文字の筆跡を確かめ、書き写すことで、少しずつ内容を感知することが、彼女にはできるようだ。

 突然レポートがある種の「呪い」であることを感知した彼女は、気がつくと「喪われた言葉の国」に立っている。

 老人と出会う。老人は女に蝶を捕まえる網の制作を頼む。女は網を作って渡す。

 老人は鱗翅目研究者だった。時間と場所が、第1章でエイブラムスが鱗翅目研究者に蝶を運んだ場面に戻っている。老人は蝶を新種ではない既知の種族であると伝え、エイブラムスに網を渡す。

 老人から解き放たれた蝶は「わたし」になる。時間と空間を超えたわたしは飛行機に乗る(エイブラムスと思しき)男の頭に卵を産みつける。

 以上、要約終わり。

 一読しただけだと何の話をしているのかよくわからない摩訶不思議な小説に見えるかもしれない。

 しかし注意深く読めば、実は物語の構造自体はそれほど複雑ではない、と思う。

 第1章は友幸友幸による『猫の下で読むに限る』という小説内小説である。また、第3章の後半と第5章の後半は彼女にとっての「物語世界」のようなものと読める。イメージか、幻覚か、もっと身も蓋もない言い方をしてしまえば妄想か。

 それらのパートにおいては、時系列が錯綜し、空間は飛び越えられ、発想が蝶の形となり網で捕らえられるなど、非現実的なことが起こる。

 しかしそれ以外の、友幸友幸やエージェントの男目線のパートは、いわゆるリアリズムに則っており、非現実的なことは起こっておらず、時間的または空間的な矛盾やねじれは無い、と思われる。自分の見落としがなければ。

 ただひとつ非現実性があるとすれば、友幸友幸の超人的な言語学習能力くらいだろうが、これも小説設定と考えればむしろ控えめなくらい。

 「無活用ラテン語」や「ジュカ語」など、登場する事物も現実に即しているようだが、「ミスタス」という地名だけは現実に存在しない架空のもので、検索したところ元ネタはオンラインゲーム『ウルティマオンライン』に登場する都市と推測されている。これは著者の遊び心と見るべきだろう。

 エイブラムス(らしき人物)の性別が男→女→男と変化しているのも、友幸友幸の物語世界の中でのことなので食い違いはない。第2章の「子宮がんになった」という記述を信頼するのであれば、(小説『道化師の蝶』における)実際のエイブラムスの性別は女ということになる。

 これらのことを踏まえると、この小説のストーリーは「友幸友幸という超人的な言語学習能力を持った人物が、自らの小説、あるいは物語世界を『書き換えていく』物語」として読むことができる。こう書くとそれほど複雑な話ではないように見える。まぁ、この結論に至るまでに、自分はこの小説のことを読み始めてから5日くらいかかったけれど。それもどこまで妥当かはわからないし。

 このような入り組んだ構造の小説は、テクニカルなSFやミステリ小説に馴染みのある人であればスムーズに読めるのかもしれないが、文学に「人間」や「社会」を求める人にとってはなかなか受け入れがたいものであり、芥川賞選考員の間での評価が世代間で分かれたのもそのような理由なのかもしれない。


 この小説にテーマのようなものはあるのだろうか?

 芥川賞を受賞した当時は、着想やアイデアについて書かれた小説だ、と言われていたらしい。

 自分としてはもっとシンプルに、著者である円城塔にとっての「小説の書き方」がテーマであるように感じた。

 創作を創作論として解釈するのはベタすぎてあまり意味がないのかもしれない。優れたマンガはマンガ論として読めるし、優れた映画は映画論を含んでいると鑑賞できる。小説もまた同じ。

 しかし例えば第3章の、友幸友幸の手芸の作り方、あるいは物語の書き方についてのくだりは、特異な小説を書き続ける著者自身とダブって見える。(自分はあんまり読んでこなかったけど。)本人にとっては自然なやり方なのに、世間からはズレているらしい、という感じが。

 あるいは各章が小説の創作の過程に対応しているのではないか、という読みも自分の頭には浮かんだ。

  • 第1章:着想
  • 第2章:文体の選定
  • 第3章:実作
  • 第4章:推敲
  • 第5章:読者による「読み」と、新たな着想

 みたいな感じで。ちょっとこじつけがすぎるだろうか。

 だとすると、友幸友幸がレポートを読んで「呪い」と感じたように、このブログ記事みたいな分析的な読み方もまた、著者にとっては「呪い」になるのだろうか。だとしたら申し訳ない。まぁ、考えすぎだと思うけれど。

 本作にはさらなる着想が埋まっている。たとえば第4章の「繰り返し語られ直すエピソードが、互いに食い違いを見せるたび、文法の方が変化していく言語というのは無いものだろうか?」という部分。

 実際にそんな小説が可能なのか? あるいはこの『道化師の蝶』小説がそのようなものを意図して書かれたものなのか?

 流石にそこまで話が複雑になると自分にはもうお手上げ感がある。本作にしても、もうちょっとわかりやすく書けたんじゃないの? と正直思う。でもこの書き方が著者にとって必然なのであれば、読者としてはそれを受け入れるしかない。

 それに、ただ複雑なプロットで読者を煙に巻くだけの書き手ではないことは、(自分はあまり追えていないけれど)その後の著者の活躍が証明しているだろう。次は『屍者の帝国』を読みたいと思う。