rhの読書録

とあるブログ書きの読書記録。

ティンブクトゥ / ポール・オースター

ティンブクトゥ (新潮文庫)

 柴田元幸翻訳の小説を読んでみよう、とだいぶ前に買っておいたこの本。しばらくぶりに手に取り読み進めたら、ハマった。

 (文庫版の)30ページあたりから、主人公であり犬の「ミスター・ボーンズ」の飼い主である「ウィリー」のことが、すっかり好きになってしまい、そこから最後まで止まらなかった。

 現代的な観点から言えば「わりとダメな人」に分類されるであろうウィリーであるが、戦災を逃れポーランドからアメリカに流れ着いたユダヤ人の元で、生まれも育ちもアメリカという生い立ちを持ち、生来の「凝り性」的人間性を持って詩と放浪に生きた男である。

 読んでいるうちに気がつけばそんな彼を好きになっていた。文学的なマジックとでも呼ぶべき筆力によって。

 かつては文学の話をするときに、人間を描けているとか描けていないとかいった議論があって、結局そういう議論はあんまり意味がないんじゃないかみたいな歴史的な流れになったわけだけれど、それはそれとして、この小説は圧倒的に「人間が描けている」。し、犬も描けている。

 しかしこの小説は、そんな波乱万丈なウィリーの半生を、ミスター・ボーンズの視点から描くだけに留まらない。留まらずに、更にその先に行こうとする。上でも下でもなく。

 それがこの物語を、単なる犬が主役の感動物語に留まらせないだけの幅と奥行きを生んでいる。それはそれとして、ラストが取ってつけたような印象がなくはなかったけど。


 ティンブクトゥとは西暦1500年頃に栄えたアフリカのマリにある地域のことであり、英語で「世界の果て」を意味する単語、とのことである。

www.asahi.com

 おそらく日本人にとっての「天竺(ガンダーラ)」みたいなイメージが、欧米人にとってはあるんだろうと想像している。時間のスケールは天竺のほうが古いけども。

赤瀬川原平の名画読本 / 赤瀬川原平

 絵画のことがわからない。正直に言って、さっぱりわからない。人はなぜ絵を描き絵を観るのか。

 今まで絵画というものと無縁の人生を送ってきた。一度だけ、散歩中にたまたま見つけた「フランシス・ベーコン展」に入ったことがあるが、それとて、ある批評家がベーコンについて書いていたのを読んだことがあったからで、絵画そのものに興味があったわけではない。高校の部活でフランスの美術館ツアーに行ったこともあったが、日程が詰め込みすぎてほとんど記憶が無かったりする。実にもったいない。

 そんな自分がたまたま古本屋で見つけたのが『赤瀬川原平の名画読本』。筆者は芥川賞作家で「超芸術トマソン」の提唱者、という程度の知識で読み始めた。

 すごく良かった。ものすごく良かった。

 まず、絵画のことがわからない人が最初に抱くであろう「なぜ絵画を鑑賞するのか」という疑問に対して、前書きでの中でこの上なく明確な回答をしてくれている。

 いわく「要するに自分の目で観ることなのだ。人の目や言葉ではなくて、自分の目が見て嬉しいものが本当の名画なのだ。」と。

 「自分にとっての名画」であれば何度見ても飽きずに良さを感じることができる。そして歴史という試練に耐えた名画は「自分にとっての名画」と重なることが多い、と。

 その後セザンヌ、マチス、ゴッホなどの具体的な作品を取り上げながら、筆のタッチ、配色、構図、そして作品全体が与えるイメージからどのような良さが感じられるかを、専門用語など抜きに語ってくれる。これがめちゃくちゃわかりやすい。

 普段、絵画やその他の芸術一般に親しみが薄い自分のような人間にとっては、筆者による絵画の解釈は、ともすれば主観的で妄想的にすら映るかもしれない。「描いた人、そこまで考えてないと思うよ」と。

 でもあえて考えるまでもなく、あらゆる作品の解釈は自由なのである。作者の意図の範囲内にとどまる必要は全くない。好きなだけドンドン想像の翼を広げていっていいし、それができるのが名画の名画たるゆえんなのだろう。

 もちろん自由だからといって何を言ってもいいわけじゃない。いや、言うのは別に自由なんだけど、例えば馬の絵を見て「これはリンゴだ」と言っても、ただムチャクチャなだけで特に面白みが無い。まぁ馬をリンゴと言って面白くする解釈のやり方も無いことはない気もするけれど。話が逸れるので戻そう。

 著者による絵画の解釈は、きわめて平易かつ主観的でありながら、納得感が強い。しかもサラッと描き手の略歴にも触れてくれるので、自分のような絵画弱者にもとても優しいつくりになっている。

 絵画の良さについて著者はよく「美味しい」という表現を使う。味覚は個人の官能に大きく依存した感覚だ。普通の人(テレビタレント等を除く)は美味しいものを食べたからといって爆笑したり小躍りしたりすることはない。とても個人的な感覚。絵画の感受性にも味覚に似たところがあるということだろう。

 そしてなにより著者の文章そのものが「美味しい」。言葉運びにムダがなく、論理にねじれが無い。イメージと論理の世界を気持ちよく行き来している。絵画にも文章にも通じている著者ならでは、という感じがする。絵画のことはまだよくわからないけども。これを機に興味を持てたらいいなと思う。

「自分」を生きるための思想入門 / 竹田青嗣


書きたいことはある。いつもある。
でも、こんなことを書いていいのか?と躊躇する。
なぜか。
そりゃあ一応まかりなりにも人目に触れる可能性のある文章だからだろう。
誰にも見られないのであれば、躊躇する必要もない。
でも誰も見ないものはそもそも書く必要も無い。
他人に煩わされたくない。でも他人がいないと何もやるべきことが無い。


そんな事を考えてしまうのは、竹田青嗣『「自分」を生きるために思想入門』を読んだから。
人はどう生きるべきか、そして社会はどうあるべきか。そんな根本的なことを考えざるを得なくなるのがこの本。
竹田青嗣の本は、昔「ニーチェ入門」を読んだ記憶があるのだけれど、内容は覚えておらず、手元にも残っていなかったりする。


変わらないルールは無い。
進まなきゃいけない目標は無い。
正しい生き方など存在しない。
そんな世界でどう生きるか?
それが現代の哲学の課題らしい。


結論としては、自分の生き方は自分で決めましょう、という話になる。
そうならざるを得ない。
結局何もわからないままじゃないか、という気持ちが湧いてくる。
しかし他に道がないんだから、それはまぁしょうがない、とも思える。


自分らしく生きている人に憧れる。自分の生き方を自分で決めている人に憧れる。
ナルシシズムがカリスマ性の源だ。
でも、誰かに憧れてるだけでは、自分らしく生きることはできないんじゃないか?
そうとは限らない。誰かに憧れつつ自分は自分らしく生きることもできる。


むしろ問題は「自分らしく生きること」にこだわってしまうことの方にあるだろう。
自分らしさにこだわっている時点で、他人との違いに価値を見出そうとしている。
他人に振り回されている。


「自分探し」を腐す、ありふれた人間批評がある。
でもそもそもどうして自分探しなんていう概念が世の中に広く出回ったのか、その理由を考えなきゃ意味がない。
昔は生きる目標を誰かが決めてくれた。
でも今はそうじゃない。自分で目標を決めなきゃいけない。基本的にはそういうことになっている。だから自分が何のなのか、何をしたいのかを探さなきゃいけない。
昔は社会が「こう生きろ」と言ってくれた。今は「自分で考えろ」になった。それに素直に従った結果が「自分探し」なのだ。
で、みんながこぞって個性を探すっていう没個性的な事態になっている。確かにアイロニカルではある。
自分の目標、自分の生き方を見つけることが出来た人にとって、自分探しは必要無い。
でも世の中はそういう人ばかりじゃない。そういう人のほうがむしろ少数派だ。
多くの人は、自分がなんのために生きているのかわからないまま生きている。
自分を確立することに成功した人や、そもそも確率する必要が無かった人が、自分探しを腐すのは、不公平というものだ。生まれつきの金持ちが自助を説くようなもの。
たとえ自分探しが不毛なものだったとしても。


でももしかすると、今はもう個性の時代じゃなくなりつつあるのかもしれない。
震災以降の社会不安によって、平凡に、無難に生きることが幸せになりつつあるのかも。
YouTubeにいる変な人を横目に見ながら。


何を求めるべきか。何が幸せなのか。
もちろんそんな難しいことは今でもわからない。
ただ、個別具体的に、目の前のことを、少しでも良くしていく。
それくらいのことしかできないし、それで十分なのかもしれない、とも思う。


面白い本を面白く読む。
でも読み終わった後になにか違和感が残る。
不自由な感じがする。
読んだ人を狭い檻に閉じ込めようとするような不自由さ。
できれば読んだ人を元気にさせるような本を読みたい。
明日も美味しいものを食べたい、と思わせるような。
別に不自由な本が存在すること自体は構わないけども。

「妹を救う物語」としての『鬼滅の刃』と『ダンジョン飯』の比較

ダンジョン飯 10巻 (HARTA COMIX)

ダンジョン飯 10巻 (HARTA COMIX)

 『ダンジョン飯』10巻を読む。キメラになった妹を救う物語がいよいよ佳境に入っているわけだが、よく考えたらコレって『鬼滅の刃』と同じじゃん。気づくのが遅い。

 せっかくなので自分の分かる範囲で両者を比較してみよう。※本記事には両作の多少のネタバレが含まれます


 主人公の対比。『鬼滅』の炭治郎の目的は「妹を救うこと」の一点に集中している。

 逆に彼はそれ以外の強い欲望を持っているようには見えない。せいぜい「人を喰らう鬼を止める」という程度のものだろうか。少年漫画に多い、ある種の「頭からっぽ性」を持った主人公だ。

 一方『ダンジョン飯』のライオスは魔物マニアだ。妹以外への他者への執着が薄いこと、そして妹を偏愛するがゆえの危うさが度々描写されている。


 作品のテーマ。鬼滅は「鬼」、ダンジョン飯は「魔物・ダンジョン・悪魔」という「邪なるもの」との対峙を通して、人間らしさとはなにかを描いている、というのがかなり大雑把にまとめたテーマといえるだろう。

 鬼滅の刃においては、あくまで人間として弱きものを守ると宣言する煉獄杏寿郎が、極めてヒロイックな人物として描かれる。まさに「人間讃歌(©ジョジョの奇妙な冒険)」。

 対してダンジョン飯におけるダンジョンは、多分に魅力的なものとして読者に映る。あまつさえ魔物を料理して食しさえする。

 それは本作におけるダンジョンが、人間の欲望を反映して設計されたものだからでもある。


 精神科医の斎藤環氏は鬼滅の刃における鬼を「犯罪被害者のメタファー」と評していた。

note.com

 それに習うのであればダンジョン飯におけるダンジョンは「人間の欲望のメタファー」と見るのが妥当であろう。

 どこまでも肥大化し、変質していく欲望。その最深部に住む支配者。ダンジョン=欲望に捕われた妹を、カレーライスでおびき寄せ、窒息させる。実に重い展開だ。

 ならば契約によってダンジョンの支配権を与えてくれる悪魔はさしずめ「言語そのもの」のメタファーである、とラカン精神分析的には言えるだろうか。


 そんなダンジョンに魅了されるライオス。彼が新たなダンジョンの主となる可能性、および彼の決断(ダンジョンを封じるか、それとも悪魔に屈して自らの望むダンジョンを作るか)が物語全体の重要なキーとなることが示唆されている。

 鬼滅の刃のラストでは、ある種の「空っぽ性」を持っていた炭治郎が鬼となり、同時に彼こそが最も鬼に適した人間だったことが明かされる。悪を討たんとする存在が、最も悪への親和性を持っていた。

 最終的に炭治郎を救ったのは鬼殺隊との、そして妹との絆であった。


 果たしてライオスはどのような決断を下すだろう。鬼滅の刃のように妹ファリンやマルシル達との「絆」によってダンジョンを封じるのか。

 あるいはダンジョンに魅入られたライオスを他の人物たちが助けようとする、というような展開もありうるか。

 なんにせよ続きが楽しみだ。

箱男 / 安部公房

箱男 (新潮文庫)

箱男 (新潮文庫)

 安部公房による小説。昭和48年に刊行。

 本作の登場人物(?)である「箱男」は、ゲーム『メタルギアソリッド』に装備品として登場する「ダンボール」の元ネタとされている。

 そんなメタルギア経由で手に取った読者を絶望のどん底に叩き落とすような、かなーり難解な内容となっている。

 かくいう僕自身もそのクチで、初めて読んだのは2007年のことらしい(こういうときブクログに記録しておくと助かる)が、若かりし時分には全く内容を理解できず。せいぜい「ダンボールの内側に物を吊るしたりするんだったよな」程度の細かい情報しか記憶に残っていなかった。


 このたび14年ぶりに再読してみて、十全に内容を理解できたとまでは言えないものの、「なぜ難解なのか」くらいはある程度把握することができたと思う。

 一本の筋が通ったストーリーが存在せず、箱男がノートに書きつけた、偏執的かつ倒錯的な一人語りを主として構成されている。

 その間に、本編との繋がりが不明瞭な断章や、モノクロのスナップショット、新聞記事風の文章などが挟み込まれている。

 そしてラストは一種の「妄想オチ」的な展開で幕を閉じる。

 まるで不条理な夢そのもののような物語。だから頭に留めておくのが難しい。



 ダンボールを被って街を徘徊する匿名の存在である箱男の生体記録、そして「覗き」という行為をテーマとして展開される序盤の数章は比較的読みやすい。

 なぜだかわからないが、人はなにかを「覗く」という行為を好む。

 安全な場所から、なにかを一方的に見る。そのような娯楽は見世物小屋に始まり映画やテレビへと進化してきた。

 そして現代ではではインターネット上のSNSや動画サイトを通じて、有名人の生活や、あるいは一般人の私生活までもが「覗き」の対象として供給され続けている。

 現代の読者であればそんなことを想起させられるだろう。


 都市の人工物である無機的な(紙だから有機物だけど)ダンボールを被り、社会の軛から外れ、ただ一方的に社会を覗くだけの存在。

 そんな箱男の生き方に、ほんの少しだけ憧れさせられたりもする。


 しかし覗くという行為は、常に対象から「覗き返される」可能性と表裏一体だ。常に安全地帯にいられるとは限らない。

 そんな「見る側」と「見られる側」の混乱を暗示するかのように、終盤に向けて物語は混迷を極めていく。


 率直な感想を言うと、読みすすめるにつれて、これって結局箱男の妄想なんじゃないか、冷めてしまった部分はある。

 しかしだからといって読む価値が無いかっていうと全然そんなことはない。鬼気迫る描写。時代を超えるテーマ性。名作であり怪作だ。


 ところでこの小説をミステリー的に(いくぶん味気なく)謎解きするならば、最初から箱男は一人しかおらず、その正体は自らを元カメラマンだと思い込んだ軍医で、会話部分および供述書のみがになるんじゃないかと自分は読んだんだけど、みなさんはいかがでしたか?

風の歌を聴け / 村上春樹(再読)

風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)

  • 作者:村上春樹
  • 発売日: 2016/07/01
  • メディア: Kindle版
 村上春樹のデビュー作。29歳の「僕」が、21歳だった1970年の一夏を回想する小説。というのがとてもざっくりとしたあらすじ。

 作者自身も執筆当時29歳だったという。なので発表当時の読者にとっては、作者個人の体験を書いた「私小説」的な読み方もなされていただろう。

 しかし回想は、少年時代や、「これまでに寝た女の子」にまで及び、さらに「僕」が聞いていないはずのラジオや、放送外のDJの発言までもが描かれる。

 つまり語り手が「僕」から他の人物、ないしビデオカメラのような第三者へと移り変わっている。小説用語で言うと「人称が移っている」。それは「僕」の回顧録であるかのような書き出しとは矛盾しており、明らかに単純な私小説とは異なることがわかる。

 本作のように「純文学」と呼ばれるタイプの小説でたまにある、文学的手法の一環としての現実味の薄さ・無さとみなすこともできる。下品な言い方をすれば「そのほうが芸術っぽいから」と。

 でも本作、ひいては村上春樹の作品全般におけるそのような現実感の薄さ・無さ、つまり非リアリズム性は、決して単なる雰囲気作りのためではない、と思う。


 本作冒頭、デレク・ハートフィールドという小説家への敬愛が綴られる。

 しかしそのような小説家は現実には存在しない。つまりフィクション。

 にも関わらず、その文章が実在の小説家であるフィッツジェラルドやヘミングウェイを引用したりと真に迫っていた、つまり「それっぽかった」ので、少なくない読者がデレク・ハートフィールドの著作を求めて図書館に問い合わせた、というエピソードが残っている。ハートフィールド以外に作中で引用・言及される様々な映画や楽曲、小説がいずれも実在のものであることも、そのような事態が起こった原因だろう。

 作者ほどの人物が、そのような事態を予期しなかったはずがない。ではなぜそのようなことを書いたのか?

 それは読者に「デレク・ハートフィールドっていう小説家がいるんだ、へー」→「なんだ嘘じゃん」という経験をさせること自体が目的だったんじゃないだろうか。

 ひいては読者に「この小説は本当っぽいけど嘘かもしれないし、嘘かもしれないけど本当かもしれない」と思わせたかったのではないか。ちょっと難しい言い方をすると「虚実のあわい」を描きたかったのではないか。


 なぜそのような小説を書いたのか?

 この小説が発表された1980年代頃は、よりリアルで、より現実の問題を描いた小説がもてはやされる風潮があった。今じゃ考えられないことだけどリアリティの無い小説は「人間が書けていない」とか言われて批判された。村上春樹はそれに違和感を持っており、自分たちの世代の、あるいは自分自身にとってよりリアルな世界観を描きたかった。

 というような説明がまぁ世間一般の定説だと言っていいと思う。

 でもそういう「いかにも」な動機だけでは、村上春樹の小説が世界中で読まれていることの説明にはならない。

 なぜ村上春樹の小説には多くの読者がいるのか? というテーマはさすがに手に余りすぎるので置いておこう。

 なぜ自分は村上春樹の小説を読むのか? を語るのは難しい。なんかこう、読んでいるエロ本を後ろから覗き見されるような気恥ずかしさがある。なので、小説の話に戻りましょう。


 「僕」の友人「鼠」は、「僕」に似ているようで対称的。まるで「僕」の心の弱さを象徴した人物のようだ。そう思って出会いのシーンを読むと、まるで「僕」が二人に分裂したように見えなくもない。

 もうひとり、「僕」が出会い関係を深めていく「小指のない女の子」は、精神的な問題を抱えている。

 そして「僕」が「3人目に寝た女の子」は1年前に自殺している。

 そこからこの小説の物語を『恋人を失った「僕」が、「小指のない女の子」と関係を深めることでお互いの心の傷を癒やし、自分の弱さの象徴である「鼠」と決別する話』とまとめたくなる。というか、そういうストーリーだったらもっとわかりやすい。

 しかし実際にはそのようなわかりやすい物語的解決は描かれない。そもそも「3人目に寝た女の子」についての言及はかなり少なく、「僕」が彼女についてどう思っていたのかすらよくわからないままだ。「小指のない女の子」とは決定的な関係を気付く前に別れる。「鼠」とは毎年小説が送られてくるという形で関係が継続される。

 そのような物語としてのあいまいさをどう読むべきか。


 いや、問いの立て方が間違っている気がする。

 それを自分はどう読んだか、を書くべきだな。やっぱりそこから逃げちゃいけない。


 この小説から伝わってくるもの。

 一言で言えば無力感、だろうか。完璧な文章は無いし、「女の子」は去っていく。結局あらゆるものは消え去っていく。ビールの泡のように。

 そこに希望があるとしたら、たとえば書くという行為そのもの。ある場合は自己療養になるかもしれない。

 あるいは表現行為そのもの。終盤でやや唐突に挟まれるラジオDJからの語りかけ。

 でも希望は物語によって与えられるものではなく、見つけ出すものだ。だからこそ「作者の伝えたいこと」は虚と実の間に巧妙に隠されなければならなかった。


 っていう感想は、ちょっと抽象的すぎてどんな小説にも当てはまりそうではある。

 でも「希望」とか「愛」とかを声高に叫んだりしないところが村上春樹の信頼できるポイントのひとつ。

『風の歌を聴け』を再読(する予定)

本屋でふと『風の歌を聴け』を手に取り最初の方を再読。断片的な章を連ねた小説だ。

風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)

  • 作者:村上春樹
  • 発売日: 2016/07/01
  • メディア: Kindle版

rhbiyori.hatenablog.jp
加藤典洋氏が『村上春樹 イエローページ』の中でこの小説の時系列を整理してまとめていたのを思い出した。もう一度読みたくなったが手元にない。
rhbiyori.hatenablog.jp
そこで、この小説について書いた論文を検索してみたら、良質なものを見つけた。
ir.lib.hiroshima-u.ac.jp
「鼠」と「小指のない女の子」が主人公の<影>である、という読解。
正直言って『村上春樹 イエローページ』の内容とどれほど共通しているのか全く覚えていないんだけど、その読解でもう一度『風の歌』を読んでみたいと思う。

まだ冒頭を読んだだけだけど、大変心に刺さる。もう一度村上春樹作品を通読してみるかなぁ。
過去の記事によると最初に読んだのが10年くらい前なのでちょうどいいタイミングな気もする。でも時間かかるなぁ。