rhの読書録

読んだ本の感想など

カート・ヴォネガット トラウマの詩学 アメリカ文学との邂逅/諏訪部浩一

 

 

 ヴォネガットの小説は学生の頃『タイタンの妖女』『スローターハウス5』、成人してから『ジェイルバード』を読んだと記憶している。お笑い芸人の太田光氏の紹介もあって。

 でも内容をスラスラ思い出せるかと言うとかなりあやしい。特に根拠はないけれど、「ヴォネガットは若い頃読んだけど、内容あんまりおぼえてないなぁ」って人は多いんじゃないかと思われる。

 最近になってヴォネガット最後のエッセイ集『国のない男』を読み、うーん、スゴすぎるぞヴォネガット、とあらためて感動した。人類の未来について、本気で、マジメに、面白く語れる稀有な人物だ、と。

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 そんな折に見つけたのが本書『カート・ヴォネガット トラウマの詩学』。

 著者の諏訪部浩一氏には『チャンドラー講義』で出会った。村上春樹訳のチャンドラー長編をすべて読み通す上で、大いに参考になった。その人が書いたヴォネガットの解説ならマチガイはないだろう、と読み始めた。はたしてマチガイは無かった。全長編作品について、数多くの文献・資料を引用しながら語るスタイルは、両書に共通している。

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 ヴォネガットといえば、ドレスデン爆撃を経験し、その経験を『スローターハウス5』に書いた、というのがだいたいのイメージだった。

 本書はそれにとどまらない、作家としての変遷、浮き沈み、到達点などなどを、ひとつのテーマに沿って、いわばひとつの「物語」として提示してくれる。

 その物語に「乗る」かどうかは、まだヴォネガットの長編を3冊しか読んでいない自分には決められない。でも少なくとも本書を読む限りでは「乗って」みたくなる物語だった。

 本書が提示する物語こそがサブタイトルの「トラウマの詩学」だ。トラウマ的なできごとを経験した後に、人はどう生きるか、どう書くのか。そのことをヴォネガットは作家としてのキャリアを通して問い続け、そして最後には「自分の作家人生を肯定しき[p330*1]」る境地に至った。

 小説家なら、いちばん書きたいことを書けばいいし、書きたいことを書くのが一番やりやすいんじゃあないか、などと「書き」素人の自分なんかは思いがちだけれど、もちろん話はそんなに簡単ではない。

 本当に書きたいこと、その中でも、いつも自分を苛むトラウマ的な記憶や観念ほど、うまく言葉にできない。というか、うまく言葉にできないからこそ、それはいつも自分を苛む。

この[戦争体験という]触れ得ない「核」こそがトラウマをトラウマたらしめていることはいうまでもないが、これを逆から見れば、語り得ないという実感こそが、トラウマをトラウマとして主体に痛感させるということになるだろう。[p5]

 あまりに大きいトラウマゆえに、ヴォネガットは、無差別に数万の人の命が奪われたドレスデンの爆撃を生き延びた経験を、『スローターハウス5』という小説に書くまでに、20年以上の時間と、5つの長編小説を書くという経験を経なければならなかった。

 じゃあ『スローター』を無事書きあげて、トラウマを克服して、それで万々歳、ハッピーハッピー、ってなことになったかというと、そうはならなかった。

 60年代末に『スローター』を書き上げたヴォネガットは、その後の70年代には書くことに苦しみ、家族との関係がこじれ、うつ病にかかり、84年に自殺未遂も起こしている。

 「ドレスデン爆撃から利益を得たのは自分だけだった[p154]」と繰り返し語ったヴォネガットは、「書いてしまった」という別種の罪悪感を抱えることになったようだ。生き延びたものの罪悪感「サバイバーズ・ギルト」を抱えていた彼が、それを小説に書いたことで、「はたして書いてよかったのか」という問題に向き合わなければならなかったのは、倫理的な書き手としての必然だったのかもしれない。

 80年代後半に著した『青ひげ』で、ヴォネガットはようやく「書いてしまった」という罪悪感と向き合い、受容することになる。

『スローターハウス』の「問題」がトラウマ的な経験をいかにして表現できるかということだったとすれば、『青ひげ』では、トラウマ的な経験を「表現」したとしても、それを人生の一部として受容するまでは「快復」に至らないことが、さらなる「問題」とされている。[p256]

 『青ひげ』の主人公ラボーは画家で、終戦の日に見た光景を絵画『さあ、今度は女性の番だ』に描いたものの、自らが描いたものを受け入れることができず、その絵を公表せずに八年間の隠遁生活に入ってしまう。サーシという女性との出会いをきっかけに、ようやく彼は自らの絵、自らの表現と向き合えるようになる。

ラボーがトラウマから快復するのに必要なのは、『さあ、今度は女性の番だ』を貫く芸術観=創作原理を、人生に差し戻すことだったのであり、それを可能にしてくれたのがサーシだったのである。コミュニケーションの意義を主張する(そして自己治療として実践する)彼女が彼に教えたのは、一人でトラウマに対峙するだけでは、そこからの快復は果たせないということだった。それは彼自身の作品が体現するメッセージだったのだが、彼はサーシに出会うまで、自分の絵を理解していなかったのだ。だとすれば、こう結論していいだろう――『さあ、今度は女性の番だ』が本当に完成したのは、ラボーがそれをサーシに見せたときだったのだと。[p281-282]

 自らのトラウマを描く作品を作り、さらにその作品を「作ったこと」をも受容する道筋(=他者とのコミュニケーション)を見つけたラボーに、本書はヴォネガット自身の精神的な変遷を見出す。

 

 今まで自分は、ヴォネガットのことを「戦争のトラウマを描いた作家」だと考えていた。

 でも本書を読んだことでヴォネガットが「トラウマを受け入れる道筋までを描くに至った」ことがわかった。

 そしてヴォネガットの作品は、人はなぜ芸術表現をするのか、という普遍的なテーマと深く関わっていて、それはあなたにも私にも関係のあることであるように思われる。

 ということを直接知るために、もっとヴォネガットの作品を読みたいな、と思った。思うことができた。本書のおかげで。

*1:『カート・ヴォネガット トラウマの詩学』諏訪部浩一、2019年、以下同じ

積ん読の本/石井千湖

積ん読の本

積ん読の本

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 積ん読がテーマのインタビュー集。物書きの方々を中心に、多くの本を所蔵している「積ん読名人」に、それぞれの積ん読スタイルを聞く。

 読書に正解は無く、ただ経験知があるのみ、なんてことを思えるような、読書の多様性に触れられる本。もちろん本書を積むのもまた読書の自由ではあるのだろうけれども、美しい本棚(雑多に積まれた本の山もまた美しい)の写真とライトな語り口のおかげで、自分はスムーズに最後まで読むことができた。


 積ん読、というと読まない本を大量に積み上げる様をイメージしがちだけれど、「持ってる本は大体全部読んでます」なんて人も出てくる。

 どちらかというと、「積ん読」というテーマを入口に「読書のスタイル」そのものを語る構成になっている。基本的に孤独な行為である読書において、他人の読書に対する向き合い方をのぞき見ることができる、希少な本となっている。

 その様々な読書スタイルは、ときに相反しているようにも見えるけれど、それを肯定も否定もせずにそのまま紹介しているのが本書のよいところ。

 わかりやすいのはアナログ派とデジタル派の違いで、「本は紙で所有したほうがいいよ派」と「本はスキャンしてデジタル化してます派」のそれぞれに人物に話を聞き、それぞれの長所を聞き出している。

 ものすごく表層的な考え方をするならば、アナログ派とデジタル派は対立したもの、相反するものと捉えられてしまいかねないのだけれど、そのスタイルの違いは主に、職業上で本をどのように活用化しているかによって生じているだけであって、そもそも対立など存在しない。

 本書はそんな「読書の多様性」を再確認させてくれる。莫大な蔵書量に圧倒されもするけれど、結局のところ向き合うのはいつも目の前の一冊、目の前の一行なんだってことも思い出させてくれる。ナイスな本だった。

プレイバック/レイモンド・チャンドラー[著]、村上春樹[訳]

 レイモンド・チャンドラーによるフィリップ・マーロウが主役の長編小説を、村上春樹の翻訳で読み始めて、ついに最後の長編『プレイバック』にたどり着いた(一応の続編として、序盤のみで絶筆となり別の作家が完成させた『プードルスプリングス物語」がある)。第一作の『大いなる眠り』を読んだのが去年の10月末なので、およそ7か月半かかったことになる。長かったのか短かったのか。

 妻と死別し失意におちいっていたチャンドラーが、なんとかカムバックして書き上げた小説、ということをあらかじめ知っていたので、あまり期待値を上げずに読んだ。


 いろいろな意味で、読みやすい小説ではあった。

 チャンドラー作品の「華」である濃密な情景描写はナリをひそめていて、シンプルでストレートな描写が多い。「ここにこれがあって、あっちにあれがあって……」と文章から風景を組み立てていくのが苦手な自分にとっては、読むのが楽だった。特に後半に向かうほどセリフが主体になっていく。

 ただそれは著者の企みというより、単純に描写の強度を上げるだけの体力が不足していたんじゃないか、と思ってしまう。クライマックスに向けて描写の強度を上げていくのが王道なんじゃないかと小説素人の自分は思うのだけれど、本作はその逆で、どんどん文章が簡素になっていく。本作が脚本をリライトした作品であることを鑑みると、情景描写を書き足すのがしんどくなったんじゃないか、という印象を受けてしまう。

 作中のリアルタイムの時間軸上で起こる「事件」の数が少ないので読んでて理解しやすい。その顛末もかなり簡素なものとなっている。はっきり言ってしまえば、ミステリ要素が薄い。

 そもそもチャンドラー作品はどちらかと言えば、いわゆる「謎解き」を楽しむタイプの小説ではないだろう。『大いなる眠り』では作中のある事件の犯人を作者自身すら把握していなかったというエピソードがある。一方で『リトル・シスター』あたりの作品は、事件と事件が複雑に絡みすぎても、はや通常の読者が理解できる範疇を超えていた。

 本作の謎自体はシンプル。ただ読者にあらかじめ与えられる情報が少ないので、謎解きとして楽しむのは難しいかもしれない。まあ、自分は小説の謎解きがほとんどできないレベルで苦手なので、確かなことは言えないけれども。

 これらの要因のためか、読後感としてはけっこう薄味だった。

 かつ、シリーズにおける本作ならではの美点みたいなものがなかなか見つけづらい。これまでと似たようなマテリアルによって似たようなストーリーが展開されていく。犯人、警察、他の探偵など、登場人物の配置もおなじみだ。

 ホテル生活をしているジャヴォーネン少佐の長広舌は、かなり作品全体のリズムを乱していて、それが逆に面白いリズムを生んではいる。ただ内容としては「老人の説教」だ。それをマーロウの視点でしっかり「老人の説教」として描写するのがチャンドラーの力量ではあるけれど

 マーロウが暴漢の襲撃を直感で察知し、撃退するシーンは、もはやリアリズム小説を書くことに対しての敗北宣言にすら見える。


 そのような、おそらく著者の不調によって不如意に生じてしまったハードボイルド小説としての不自然さは、結果的に、ハードボイルド探偵小説というジャンルの人工性を露呈してしまっているようにも見える。

 ひらたく言うと、今の自分の目には、本作がなんだかハードボイルド探偵小説のパロディのようにも見えてしまっている。

 というとなんだかバカにしてるみたいに聞こえるかもしれないけれど、全然そんなことはない。むしろある種の痛ましさと崇高さを感じている。ぼろぼろになっても書き続けた著者に対して。

 ただもう21世紀も四半世紀経つわけだし、少々ツッコミどころある小説としてのチャンドラー作品、というような読み方をしてもいいんじゃないか。

 冷静に考えるとおかしなところがいっぱいあって、そこについて真面目に考えるほどファニーな感じになるんだけど、ストーリーの中でやってることはマジメだし、ちゃんと心を打たれるようなシリアスなものも含んでいる。そんな作品がある。今、自分が具体的に想定しているのはマンガ『北斗の拳』なのだけれど、あるいはチャンドラー作品にもそういう面があるのかもしれない。

 いや、そんなことを改めてしなくても、これまで「ハードボイルド」というジャンルに対しては、様々なパロディの類があったわけで、もう十分にネタ的な消費はなされてきたと言えるのかもしれない。たとえばドラマ『探偵物語』は、ハードボイルドの人工性をメタギャグなどでネタにしつつも、ハードボイルドというジャンルには多大なリスペクトを示したドラマだったのかもしれず。


 一方で、別の視点から本作を眺めることもできるかもしれない。

 アンチクライマックス。本作の独自性があるとしたらそこではないか。

 いつものように悪徳警官と対立したりしないし、事件を通して街の暗部を暴いたりもしない。全ての謎が最後の謎解きに集約するわけでもない。ヒーローが、ヒーローらしい物語をまとわない。ただし女とは寝る。

 マーロウはそのことに当惑するでもなく、ラストでは、女のことを考え、いつもの軽口を叩きながら、ロサンゼルスの夜の闇に消える。読者はそこに置き去りにされる。

 なんだか、あれほどハードボイルドだった世界が、ほんの少しズレた別の世界にすり替わってしまったような奇妙な感覚がある。この言葉の詳しい意味を知ってるわけじゃないけど「アンチロマン」みたいな。

 この読後感が、(何度も同じようなこと書くけど)はたして著者の企てによるものなのかはわからないけれど、チャンドラー最後の長編小説として、ある意味でふさわしいものだったのではないかと思える。マーロウという夢の終わり、あるいは訳者が『ロング・グッドバイ』のあとがきで書くところの「純粋仮説」としてのマーロウの最後の姿として。

 もはやマーロウはヒーローではない。もちろん悪役でもなく。ひとりの男に戻りつつある。そのことが読者にもたらす「苦み」は、かつてマーロウという夢を見た全ての読者に、ひとしく与えられるべきものだった。そんな気がしてくる。夢は終わる。だからこそ、次の夢が生まれてくる。そのようにして夢は続いていく。

 というのはちょっとポエムすぎるだろうか。


 なんだか苦しい擁護を重ねたみたいになってしまったけれど、とにかく言いたいのは、本作がチャンドラーのマーロウ作品を毀損するような一作ではないんじゃないか、ということで、その理路はさまざまにありうるだろうけれど、今の自分としては「マーロウ史上、最も奇妙な冒険」だということをアピールしておきたい。


 本作にはとある有名なセリフが登場する。高倉健が主演の映画のキャッチコピーに使われたこともあって、日本ではフィリップ・マーロウのセリフで最も有名だったらしいけれど、本書の訳者あとがきによれば、海外の読者の間では特に有名なセリフではなく、書籍などでの言及もまったく見当たらないレベルらしい。

 Wikipediaによれば、様々な書き手がこのセリフの翻訳について意見を述べている。確かに、その意味内容を正確に訳しつつ、日本語としてビシッとキマるセリフにするのは、なかなか難しそうだ。大の大人たちがひとつのセリフの翻訳に対してあれこれ悩んでいる様は、現代から見るとなんだか微笑ましくもある。

 ハードボイルドの思想みたいなものを、きわめて端的に表したセリフ。本作のマーロウがそれを体現できているのかどうか。それは実際に読んで確かめてみてほしい。

東京四次元紀行/小田嶋隆

東京四次元紀行

東京四次元紀行

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 コラムニスト小田嶋隆の初めての小説集であり、そして小説としては遺作ということになるだろう。今後、未発表作品が発表されたりしなければ。

 本書のあとがきの日付が2022年5月。その翌月、本書が発行された6月に、残念ながら著者は亡くなった。

 東京23区それぞれを舞台にした短い小説が23編。そこに9編加えた32本を収めた短編集となっている。東京に生きる人々の人生の一場面を切り取った作品が並ぶ。

 とにかく一作が短く、一部の作品以外は登場人物が毎回変わるので、名前や状況を毎回頭に入れるのに苦労した。

 でも読み終えてみると、これはまさしく著者の人生そのもののような小説集なんだなと、すとんと納得できた。

 「[記憶を]原型を損なわないカタチで文章の中に再現するためには、フィクションの要素を取り入れたほうが扱いやすい」と「序文」で著者が書く通り、フィクションには「普段だったら言えないこと」を言えるようにする効果がある。

 あえて言うまでもないバカバカしいことも、人に言えない恥ずかしいことも、誰かに気を使って言わないようにしてきたことも、フィクションだったら言える。小説にだったら書ける。本当にあったことかもしれないし、全くの作り話かもしれない、という小説の性質によって。

 著者のコラム全体に横溢していた、文章のキレ味はそのままに、小説が持つそのような効果が、本書では存分に発揮されている。

 一本目の短編『残骸』に、ハードボイルド作家レイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』からの引用がある。多くの人が引用しがちな、ある有名なセリフではなく、その直前に配置された一文「人間の眼の色はだれにも変えることができない」を引用しているセンスにも脱帽なのだけれど、著者のコラムが持つ「キレ味」の由来の一部が「ハードボイルド」だったことに、この引用によって初めて気づいた。

 そして、さながらチャンドラー作品のように、本書も引用したくなるような名文にあふれている。人と社会の普遍的な構造をえぐる、批評性に満ちた視線によって。

 キャンパスで友達を作ることができなかった人間は、就活にも耐えることができない。そういうことになっている。なぜなら、キャンパスが学生に与える試練の本当の意味は、群れの一員として振る舞えるかどうかを試す不断のふるい分けなのであって、その能力を持っていない学生は、就職した先の企業でも、群れに同調できないイワシと同じように、いずれは、はぐれることに決まっているからだ。結局、あの茫漠としたキャンパスの中で仲間を見つけることのできなかった学生は、この国の企業社会では、どうあっても有効な駒として機能することができないのだ。

オレや大三郎みたいな内向的な人間は、いつも同じミスを犯す。手遅れになってから、はじめて、自分の気持ちに気づくのだ。というよりも、すべてが台無しになってしまうまで、自分の感情に向き合うことができないということなのかもしれない。

[中略]

 この世界は、自分の気持ちをはっきりと口に出せる人間が動かしている。世界は彼らのものだ。

 チャンドラーの小説が「タフな男の孤独」(という、ともすれば時代錯誤な観念)を描いたものだったとするならば、小田嶋隆が本作で描いたものは「タフになれない男の孤独」だと言えるかもしれない。

 昭和の時代まで、世の中はマッチョイズムを内面化した男が動かしていた、らしい。

 それから時代は変わった、らしい。本当に変わったのかはよくわからない。

 でも現代も、マッチョな人間、声が大きい人間が世界を動かしている、という意味ではさして変わっていないようにも思える。そういう人たちが戦争をおっぱじめたりする。

 そんな世界を「はみ出し者」の視点で見つめ続け、コラムを書いてきたのが著者だったのではないか。そんな思いを、本書を読んで強くした。

 生前のSNS上での様々な発言も、強い立場を利用して無理を通そうとする者へ、弱いものの立場から「道理」を説こうとする態度だったんじゃないだろうか。

 タフにならずに生きること。それは、他人の立場を奪って生きることや、他人を傷つけながら生きることを、拒むことだ。それが困難な生き方なのは言うまでもない。

 しかも、どんなに拒んでも、結局人はどこかで誰かを傷つけてしまうし、見方によっては、生きることはそのものが誰かの立場を奪うことに他ならない。

 そんな生き方を、本書は肯定してくれる。力強く、ではないかもしれない。「人間はこうあるべき」などと押しつけてくる連中に対して、「別にそんなことはないけどなぁ」というあいまいな生き方もありうることを、本書はその身で示してくれている。


 12ページほどで三角関係の機微を描いた『カメの死』が心に響いた。村上春樹『蛍』のように、この作品をベースにした長編を読んでみたかった。

 『猫』からストーリーが続く3作もよかった。いじめられっ子を救うために猫を川に投げ捨ててしまった過去を持つ青年の話。人生に待ち受けている落とし穴は突然口を開ける。その残酷さと救済の可能性を描いているように思われた。

 ところどころで、コラムニストとしての著者が「顔を出しすぎている」と感じてしまう箇所はあった。多くの作品がバッドエンドに傾きがちなのも、作劇のテクニックとしては安直に映るかもしれない。でも本書の持つ美点や、最初の作品集であることを鑑みれば、些末なことだと言いたい。

 著者が書く小説を(もちろんコラムも)もっと読みたかった、という気持ちはもちろんある。でも、このような言い方が適切化はわからないけれど、人生の締めくくりにこのような作品を物にすることができたこと、その達成に対する称賛の念が自然にこみあげてくる。最後までこんなにカッコいいなんて、と。

 時間の川を流れ下るオレたち人間は、いずれ年をとって死ぬ。一見、これは、むなしい行き暮れに思える。

 でも、本人としては時間旅行を終えて、人生をまっとうできたってことになる。それが本当じゃないのか?

置き配的/福尾匠


 社会が置き配的になっている、と本書は書く。置き配的とはなんだろうか。

 相手にメッセージを伝えることよりも、メッセージを伝えたということ、その「メタメッセージ」が重要視されるようになっている。それが置き配的状況だという。

 現実の置き配では、配達員は荷物を配達したあと、「荷物が置かれた軒先」の写真を受取側に送信することで配達を証明するという(置き配を使ったことが無いから知らなかった)。そこでは荷物という「物」そのものではなく、荷物を送ったという情報が配達の証明になっている。

 「物そのもの」ではなく、物を送ったという「情報」が優先される状況。それを、コミュニケーションにおいて「メッセージそのもの」の内容よりも発言者のポジションという「メタメッセージ」の共有が優先されるようになってしまった状況を重ね合わせて、置き配的と本書は呼んでいる。

 具体的には、SNS上の「論争」なるものが、意見を交換することではなく、自らの立場を彼我にアピールする場になってしまっていることなどを指している。

 ここまで読んで、現実の置き配で重要なのって「荷物」の方じゃないの? と思う人も多いかもしれない。自分もそう思う。写真を撮るのは宅配の証明のためであって、写真を撮ることが目的化しているわけじゃない。そこのところの比喩の微妙なズレが、本書に若干の飲み込みづらさを生んでしまっているかもしれない。

 もうひとつ、メッセージよりメタメッセージが重視されるのって、今に始まったことなの? という疑問も浮かぶ。「なにを言ったか」よりも「誰が言ったか」が重視されるのは昔からじゃないだろうか。王様が「これは服だ」と言ったら、裸が服になる。

 でもそれらの疑問点をいったん(カッコ)に入れて、メッセージとメタメッセージの関係、言葉と物の関係の現代的なありかたを論じた本書を読むと、とても面白く興味深い。

 何度読んでも理解が及ばなかった難解な哲学の議論や芸術論の部分は、文章に目を通すにとどめてしまい申し訳ないのだけれど、それでも読んでよかったと思う。個人的な要望を言えば、本書を元にして書かれた新書を読んでみたいと思った。東浩紀がハードカバーの『訂正可能性の哲学』と新書の『訂正する力』をほぼ同時期に出したみたいに。


 たとえば第6回「いま、書くことについて」は日記を書くことの意味について書かれた章。3年くらい前から日記ブログを毎日更新するようになった自分としては(ブログ自体は十数年前から書いている)、大いに首肯しながら読んだ。「ネットでものを言いづらくなった」と言う人は全員日記を書いたらいいんじゃないか。まぁ、あんまり多くの人に読んではもらえないかもしれないけども。

 自分の場所で自分の言葉を積み重ねていく日記は、SNS的な言葉の使い方とは全く別物だ。そのことを本書では「言うべきことが<密>なSNSと、言うべきことがない<疎>な日記」として対比させ、その日記のスカスカさに意味を見出す。

現代は出来事のフォーマットが無数に供給される時代である。SNSはつねに言及するべきイベントを提供し、あるいは自身の生活を充実したものとして提示するためのイベントの形式を提供する。それに対して日記においては、生活のスカスカさから出発することで、何をイベントとみなすかという解像度を上げ、その形式を拡張することができる。そしてそれを継続することで自身のうちに日記用のセンサーのようなものが育っていき、カメラを持って街を歩くときのように、見慣れたものの別の様相が立ち現れてくる。[福尾匠『置き配的』]

 「蛙化現象」の分析から始まる村上春樹『眠り』論の第10回「私でなくもない者たちの親密圏」もいい。『眠り』の主人公の女性が、他の村上春樹作品の男性主人公の鏡合わせの状況にいる、という指摘は画期的だ。

 考えてみれば、「眠り」の女が送るダブル・ライフは、村上の長編小説の主人公の男が放り込まれる状況と鏡合わせの関係になっている。[中略]
 それに対して「眠り」の女が与えられた余暇=夜はあくまでプライベートなものであり続け、それが職業化・社会化される回路は塞がれているように見える。彼女が幽閉されていたのは、実のところ家内化ドメスティケーションの暴力であり、彼女が日中に遂行する「義務」もまた、ドメスティックな領域に囲い込まれた「シャドウ・ワーク」であり続ける。[同前]

 全体を通して表明される、思想的立場が違う相手をカルト視することの不毛さに対する問題意識にも、共感できる。現代の「エコーチェンバー」「フィルターバブル」という言葉の使われ方には、「あいつらは内」「自分たちは外」と分別したい欲望が隠れている。本当にそこに内があるのか、外なんてどこにもないんじゃないか。そういうことについてもっと考えたほうがいいと思えた。思うことができた。

われわれはと言えば、何であれ何か気に入らないものを「カルト」とその「信者」だと眼差すことによって自身の生活を「地に足のついた」ものだとする、遠近法的世俗主義とでも言えるような安心の形式を育てている。[同前]


 あらゆる発言が「ポジショントーク」として扱われかねないこと。SNSで物を言うと「保守かリベラルか」「フェミニストかアンチフェミニストか」に分類されてしまう。沈黙しても、それがある種のメタメッセージとして捉えられてしまう。そういった息苦しさが「置き配的」という概念に込められている。

 でも穏当な人ほど初めからそのような磁場と距離を取っているようにも思う。自分の発言が政治的に捉えられないように注意して生きている。それが昔ながらの「政治と宗教と野球の話はNG」という「庶民感覚」であって、その感覚自体は今もあまり変わっていないんじゃないか。そもそもSNSなんて全然見ないって人もいるだろうし。だとすると現代は「置き配傍観社会」でもあるのかもしれない、なんてことを思う。

 そして少しずつだけれど「今のSNSはもういいかな」という感覚が多くの人に広がっているようにも思える。SNSが過激な論争の場になってしまったのはアルゴリズムと収益化の悪魔合体によってだった。そこからの逃避を求める人が増えているような。若者はBereal使ってるらしいし。そうなると次の問題は、それぞれがそれぞれのプラットフォームに集まることによって起こる「部族化」だったりするかも。それでもSNSが扇動してしまった様々な対立は禍根を残しそうだけれど。

 自分もけっこう前からXで発信することをほとんどしなくなり、ブログ更新を通知するだけにしてたんだけど、2年くらい前からログイン自体をしなくなって、精神的にラクになった。それができたのは、自分が「インターネット検索で来た人向けに書く」っていう「ボトルメール的」な(あまりに悠長な)書き方をしてるからだろう。

 個人をエンパワーするものとしてのSNSやそれに類するものには確実に意義がある、と思いたい。そしてだからこそ、それらの別のあり方を想像することは常に必要だろう。本書は、そして批評は、その契機になりうると感じた。そしてもっと様々な読み方もできるな、とも。

つまり、批評の意義とは、人格的で双方向的なコミュニケーションから離脱した言葉を生み出すことにある。だからこそ批評は言うべきことが<疎>である空間に宿るのであり、その条件となるのは物との出会いである。[同前]

言語化するための小説思考/小川哲


 ラジオ番組『アフター6ジャンクション』をきっかけに読んだ小説『君のクイズ』の作者で、最近は文芸誌などでの活躍もよく見かける小川哲が、小説についての本を書き、話題を呼んでいるらしいので、読んでみた。

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 「面白い小説とは何か」。それが本書の「小説思考」の中心にある。どうすれば面白い小説を書けるか、についてひたすら考えていく。

本書には、僕が小説を書く時に考えていることを可能な限り言葉にしてみよう、という試みの軌跡が記されている。[『言語化するための小説思考』小川哲」

 でもそれは、どんなテクニックを使えば小説を面白くすることができるか、というような、いわゆる技術論ではない。そのような”小説の技術的な側面”を、著者は”「読者の動物的なバグを利用したハッキング技術」”みたいなものであると(各方面に気を使って小文字で)書く。

 ハッキング技術とはどんなものか。たとえば「ハリウッド映画の脚本術」みたいな本に書かれている方法論だとか、あるいは今どきの例では「ついリンクをタップしたくなるSNSのポスト」とか「扇情的なYoutubeのサムネイル」とか、そういうもののことだろう。そしてそこに「小説の面白さの本質」はない、という。


 とは言うものの本書は、「小説の面白さの本質」とはどういうものかについて、あまり積極的にハッキリと語ってはいないように感じられる。スタンスとしては、自分はこんなことを考えながら小説を書いています、という程度に留められている。

 著者にとっての「小説の面白さの本質」はまだ仮説段階であって、今後の作品の中で実践したいと考えている。そんな印象を受けた。若干の物足りなさは残るけれど、書き手としての誠実さを感じられる。

 たとえば8章「なぜ僕の友人は小説が書けないか」では、友人が教えてくるアイデアが小説で使えないのは、専門性が高すぎるか、発想が陳腐すぎるかのどちらかだ、と割とバッサリと切り捨てる。

 そして小説に必要なのは「アイデア」ではなく「問い」であり、書くことを通して考えたいことはなにかを考えることだ、と語る。あらかじめ答えを用意し、それを小説化にするのではなく、書きながら答えを探していけ、というほどの意味だろう。よくわかる。自分はそういう小説のほうが面白く読めることが多い。

 他にも本書には「小説の芽」とでも呼ぶべき「思考」があらゆるところに植えられていて、小説に触れている人ほど面白く興味深く読めるだろう。


 特に繰り返し語られるのが、小説を読んでもらうためには読者を意識することが大切、という話。

小説に限らず、(他者に読まれることを前提として書かれた)あらゆる文章表現に共通しているのは、その文章に価値があるかどうかを決めるのが「他者」という点である。文章は「他者」のため、より正確に言えば「作品のため」に書かれるべきであって、自分を大きく見せるために書かれるべきではない。[同前]

 そして書くこと、あるいは表現することは、読者という「他者」とのコミュニケーションである、と。

 手がかりは、芸術という営為が「ある情報を他社に渡し、受け取った他者が自分の認知として展開することである」という点にある。そう、芸術はやっぱり「コミュニケーション」なのだ。[同前]


 気になる点は10章で「小説ゾンビ」という言葉を使っていること。

 面白い小説とはなにか。それを探し続けるうちに、いつの間にか小説ゾンビになっていた、と著者は自認している。小説ゾンビとはなにか。それは小説を書いたり読んだりする上で”「自分の価値観」”を捨てた状態のことだという。

「自分の価値観」を捨てると世界がどう見えてくるか。

 実は、それほど大きな違いはない。僕が「自分の価値観」を捨てたところで、設定が奇抜なだけで中身のない、紋切り型の表現ばかりで構成されたペラペラの小説が売れていて、完全に新しくて、その人じゃないとできない本物の表現で最後までダレることなく走りきった傑作が全然売れてないことに変わりはない。ただ、大きく違うのは、「まったく腹が立たない」というだけでなく、むしろ「めちゃくちゃ興奮する」という点にある。[同前]

 なぜ興奮するか。それは自分の中にある”本物の傑作”が上で”ペラペラ小説”が下という価値観を捨てれば、”自分の知らない「小説」”を発見できるかもしれないからだ、と話は続く。

 かつて著者は『恋愛リアリティーショー』番組を好む人の心情が全くわからなかったそうだけれど(ちなみに自分もそうだった)、小説ゾンビになってからは、”自分には何らかの価値観が欠落しているせいで、『恋愛リアリティショー』を楽しむことができない”と考えるようになったという。そこに”まだ知らない「小説」を探すチャンス”があるかもしれない、と。

 自分も最近は色々なものに対して「まぁ、そういうのが好きな人もいるわな」くらいに考えられるようになってきたけれど、それを積極的に「小説を見つけるチャンス」と捉えていることにプロのスゴ味を感じた。


 それにしても「ゾンビ」という表現は強烈だ。

 自我を持たず、食欲のみに任せて歩き回る。それが本来のゾンビだ。実際は、走り回ったりしゃべったりするゾンビ作品が年々増え続けているにせよ。

 著者は”僕は小説を書くのが楽しい”と書いているけれど、ふつう、楽しいアクティビティに打ち込んでいる状態をゾンビにたとえるだろうか。

 小説にとってたとえること、つまり比喩は、小説と現実を繋ぐための重要な紐帯、ロープみたいなものなのではないだろうか。事実、著者はその前の3章で、自分の知らない「ベンチャー企業業界」の事情を、自分の知っている「小説業界」のパターンを知らない分野に当てはめて考えてみること、つまりたとえることの実例を示している。

 つい先日たまたま読んだ高橋源一郎『一億三千万人のための小説教室』では、様々な内容の小説を読むことを「ボールをキャッチすること」とにたとえて、「いろいろなボールをキャッチするほど、心がやわらくなる」と書いていた。遊びの比喩で小説の楽しさを表現していた。

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 ゾンビという言葉が、現在の著者にとって、精神的あるいは肉体的な実感に最も近い比喩だとしたら、そこに「世の中ってしょーもないけど、しょーもないことにはしょーもないなりの理由があるので、自意識を捨てて、しょーもない側の立場に立って考えてみましょう」くらいの実感を読み取ってしまうのは、うがちすぎだろうか。

 ついでに言うと、他の章に関しても、小説をわかりやすく書く方法について書く著者の語り口に、どこかしら冷めた印象を受けてしまうのは、自分の読解の過ちだろうか。

 本書を読んで、たとえば小説家を目指して目をキラキラ輝かせている若者が「よぉーし、じゃあ自分も明日から『小説ゾンビ』目指すぞっ!」と考えるだろうか?


 と、考えてみて、いや、多分そういう人もいるだろうな、と思った。なぜなら自分もどちらかと言えばゾンビ側の人間だから。

 かつて自分は友人に「世の中ってクソみたいなやつばっかりだよな」というようなこと言われたことがあった。

 グズなのでそのときは曖昧な返事をしてしまったのだけれど、後々になって色々考えた末に、「いや、そうじゃない。本当はみんな『自分がよくなりたい』と考えているし、自分がよくなるためだったら『他人をよくしたい』とすら考えている。でもそれぞれの『よくなりたい』がぶつかりあうから、世の中はクソみたいになってしまうのだ」と考えるに至った。

 その考えをもっと押し進めていれば、自分も小説ゾンビになれたんだろうか。わからない。わからないけれども、そういう「ひねくれた前向きさ」(流行りの言葉で言う「冷笑系」だろうか)みたいなものを持っている人は、少ないけれど確実にいるし、それは未来に希望を持ち辛くなっている現代社会(って自分が生まれたときくらいから言われてるけど)における、小説の駆動力のひとつになりうるのかもしれない。


 でもまだ自分は小説ゾンビになりきれないな、と思うのは、著者があくまでも「わかりやすさ」を重視していることに対して少しだけ違和感があるから。自分の中の「小説に対する価値観」を捨てきれていないようだ。どういうことか。

 作品を届けたい相手に対して、「過不足なく伝わるように(なるべく正確に)」、「無駄な時間を取らせないように(なるべく端的に)」、そして可能であれば「相手が自分に対して一切興味がないという前提で(なるべく相手のことを考えて)」、自分の話をする――というのが、「自分の言葉」と「自分のやり方」を見つけるための一つの手段になると思う。[同前]

 読む人にとってわかりやすい文章を書くことが、「自分の言葉」、「自分のやり方」を見つけるひとつの方法になる、と著者は書く。それはなんだか「ネットで文章をバズらせる方法」としても読める。

 それとは逆に、文章をわかりにくくすることに対しては”「十分に気をつけなければいけない」”と書く。ただしわかりにくいこと自体が「ダメ」なわけではない。わかりにくくてもいいから読みたい、と考えている人に向けて書くのであれば、わかりにくくてもいい。大事なのは「誰に届けたいか」を意識して書くこと、その「誰か」に届くように書くことだ、と、話が続く。

 それをさらに短くまとめるなら、「想定する読者にあわせて『わかりやすさ』をコントロールすべし」というテーゼになるだろう。

 個人的には、そうやってコントロールされた小説を読むよりは、「そのように書かれるしかなかった」と感じさせるような、書き手のコントロールを超えたような小説を読みたいと思ってしまう。

 小説が、書き手のコントロール下にあることと、コントロールを超えること。実際のところ、そのふたつは共存可能なことなのかもしれない。というより、なにをコントロール下と捉えて、なにをコントロール外とするか、その線引きは原理的に不可能だ。

 自分だってブログを書く時は、同じ内容を伝えられるなら、なるべくわかりやすい書き方をするようにしてる。ただし読む人のことはなるべく意識しないようにしている。そうしないと書き出すことができないから。緊張して両手両足を揃えて歩く人みたいに、文章がぎくしゃくしてしまうから。

 でもだからといって作者に「この作品はウケるためにここをこうやってコントロールしてます」とは言ってほしくない。仮にそう考えてるとしても、そのことを読者に教えてほしくない。

 でもそれこそが、本書の「まえがき」で書かれているような、著者が本書によって”徹底的に解体”しようとしているもの、すなわち”「小説家」という「神話」と、「小説」という「奇跡」”を、まだ信じてしまっているということなのかもしれない。作者にあまえてるのかもしれない。

 小説ゾンビとは、そのような神話や奇跡をすっかり解体してしまった状態のことを指すのかもしれない。

 ちなみに著者は「別に読者は小説ゾンビにならなくてもいい」ということまで書いてくれている。手が行き届いているというかなんというか。でもどことなく挑発めいたニュアンスも読み取れて、味のある文章になっている。引用しようかと思ったけどここはぜひ直接読んでほしい(116ページ)。


 『君のクイズ』の作中には、かなり唐突に舞城王太郎『熊の場所』の話が出てくる。「クイズの回答を題材にした前代未聞のミステリ小説」というキャッチーなテーマの小説に、『熊の場所』というドチャクソ面白い、もっと評価されるべき小説(昔読んでmixiに感想を書いたなぁ)の話をこっそりまぎれこませること。それが著者なりの戦略なのだろう。

 自分はそこに少々作為的なものを感じてしまった。はたしてそれで『熊の場所』を読む人は増えたんだろうか。あるいは映画版でもちゃんと言及されるのか。バッサリカットされたりして。

 でも小説がどのように影響を及ぼすのかは、とても長いスパンに立ってみないとわからない。10年とか、100年とか。あるいは本書の中で何度か言及されるように、作者の意図とは違う「誤読」によって受け取り方が変容することもある。それもまた、書き手の意図を超えることの、ひとつのありかたなのかもしれない。

 そう考えると、やっぱり小説はまず最初に読んでもらうことを目指すべきなのだろうか。あまえんなよ、ってことか。そうなのか。そうだよなぁ。


 と、気がついたら、自分にとっての小説思考、つまり「面白い小説とはなにか」を自分なりに言語化してしまっている自分に気づく。これも著者の手のひらの上なのか。そんな恐ろしくも稀有な体験ができるかもしれないので、ぜひ読んでみて欲しい。

今のことしか書かないで/大槻ケンヂ

 開いて内容をチェックしてみたら、楽曲『医者にオカルトを止められた男』についての言及があったので読むことにした。
www.youtube.com
 『医者オカ』(と、勝手に略してみる)は、今どきの(大手メディアが大々的に取り上げないおかげもあってか急速に消費されず、結果、若者向けの定番ジャンル化した感のある)ボーカロイド楽曲っぽいサムネイル・PVなのに、大槻ケンヂワールド全開の歌詞世界が繰り広げられるギャップが痛快で、お気に入りの曲だった。


 本作はエッセイとフィクション、事実と妄想が絶妙に入り混じった文章群となっている。「まえがき」によると「限りなくエッセイに近い幻想私小説」であり、「限りなく幻想小説に近いエッセイ」でもあるという。

 〇〇でライブをした、という近況報告から、さまざまな思考を経て、「二代目大槻ケンヂオーディション通過者と食事する」みたいな妄想が始まる。そしてその妄想がストーリーとして独立・発展し、ラストにはひとつに収束していく。

 その物語は、楽曲『医者にサブカルを止められた男』のバックグラウンド・ストーリーとでも呼ぶべきものになっていて、同時に、著者の作詞術、あるいはフィクション制作の過程の一端をつまびらかにしてもいる。あのアイドルが七曲町子という名で、その元ネタが町田町蔵(現・町田康)であることもわかる。ただし本作と『医者オカ』の関係性は不確定ではある。なにせ幻想小説なので、


 タイトルに反して、思い出話はそれなりに多い。そもそもこのタイトルはエッセイとしてのスタンスではなく、フィクション上に登場する「少女」のセリフだ。それに、文章を書くことって、「思い出話」と「虚構」のどちらか、あるいはその混合のいずれかでしかないんじゃないか。読んでるとそんな気がしてくる。

 子どもの頃、大人が話す思い出話にウンザリした経験がある人は多いだろう。なんでそんなに昔の話ばっかりするんだろう。もっと今の話をしてよ、と。でもそんな子どももいつしか年をとり、うっかり思い出話ばかりしている自分に気づく。

 それは単純に、大人になるほど過去の量が増え、未来の量、すなわち未来の可能性が少なくなるからだろう。ないもの(未来)よりあるもの(過去)の話をしたくなるのは、ごく自然な心の働きだ。

 ないはずの未来を思い描くにはどうしたらいいだろう。そこでフィクションの出番となる。年若い美少女アイドルに生まれ変わる。そこに元の自分がそのアイドルのマネージャーとして「同時に」存在している。やがてアイドルは二代目大槻ケンヂとしてステージを熱狂させる。生首の相棒ができ、入院した母が三八式歩兵銃をぶっぱなす。そんなことが、フィクションの中ならできる。

 それは妄想による現実逃避なのか? まぁ、そういう見方もあるかもしれない。

 でも著者がこれまでに作り上げたフィクションは様々な人々に影響を与え続けてきた。中には心を救われた者もいるだろう。自分も『人として軸がぶれている』に勇気をもらい、『林檎もぎれビーム!』に希望を教わった。現実変性能力を持った妄想は、もはや妄想ではない。著者に影響を受けたわれわれ一人ひとりが、ある意味では二代目大槻ケンヂなのだ。

 そしてあらゆる妄想が現実を変えるうるのだとすれば、あらゆる妄想はムダではない、と言えないだろうか? ちょっと楽観的すぎるだろうか。

 一方で、フィクションが持つ危険性にも著者は自覚的だ。人は誰しも、他人に言えない願望のひとつやふたつやみっつやよっつを抱えているもの。ときにフィクションが危険な願望を助長してしまうかもしれない。

 そんな危険に立ち向かうための力さえも、フィクションは持っている。その可能性をも本作は描いている。自らの分身的な悪を乗り越えることによって。


 しかしそんなストーリーもあくまで本書の半分であって、残りの半分はエッセイ。コロナによる発声禁止が解禁されて一発目に歌ったのが『おサル音頭』だったり、共演者の出番にわけもわからず乱入して「たこ焼きダンス」を踊る、といった、まぎれもない「ほんわかエピソード」もあれば、癌を告白した後に行方知れずになったかつての友達との記憶や、先輩である頭脳警察の「PANTAさん」との生前の思い出など、胸に来る文章もある。


 現実と妄想の往復がもたらすトリップ感。その危険と安全を示してくれているような、貴重な一作だ。