面白い本を読むと、なにかを語りたくなる。あるいはなにか語らなきゃいけないような気持ちになる。そんな「なにか」を書くブログ。
アウトライナー実践入門 ~「書く・考える・生活する」創造的アウトライン・プロセッシングの技術 / Tak.
- アウトライナーとの出会い
- 今までのアウトライナーとの付き合い方
- アウトライナーを使うメリット
- デジタルが手軽にしてくれたツール
- これまでの自分の文章の書き方
- 実際に本書の技法を実践した感想
- アウトライナーは文章作成以外にも利用できる
アウトライナーとの出会い
『勉強の哲学』という本を通してアウトライナー(アウトライン・プロセッサー)というツールの存在を知った。
rhbiyori.hatenadiary.jp
そこからかれこれ6年ほど。特に理由もなく離れる時期があったりしつつも、なんだかんだでアウトライナーを使い続けている。使っているのは「Dynalist」。
今までのアウトライナーとの付き合い方
元々はアウトライナーを「ブログ記事の作成」「日常のメモ」「ゲームの攻略を自分用にまとめる」などの用途で使っていた。
先月くらいからアウトラインの運用を改め始め、今月に入ってからは「全てのアウトラインをひとつのファイルで管理する」という「アウトラインの一本化」運用を始めた。割といい感じだけれどこのまま続けるかはわからない。
そうしてアウトライナーについて考える中で、『勉強の哲学』で参考文献に挙げられていた本書の存在を思い出し手に取った。
そのような自分にとっては示唆の多い本であった。長年使っていても気づかなかった、新たなアウトライナーの活用法を知ることができた。
アウトライナーには実に様々なメリットがある。どうやら、というか、やはり、と言うべきか、自分はそのうちの一部しか引き出せていなかったらしい。
もっと早く本書に出会っておけばよかった気もするが、自分なりの使い方を確立する時間もそれはそれで無駄ではなかったようにも思う。
アウトライナーを使うメリット
アウトライナーとは、ごく簡単に説明するのであれば、箇条書き形式のテキストエディタである。
始めてアウトライナーを使う人は、ただ文頭に「・」がついているだけの文書作成ソフトにしか見えないかもしれない。
しかしこの「・」があるおかげで、「しっかりした文章を書かなければいけない」という意識から少しだけ自由になれる。
箇条書きのように、頭に浮かぶオブジェクトをそのまま書き出してみよう、という気分になりやすいからだと思う。
そしてこの「・」を掴んで移動することができる。(マウスならドラッグ、タッチパネルならタッチ長押し移動)
普通のテキストエディタであればコピー&ペーストが必要なところも、「・」すなわちトピックごとの移動であればより簡単に行える。
さらにトピックに階層行動をつくったり、トピックを閉じて下位のトピックを隠したりすることができる。
デジタルが手軽にしてくれたツール
一見すると「そういうこともできるのね」くらいに見える機能だが、仮に同じことをアナログでやろうとするとどれほど手間がかかるかを想像してみると途方もない。
思いついたことを紙のカードかなにかに書く。それを机の上に並べ替える。大量の紙と広い机が必要だ。カードの内容を2つに分割しようと思ったらまた新たにカードを2枚用意する必要がある。
そのような仮にそんな並べ替えをしたとしても、一覧性は悪いし、持ち運ぶことなど到底できない。
なによりそんな大仰なことを、金と時間をかけてやることじたいが億劫だ。本を一冊書き上げるとか重大な調べ物をするとか、それくらいの動機づけがなければできることではない。
しかるにアウトライナーであれば、そのような知的操作を簡単かつ気軽に行える。ちょっとした買い物のメモにすら、アウトライナーは使えるのである。デジタル時代のありがたみ。
そんな便利なアウトライナーを、自分はせいぜい「便利なテキストエディタ」や「便利なメモアプリ」くらいにしか使えていなかった。
本書の実践法を学んだことで新たなアウトライナーの活用ができるようになるかもしれない。
これまでの自分の文章の書き方
自分が文章を書く時は、頭の中で全体の構成をぼんやり考える、というか自然にぼんやりとした構成が組み上がるのを待ち、イケるなと思ったらなるべく一気に書き出す、というスタイルが主。
短いブログを書くならそれで事足りる。ごくまれにもっと長い文章を書くことになると気があり、そういう時は書きながら構成を作ることもある。
難しめの小説の感想を書くときだけは例外で、思いつくことを頭から順番に書いていって、結果的に構成が出来上がるのを祈る、みたいなことになりがちだったりする。
すでに頭の中にある構造を書き出す感じなので、自分にとってアウトライナーはせいぜい「便利なテキストエディタ」くらいのものだった。
階層構造はほぼ使わない。並べ替えも、まれに「こことここを入れ替えたほうがピッタリハマるな」ということがあるくらい。
実際に本書の技法を実践した感想
今回この記事を書くにあたって、階層構造や並べ替えを意識的に使うようにしてみている。
「シェイク」や「トップダウンとボトムアップ」の往復。アウトライナー操作の5つの型。それらを意識して書いてみた。実際にできているかどうかは別として。
文章構造をわかりやすくするためにつけた仮の見出しをあえて残してみた。階層構造もそのままにしてもよかったのだけれどさすがに読みづらそうなのでやめる。
正直に言うと、時間がかかって大変だった。文章の並べ替えを細々やることに意識を持っていかれて、なかなか書くことに集中できない。
これらはおそらく単に自分が慣れていないがゆえのことだろう。もっと長大な文章を書くためには多かれ少なかれこのような作業が必要になるわけで、それに必要な能力が自分に足りていないのかもしれない。
普段は脳内でやっている文章の構成化を手元でやっているような感じがする。頭の中のことを可視化できているとすれば、それはよいことかもしれない。
アウトライナーは文章作成以外にも利用できる
メモ。日記。日誌。アイデア帳。日常の中で出てくるあらゆる「ことば」を、ひとつのアウトラインに放り込む。
本書ではそのような運用法を「ライフ・アウトライン」と呼んでいる。
自分が「アウトラインの一本化」を行ったのも、そのような運用法を目指してのことだった。
それまでは使う度に新しいファイルを作っていた(Dynalistには、Workflowyなどには無いファイル機能がある)。まっさらなところから始めたほうがやりやすい感じがして。
ひとつのアウトラインに日記もメモもブログの下書きも全て放り込む運用をすると、メモとしての使い勝手は劇的に向上した。
とりあえず思いついたこと、覚えておきたいことを全部アウトラインに放り込んでおいて、後で整理すればいい。このことに気づいた時は、ほとんど革命と言っていいほどの、自分の中の「アウトライナー力(りょく)」の進歩を感じた。
「後で整理する」という発想は本書を読んだことではじめて得られたものだ。このことだけでも大いに価値があった。
一方、ブログ記事などを書く時は、どうしても前後(上下)のトピックに書くことが引っ張られてしまっているような感覚がある。これが良いことなのか悪いことなのか、自分の中ではまだ判断がつかない。
本書で学んだことを実践できるようになり、その効果を実感できるようになるとしたら、それはまだまだ先のことかもしれない。
いずれにせよ、アウトライナーを使う上で必要を感じたら、折に触れて本書に触れてみたいと思った。
ところでDynalistのスマホアプリ版の更新が2年くらい前から止まっているせいか、だんだん挙動が不安定になってきていて困っている。なにかいい代替ツールはないものか。Workflowyに有料登録するのが一番いいんだろうけども。
恥知らずのパープルヘイズ / 上遠野浩平
ジョジョファンとして存在は知っていたが、なんとなくスルーしていた本作。最近読書欲が高いのでこの機会に読んでみることに。
まず文章が読みやすい。あとキャラクターの名前がなんか覚えやすい。マッシモ・ヴォルペ。ヴラディーミル・コカキ。
テーマや、作品としてのノリをジョジョ5部から引き継いでいる。原作オマージュ表現もそれなりに入っている。簡単なようでなかなかできることではない。
当初は裏切り者として設定されていたが、諸事情を考慮してチーム離脱という扱いになったフーゴというキャラクター。
ある意味で「週刊連載のライブ感」の犠牲になったキャラとも言えるが、彼を救済する物語として、一歩踏み出せなかった男フーゴが、一歩踏み出すまでの話として、キレイに「ケリ」がついている。素晴らしい。
ただ、こうして小説という形で「ジョジョ」を読むと「こいつらやってることは裏社会の殺し合いだよな」と冷静に俯瞰してしまう自分もいる。それを感じさせない漫画ジョジョの絵力も改めてスゴいんだなと再認識した。
なお著者は最近出たジョジョ4部スピンオフ『クレイジーDの悪霊的失恋』の原作小説も書いている。あちらもある登場人物の「ケリ」をつける話でかなりよかった。
道化師の蝶 / 円城塔
なんとなく苦手意識があった円城塔の小説に挑戦。
なかなかに難解な小説であった。おそらく難解という前評判が耳に入っていたから苦手意識があったんだろう。
わかったことやわからなかったことを書いていく。
まず全体を要約してみる。多分本作未読の人が読んでもなんのことだかよくわからない要約になっていると思う。読んでいてもわからないかも。
これを書いている自分自身の頭を整理するためのものでもあるので、ご容赦いただきたい。
全5章となっており、章ごとに語り手、あるいは書き手が変わっていく。語り手を信頼するのなら。
第1章。
東京-シアトル間の飛行機の中。飛行機の中だと上手く本が読めない、と考える「わたし」に、A・A・エイブラムスという実業家の男性が話しかけてくる。「着想を銀の網で捕らえている」という。着想は蝶の姿をしている。
わたしの着想にヒントを得て書かれた本「飛行機の中で読むに限る」が、豪華客船で旅する富裕層の間に口コミで大ヒット。
蝶を鱗翅目研究所に持ち込んだところ、新種の蝶として認定され、アルルカン(道化師)にちなんで「アルレキヌス・アルレキヌス」という学名がついた。
第2章。
第1章の内容が、無活用ラテン語で書かれた小説『猫の下で読むに限る』の翻訳であることが明かされる。著者は友幸友幸(ともゆきともゆき)。第2章は、出版されたその『猫の下』の翻訳者による、後書きのような文章。
友幸友幸は旅する小説家、手芸家、言語学習者であり、その消息をA・A・エイブラムス私設記念館が捜索しているが未だに見つかっていない。なおエイブラムス(第2章では女性とされる)は死去している。
友幸友幸は世界各地を転々とし、その地の言語と手芸を学習し、膨大な文章と手芸作品を残している。そのすさまじい言語学習スピードは異能力の域に達している。
第3章。
第2章の描写と照らし合わせると、おそらく第3章は友幸友幸視点の語り。場所はモロッコのジュカ。
彼女は各地で言語と手芸を覚えては、別の地にわたり手芸作品を売って生活している。記憶スピードは早く、忘れるのも早い。
章の終盤、突然シアトル-東京間の飛行機に移動する。そこはおそらく彼女の小説世界の中。
隣りに座った慈善家の女性が「幸運を捕える網」を私に見せる。
第4章。
前半は、A・Aエイブラムス私設記念館のエージェントとして友幸友幸を追う男のレポート。後半は同じ男視点の語り。レポートはサンフランシスコで書かれている。
レポートの内容は友幸友幸、およびエイブラムス私設記念館に付いての考察。
さらに男が『猫の下で読むに限る』の翻訳をした、とも語られる。だとすると第2章の書き手もこの男だということになる。
男はエイブラムス私設記念館で、受付の女性にレポートを提出する。女は男を「ミスター友幸友幸」と呼ぶ。
第5章。
レポートを受け取った女の視点。女は友幸友幸本人だということが明かされる。彼女は自らの手芸を「読み」、また自らの書いた文章を読むことで記憶を巡っていた。
女は男から受け取ったレポートを読む。レポートに使われている日本語は習得していないが、文字の筆跡を確かめ、書き写すことで、少しずつ内容を感知することが、彼女にはできるようだ。
突然レポートがある種の「呪い」であることを感知した彼女は、気がつくと「喪われた言葉の国」に立っている。
老人と出会う。老人は女に蝶を捕まえる網の制作を頼む。女は網を作って渡す。
老人は鱗翅目研究者だった。時間と場所が、第1章でエイブラムスが鱗翅目研究者に蝶を運んだ場面に戻っている。老人は蝶を新種ではない既知の種族であると伝え、エイブラムスに網を渡す。
老人から解き放たれた蝶は「わたし」になる。時間と空間を超えたわたしは飛行機に乗る(エイブラムスと思しき)男の頭に卵を産みつける。
以上、要約終わり。
一読しただけだと何の話をしているのかよくわからない摩訶不思議な小説に見えるかもしれない。
しかし注意深く読めば、実は物語の構造自体はそれほど複雑ではない、と思う。
第1章は友幸友幸による『猫の下で読むに限る』という小説内小説である。また、第3章の後半と第5章の後半は彼女にとっての「物語世界」のようなものと読める。イメージか、幻覚か、もっと身も蓋もない言い方をしてしまえば妄想か。
それらのパートにおいては、時系列が錯綜し、空間は飛び越えられ、発想が蝶の形となり網で捕らえられるなど、非現実的なことが起こる。
しかしそれ以外の、友幸友幸やエージェントの男目線のパートは、いわゆるリアリズムに則っており、非現実的なことは起こっておらず、時間的または空間的な矛盾やねじれは無い、と思われる。自分の見落としがなければ。
ただひとつ非現実性があるとすれば、友幸友幸の超人的な言語学習能力くらいだろうが、これも小説設定と考えればむしろ控えめなくらい。
「無活用ラテン語」や「ジュカ語」など、登場する事物も現実に即しているようだが、「ミスタス」という地名だけは現実に存在しない架空のもので、検索したところ元ネタはオンラインゲーム『ウルティマオンライン』に登場する都市と推測されている。これは著者の遊び心と見るべきだろう。
エイブラムス(らしき人物)の性別が男→女→男と変化しているのも、友幸友幸の物語世界の中でのことなので食い違いはない。第2章の「子宮がんになった」という記述を信頼するのであれば、(小説『道化師の蝶』における)実際のエイブラムスの性別は女ということになる。
これらのことを踏まえると、この小説のストーリーは「友幸友幸という超人的な言語学習能力を持った人物が、自らの小説、あるいは物語世界を『書き換えていく』物語」として読むことができる。こう書くとそれほど複雑な話ではないように見える。まぁ、この結論に至るまでに、自分はこの小説のことを読み始めてから5日くらいかかったけれど。それもどこまで妥当かはわからないし。
このような入り組んだ構造の小説は、テクニカルなSFやミステリ小説に馴染みのある人であればスムーズに読めるのかもしれないが、文学に「人間」や「社会」を求める人にとってはなかなか受け入れがたいものであり、芥川賞選考員の間での評価が世代間で分かれたのもそのような理由なのかもしれない。
この小説にテーマのようなものはあるのだろうか?
芥川賞を受賞した当時は、着想やアイデアについて書かれた小説だ、と言われていたらしい。
自分としてはもっとシンプルに、著者である円城塔にとっての「小説の書き方」がテーマであるように感じた。
創作を創作論として解釈するのはベタすぎてあまり意味がないのかもしれない。優れたマンガはマンガ論として読めるし、優れた映画は映画論を含んでいると鑑賞できる。小説もまた同じ。
しかし例えば第3章の、友幸友幸の手芸の作り方、あるいは物語の書き方についてのくだりは、特異な小説を書き続ける著者自身とダブって見える。(自分はあんまり読んでこなかったけど。)本人にとっては自然なやり方なのに、世間からはズレているらしい、という感じが。
あるいは各章が小説の創作の過程に対応しているのではないか、という読みも自分の頭には浮かんだ。
- 第1章:着想
- 第2章:文体の選定
- 第3章:実作
- 第4章:推敲
- 第5章:読者による「読み」と、新たな着想
みたいな感じで。ちょっとこじつけがすぎるだろうか。
だとすると、友幸友幸がレポートを読んで「呪い」と感じたように、このブログ記事みたいな分析的な読み方もまた、著者にとっては「呪い」になるのだろうか。だとしたら申し訳ない。まぁ、考えすぎだと思うけれど。
本作にはさらなる着想が埋まっている。たとえば第4章の「繰り返し語られ直すエピソードが、互いに食い違いを見せるたび、文法の方が変化していく言語というのは無いものだろうか?」という部分。
実際にそんな小説が可能なのか? あるいはこの『道化師の蝶』小説がそのようなものを意図して書かれたものなのか?
流石にそこまで話が複雑になると自分にはもうお手上げ感がある。本作にしても、もうちょっとわかりやすく書けたんじゃないの? と正直思う。でもこの書き方が著者にとって必然なのであれば、読者としてはそれを受け入れるしかない。
それに、ただ複雑なプロットで読者を煙に巻くだけの書き手ではないことは、(自分はあまり追えていないけれど)その後の著者の活躍が証明しているだろう。次は『屍者の帝国』を読みたいと思う。
アメリカ 村上春樹と江藤淳の帰還 / 坪内祐三
サブタイトルの「村上春樹」に心を引かれてたまたま手に取った本。開いたら『ライ麦畑でつかまえて』の話をしており、ちょうど自分が『赤頭巾ちゃん気をつけて』を読んだばかりで、『ライ麦畑』について考えていたところだったので、読んでみようと思った。
『風の歌を聴け』で村上春樹に心酔した本書の著者の坪内祐三。その後、小説作品は追わなくなったものの、村上春樹によるフィッツジェラルド『偉大なギャツビー』の翻訳を待望していたという。
しかし村上春樹が翻訳したのはサリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』。それはなぜか? というのが本書の前半の章の執筆動機であるように思われる。
まず本書冒頭では意外な事実が明かされる。村上春樹は元々『ライ麦畑』があまり好きではなかった。作家デビュー直後のインタビューであまり好意的でない発言をしていたのである。
サリンジャーはつまんない。それにしても、今のアメリカ文学ってのは、どっちかっていうと日本の純文学に近づいてるんじゃないかって気がする。とくにユダヤ人作家ね。ソール・ベローとか……面白くないですね。
(『カイエ』一九七九年八月号インタビュー「私の文学を語る」より)
近年はさすがにここまであけすけな言い方はしていないが、『ライ麦畑』翻訳の経緯について語った対談『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』の中では「はまったというわけではない」が、「不思議と心に深く強く残ってる」という形容で『ライ麦畑』を読んだ時のことを回想している。
しかし2003年に翻訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を発表している。そこにどのような心境の変化があったのか?
村上春樹は1991年にプリンストン大学に客員教授として招かれ、初めてアメリカで生活することになった。著者は、その経験が『ライ麦畑』への態度に変化を与えるきっかけになったのではないかと推察する。
『ライ麦畑』のことをかつて村上春樹はブルジョア的であると批判した。つまりその作品の風俗小説的な部分に二十代三十代の村上春樹はたぶん心ひかれながらも反発した。
そういう彼が四十を過ぎてアメリカに長く暮らし、「現実」のアメリカを知ったのち、「一人の男の子の内面的葛藤」、「オルターエゴ」を描いた作品として『ライ麦畑』を再発見し、その作品を新訳する(それはまた、豊かなモノにかこまれた日本の若者たちの内面が、ホールデンを必要としたかつて(原文は「かつて」に傍点)のアメリカの青年たちの内面に追いついたことへの作家的直感であるのかもしれない)。
(「アメリカ 村上春樹と江藤淳の帰還」坪内祐三)
その村上春樹の変遷と、文芸評論家、江藤淳のアメリカ滞在の経験及びその変遷を対比するのが本書の構成となっている。
村上春樹は映画や小説、音楽を通して、現実からの「逃避空間としてのアメリカ」のようなものを描いていた。現実のアメリカに接したことで、幻想としてのアメリカは壊れたかもしれないが、作家としては新たなステージに進むことになった。というようなまとめかたは図式的過ぎるかもしれないが、そのような視点で見ると村上春樹文学の「デタッチメント」から「コミットメント」への流れも見通しが良くなるかもしれない。
一方江藤淳は、敗戦を通してアメリカに対して(複雑な感情、という本来の意味での)コンプレックスを抱いていたが、アメリカに暮らしたことで「幻の日本」を発見した、と著者は語る。
そして最後の章「村上春樹の新訳『グレート・ギャツビー』・小島信夫の死・大江健三郎」では、2006年の新訳『ギャツビー』について書かれる。素晴らしい翻訳だった、とストレートに激賞している。
かつてアメリカ文化は日本人の憧れだった。なんで自分たちが戦争に負けた国に憧れるの? と、今の子どもたちは思うのだろうか。いや、そもそも日本がアメリカに負けたことを知らないだろうか。
かく言う自分は、アメリカ文化へのあこがれの「残滓」というか「余波」というか、そんなのようなものを吸って育ってきた世代だ。
映画といえばハリウッド映画、音楽といえばアメリカのロックやポップスが主流。そういう空気がまだ残っていた。
アメリカの文化を取り入れることがある種の日常だった。その意味でもはやそれは「憧れ」では無くなっていたのかもしれない。戦後に生まれた「憧れ」という莫大な熱の予熱。あるいは激しい運動の後の慣性。
今はどうだろう?
若者文化は確実に内向き、ドメスティックになっているように見える。インターネットやSNSによる情報の氾濫。日本の経済的斜陽。アメリカの政治的混迷。などとそれらしい理由を分析してみることもできなくはないが、しょせんは俗流分析に過ぎない。
とはいえ、もちろん未だに日本の対米従属はまだ続いている。対米従属。慣れない言葉を無理して使っている。
江藤淳という人は、後世のただの読書好きである自分からすると、「日本の文学はオワコンだと言ってどこかに行ってしまった人」という印象がある。「じゃあその後生まれたオレたちはどうすりゃええねん」という気持ちになる。実際はそんな人ではないのかもしれないが。
同時に彼自身が対米従属によって発したひとつの症状であったようにも見える。っていうかそんなようなことを誰かが言っていた記憶がある。加藤典洋だったか。
戦後の日本には対米従属という「大問題」があって、そのことについて喧々諤々議論をしていたが、それは今の視点で見ると精神性の問題であって、「このままアメリカの言いなりでいいのか」というプライド、自尊心の問題であったようにも見える。
翻って今の日本には、もっと物質的にのっぴきならない問題が押し迫ってきているように見える。様々な問題を対米従属に一元化することは到底できないような諸問題が。
しかしだからといって、かつての「対米従属という大問題」が、現代に生きるわれわれにとってどうでもいい、とはもちろんならないだろう。どんな時代にもその時代の問題があり、真剣に悩んでいるわけで。
例えば80年代には「ブルジョアの憂鬱」の話に見えていた『ライ麦畑』が、00年代になって別の意味を持つように、そこから新しい意味を見出すこともできるだろう。
未知との遭遇 / 佐々木敦
最近、読みたい本が見つからない。読むべき本がわからない。いや、本当は常に本に迷い続けている。いつも行き当たりばったりだ。
じゃあいろんな本の末尾にリストアップされている「参考文献」を、自分も参考にすればいいんじゃね?
と考え、参考文献を全部メモアプリ(正確に言うとアウトライナーアプリ)に書き写してみることにした。
その一冊目として選んだ千葉雅也『勉強の哲学』の参考文献に、本書『未知との遭遇』が含まれていた。
「お、佐々木敦じゃーん」というわりかしカルい気持ちで本書を手に取り読み始めた。
決定論とはなにか。
例えば、あらゆる物理運動に因果があることを認めるのであれば、あらゆる物質の運動はすでに決定されており、そこに例外はないことになる。
この世の出来事は、超大量なミクロやマクロの要因によって生じているだけで、本質的には木からりんごが落ちるのとなんら変わりない。
人間には意志があり、それによってものごとを判断しているが、(唯物論を採用するのであれば)それらも全て物理的な作用に過ぎず、決定された物理運動に変更を加えているわけではない。意志もまた、決定された物理運動に含まれているからだ。
それが決定論。少なくとも物理的観点から見た決定論とは概ねそのようなものと言っていいだろう。
そんな決定論にどう向き合うべきか。
最も穏当な考え方は「そんなこと考えてもしょうがない」だろう。
全てが決定されていたとしても、人間のスケールでは決定された内容を知ることは到底できない。
もし意志すら決定されたものだとしても、現に自分の感覚として意志というものがあって、それで問題なく生活できているんだから、決定論について考えても大した意味はない。
そんなふうに考えるようにしている。少なくとも自分は。
しかし本書の結論はそのような穏当な事なかれ主義とはある意味で真逆の態度をとる。
- すべてが決定されているからこそ、前向きに生きよう。
本書の結論を1行にまとめるならばこういうことになると思う。
- すべての過去は、そうでしかありえなかった過去だ。「もしも」などない。だから起こったことは全て肯定しよう。
- そうとわかっていても、人間はどうしても後悔してしまう。だから後悔は優しく受け止めよう。
- 未来もまた決定されているが、未知である。未知を楽しもう。
3行でまとめるならこのようになるだろう。
「全部が決まっているなら、何を考えても無駄なのでは?」という意見に対しては本文中で反論している。端的に言えば「その無力感すら決定論に含まれているので、その無力感自体に意味がない」ということになる。
「因果とは無関係に、例外なくすべてが決定されている」という、最も強固な運命論、すなわち本書で「最強の運命論」と呼ぶものから導き出されうる無力感を反転し、むしろポジティヴに転換する。それが本書の試みだと言えるかもしれない。
これは一種の人生観であって、自己啓発的ですらあることは著者も認めている。
読後の第一印象としては「決定論は人間のスケールを超えているのだから、そこから人生論を抽出したとしてもなかなか受け入れるのが難しいのではないか」という感触があった。
しかし読んでからしばらく経つうちに、「知的に厳密に考えれば決定論を採用せざるを得ないのであれば、それを軸に生き方を考える方が知的に誠実なのかもしれない」とも思うようになった。
ともあれ本書はその結論に至るまでに、様々な議論を通過する。
インターネットが可視化(捏造?)した無限の情報と、それによって生じた学ぶことの困難さ。「おたく」から「オタク」への変遷。偶然論。運命論。可能世界。シャカイ系がセカイ系の一部であること。自己を多重にすること。インプロヴィゼーション。どれも興味深い議論だ。
それぞれの議論があまりに面白いので、本の全体をメモアプリに要約してしまった。1段落→1行くらいの割合で。3日がかりで。
無限後退を「適当なところで止める」という考え方は、まさに『勉強の哲学』に通じている。
それらの議論は本書全体の結論と確実に響き合ってはいるが、結論を補強し説得力を増していると感じたかいうと、個人的にはハッキリYESと言い切れないところはある。今のところ。
それは決定論や偶然論に対して「それって人それぞれの考え方の問題じゃないか」という認識が自分の中にあるからだと思われる。こういう考え方をポストモダン的と言うのだろうか。
「全ては決まっているので、過去は受け入れて、未知なる未来を楽しもう」という考え方は魅力的だが、論理的および感覚的に納得するのには時間がかかるのかもしれないし、そもそも納得できるのかどうかもわからない。結局のところ「ノるかノらないか」の問題でしかないのかもしれない。
しかし少なくともそのポジティヴさは積極的に取り入れていきたいと感じている。間違いなく。
インプロヴィゼーションとしての生。それは自分を可能な限りマルチプルに鍛え上げながら(もちろんその前に自らのマルチプルさに気付くという段階があります)、「諸現実=諸虚構」の無数のヴァージョン、すべてが正しいヴァージョンの不断に寄せ来る波として、絶えざる「未知」としての次の瞬間を、限りなく微分してゆくこと。そして過ぎ去った時間に対しては、あの「最強の運命論」をもって、力強く肯定してゆくことです。それはUNKNOWNをMIXしながら生きることでもある。「アレ?」と言えること、「吃驚」できることでもある。そうすれば、われわれの世界はセカイでもシャカイでもない、真のアドベンチャーワールドとしての正体を露わにし、僕たちの人生はゲームなど比較にならない、めくるめく冒険としての姿を覗かせることでしょう。少なくとも僕は、そのことを確信しているのです。(「未知との遭遇」)
赤頭巾ちゃん気をつけて / 庄司薫
佐々木敦による、日本文学史を解説する本『ニッポンの文学』を当面のブックガイドとして読書していこうと思いついた。
その中で最初に解説されるのが村上春樹であり、その次が本作『赤頭巾ちゃん気をつけて』だった。
村上春樹はほぼ全作読んでいるので、庄司薫を読むことにした。
村上春樹より以前に、語り手の主語に「ぼく」を用い、砕けた口語調の小説を書いた、という文脈で紹介されることが多い本作。
逆に言うとそれ以外の文脈で日本の文学史に位置づけられることがあまり無いように見受けられる。『ニッポンの文学』においてもだいたいそのような扱い。
読む前の、個人的な本作に対する印象も、あまり良いものではなかった。サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて(特に野崎孝による訳版)』との類似が指摘されていたから。
実際に読んでみると、これはもうほとんどパロディレベルで『ライ麦畑』に似ている。
ただ語り口が似ているだけでなく、登場するモチーフが共通しまくっている。成熟を拒否する少年、性的な危機、友人との葛藤、そして最後は幼い子どもに救われる。似ていないという方が無理がある。これを「似ていない」と言っていた一部の昔の人は、ちゃんと両方の小説を読んだんだろうか? という疑問すら湧いてくる。
とはいえパクリ=悪と短絡的に言いたいわけではない。ある作品が過去の作品に影響を受けるのはごく当たり前のことだ。あくまで語り口とモチーフが似ているだけで法律上の模倣にも当たらないだろう。『ライ麦畑』にしてもチャールズ・ディケンズの『デイヴィッド・コパフィールド』への目配せが含まれているという説をどこかで見たことがある。模倣とは全く話が異なるが。
例えばアメリカンコミックスには「スパイダーマンが日本に生まれていたら」みたいなスピンオフ作品がある。本書も「もしホールデン・コールフィールドが日本に生まれていたら」という作品として読めば興味深いし、流行小説になったということはそのような精神性の作品が日本人に求められていたとも考えられる。
ただ当の作者が「ライ麦畑」から影響を受けた事実を一切認めていないという点には、個人的にどうしても拭えない不信が残ってしまう。それこそ村上春樹は「ライ麦畑」含め様々な影響を受け、翻訳などもしており、その影響を認めている。大ヒット作の「美味しいところ」を持ってきた小説を書くなんてことも(おそらく)していない。
もうひとつ、本作には「隠されてること」がある。それは作中に登場する「先生」に丸山眞男という明確なモデルがいること。2012年の新潮文庫版の解説などでは明かされていることだが。作中で急に「荻生徂徠」なんかの名前を出てくるのもその影響であるようだ。
当時東大教授だった政治学者の丸山眞男は日本政治思想史において多大な業績を挙げたものの、1960年代後半になると全共連の学生、つまり本作に登場するような「ゲバ棒を持った学生運動家」に激しくバッシングされるようになったらしい(Wikipedia情報)。そして本作の作者は丸山眞男の下で政治学を学んだそうだ。
そう考えると1969年に発表された本作は、丸山眞男的な思想(「自由で伸びやかな知性」がどうのこうの)を擁護し、応援するための小説なのではないか、と思えてくる。自分は丸山眞男の思想には明るくないのでハッキリしたことは言えないけれども。
では本作は具体的にどのような小説なのか。
まず間違いないことは「エリートの苦悩」を描いたものであること。
当時東大進学率トップクラスだった日比谷高校に通う主人公の「ぼく」こと庄司薫(作者の筆名と同じ)。東大が学生運動の影響を受け入試受付中止になってしまい、進路に悩んだ彼は、大学自体に入ることをやめようと考えるが、それを周囲に打ち明けられずにいる。
彼のエリートぶりは目を見張るばかりで、まず幼馴染の由美との最初の会話が古代ギリシャの哲学者エンペドクレスの死についてであることからも、そのインテリぶりが伝わってくる。将来は大蔵省(現在の財務省)あたりに行くのではないか、などと周囲には目されている。
由美との関係は喧嘩をしながらも良好であり、そんな中で近所の女医には誘惑されたり、当時流行のいわゆる乱痴気パーティーに出かけたりするも、なんとなく幼馴染への操を立てるような気持ちになり女性経験は無し。まるでギャルゲーの主人公。
裕福な家の5人兄弟の末っ子で、家にはお手伝いさんもいる。両親も比較的進歩的な考えを持ち、これといった抑圧もない。
しかしこのままエリートの道を邁進するだけでいいのか? と悩み続ける。決められたレールに乗るだけでいいのか。それよりももっと自分を世の中の役に立てる方法があるんじゃないか。
「先生」のような「本当の知性」を持った人間になるのもいい。ゲバ棒を持った学生たちも時にかっこよく見える。何もかもを憎んで壊してしまいたくなる時もあるし、全てを守れるような強い力が欲しくなる時もある。
そのような若者の心の動きを描いた小説としては、確かに本書は優れていると思う。軽妙な語り口と相まって当時の流行小説になった理由もわかる。
その語り口についてだが、現在の感覚で言えば冗長で読みにくいと感じるかもしれない。
中公文庫の解説によると固定電話が普及した「電話世代」の語り口らしいが、現代のスマホ世代の若者は言葉遣いもタイパ(タイムパフォーマンス)が命。「それな」「りょ(了解)」「~まである(かもしれない)」「あーね(あーなるほどね)」「とりま(とりあえずまぁ)」など、どんどん言葉が短くなっている。それももう古くなっている気もするけども。
そんな「ぼく」が本作でたどり着いた結末に関しては、読者である自分としては大いに懸念せざるを得ないものだったりする。
自分の解釈が間違っていたら申し訳ないのだが、本作で「ぼく」が出した結論は「知性の正しい使い方は、幼い子供を助けたり、幼馴染を守ったりすることで、そのために自分は大きな男にならなければいけない」というようなものだ。
あまりにマッチョ思想が過ぎないだろうか。
昔の小説だからしょうがない、と思うかもしれないが、じゃあ夏目漱石や太宰治がそんな小説を書いたかと言うともちろんそんなことはない。どちらかというと「強い男」がもてはやされたのは戦後世代に顕著な傾向なのではないかと自分は考えている。
昔、といっても平成後期頃の話だけれど、懐古趣味の家族が加山雄三の「若大将シリーズ」や石原裕次郎の「嵐を呼ぶ男」のような映画をよく観ていた。その空気感に似たものを、この小説からも感じた。
「主人公がマッチョだからダメ」などと短絡的なことを言いたいわけではない。四部作の一作目である本作は、そんな「ぼく」のマッチョがどのような推移をたどるのだろうか? というところで終わる。続きを読めばその末路がわかるのかもしれないし、わからないのかもしれない。
しかし少なくとも本作のネタ元である『ライ麦畑』が、イノセントな人がイノセントゆえに敗北していくような物語だったことに比べると、本作のテーマはそれとは対象的なものであるように思える。
なんなら「丸山眞男の思想ってそんなにマッチョなのか?」とすら思えてしまう。サリンジャー的な軽妙な語り口によって丸山眞男の思想を大衆に布教することが本作の企図だったのではないか? と邪推してしまったりもする。実際どうだかわからないけれども。
ついでに言えば、著者自身のあとがきや文庫版の解説者の語り口から、「世の中は全然ダメで、頭の良い自分はそれがわかっている」みたいな古き悪しきエリート意識がにじみ出てしまっているように感じられるのは自分だけだろうか。
1980年代頃まで大学生の愛読書だったらしい本作だが、昨今ではそのような扱いも無くなったらしい。とはいえ、昔はこういう小説がもてはやされていたんだな、ということを知る意味では読む価値はあるだろう。
方舟さくら丸 / 安部公房
安部公房の小説。第一印象だけで言うならば、やや読むのが苦痛な小説ではあった。あまり必要性の無い冗長なシーンが多かったように感じた。
しかし最後まで読み通すことで、相応の深みや重みを感じた。人間の実に嫌な面。そして結末に向けて集約されていく因縁。そういったものを描いて印象深い小説だった。
「もぐら」を自称する男は、採石場の跡地である洞窟を核戦争から生き延びるための「方舟」と称し、シェルター化している。
方舟の乗組員としてデパートの見本市で出会った「昆虫屋」、その「サクラ」と連れの「女」を(半ば偶然的な形で)勧誘するところから物語は始まる。
小説発表当時の昭和59年(1984年)は東西冷戦下。核戦争の脅威が今よりもずっと庶民的なものだったらしい。
しかしだからもぐらが本心から核戦争の危機に備えていたかというと、それは限りなく怪しく見える。彼は違法な化学物質や動物の死体などを、採掘場にある便器に流す仕事を秘密裏に行って生計を立てている。要するに不法投棄である。ならず者の昆虫屋やサクラの目的も、方舟を隠れ家として利用することにあると見える。
そのことを仲間の誰もが半ば公然に認めつつ、同時にあくまで「核シェルター」という体裁を保ち続ける。傍から(読者から)見れば自己欺瞞であり、端的に言ってちょっとイカれた人たち、少なくともはみ出し者であることは間違いない。時に滑稽ですらある。
じゃあ今現実に生きている我々がそのような二重の見解、見当識を持っていないか、というとそんなことはない。明日死ぬかもしれないのにそのことを忘れて生きている。なのに賞味期限が切れた納豆をおっかなびっくり食べたりしている。だから本作の登場人物の滑稽さは読者自身にも返ってくるものだ。
もぐらの数々の「童貞ムーブ」も同様で、口では大層なことを言うくせにその妄想はエロ漫画(当時の言葉で言えば「ポルノ」だろうか)じみていて、そのギャップが良い意味での小説的「嫌さ」を産んでいる。
女は女で、おそらくならず者としての処世術としてもぐらの童貞心を刺激する。現代エンタメ作品では有り得ないキャラ造形だが、おそらく「昭和だから許された」というようなものでもないと思われる。嫌だなぁ、この人たち。
ユープケッチャという昆虫(昆虫屋が商売のためにでっちあげたと思しき)の称揚には、もぐら自身の自足的な生への憧れ、シェルターというものへの憧れがにじみ出ている。
それらのことが明らかになるのが終盤での「副官」との対面。もぐらが持つ固執をより肥大化させ(生存者の選別、女子中学生狩り)、実際的にし(「ほうき隊」という実働的組織)、前時代的にした(軍人的なふるまい)ような存在。それが副官だ。
方舟という閉鎖空間の中で、副官という己の鏡像と出会ったもぐらは、そこから脱出しようとする。なんだか神話的だ。自分は村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を想起した。
あるいは『箱男』や『砂の女』など「閉じこもっていく物語」を描いてきた著者からすれば、今までにない新たな方向性だったのかもしれない。安部公房はあまり追っていないからわからないけれども。
「方舟さくら丸」という、日本を象徴する花のさくらを冠したタイトルには「日本版ノアの箱舟」といった響きがある。
しかし実際は「もしサクラ(登場人物)がリーダーになったらこの船は『方舟さくら丸』になるだろう」という話題としてチラッと出るだけで、読者は肩透かしを食らった気分になるかもしれない。その肩透かしも読後は登場人物たちの自己欺瞞にふさわしいものに見えてくる。
さくら(花)とサクラ(客のふりをして買い物し、他の客を誘導する)をダブルミーニングにしたあたりに、作者の日本的なものへの当てこすりのも感じられる。「オリンピック阻止同盟」なるものも登場してくるし。あるいは当初はサクラをリーダーにするストーリー構想があったのだろうか。
もぐらを長年煩わせていた父「猪突(いのとつ)」は終盤で突然退場してしまう。その死の詳細も物語的な意味も明かされないまま終わってしまう。ここはさすがにちょっと消化不良感があった。
果たしてもぐらがいなくなった後の方舟はどうなるのだろう? 仲間割れをして自滅か。あるいは出口を見つけて悪の巣窟になるか。まぁきっとロクなことにはならない。
作中に立体視を出すなど(ちなみに自分は平行法が苦手なのであまり上手く視えなかった)、全体に著者の趣味が反映されており、そこにどこまで付き合えるかで本作の楽しさは変わるかもしれない。
しかしそういった要素を抜きにしても、本作が投げかけてくるものには普遍性がある。人間の嫌さを見せてくれる。今もどこかに現代の方舟さくら丸があるんじゃないか、と思わされるし、誰の心にもユープケッチャがいるんじゃないかと思わされる。