ラジオ番組『アフター6ジャンクション』をきっかけに読んだ小説『君のクイズ』の作者で、最近は文芸誌などでの活躍もよく見かける小川哲が、小説についての本を書き、話題を呼んでいるらしいので、読んでみた。
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「面白い小説とは何か」。それが本書の「小説思考」の中心にある。どうすれば面白い小説を書けるか、についてひたすら考えていく。
本書には、僕が小説を書く時に考えていることを可能な限り言葉にしてみよう、という試みの軌跡が記されている。[『言語化するための小説思考』小川哲」
でもそれは、どんなテクニックを使えば小説を面白くすることができるか、というような、いわゆる技術論ではない。そのような”小説の技術的な側面”を、著者は”「読者の動物的なバグを利用したハッキング技術」”みたいなものであると(各方面に気を使って小文字で)書く。
ハッキング技術とはどんなものか。たとえば「ハリウッド映画の脚本術」みたいな本に書かれている方法論だとか、あるいは今どきの例では「ついリンクをタップしたくなるSNSのポスト」とか「扇情的なYoutubeのサムネイル」とか、そういうもののことだろう。そしてそこに「小説の面白さの本質」はない、という。
とは言うものの本書は、「小説の面白さの本質」とはどういうものかについて、あまり積極的にハッキリと語ってはいないように感じられる。スタンスとしては、自分はこんなことを考えながら小説を書いています、という程度に留められている。
著者にとっての「小説の面白さの本質」はまだ仮説段階であって、今後の作品の中で実践したいと考えている。そんな印象を受けた。若干の物足りなさは残るけれど、書き手としての誠実さを感じられる。
たとえば8章「なぜ僕の友人は小説が書けないか」では、友人が教えてくるアイデアが小説で使えないのは、専門性が高すぎるか、発想が陳腐すぎるかのどちらかだ、と割とバッサリと切り捨てる。
そして小説に必要なのは「アイデア」ではなく「問い」であり、書くことを通して考えたいことはなにかを考えることだ、と語る。あらかじめ答えを用意し、それを小説化にするのではなく、書きながら答えを探していけ、というほどの意味だろう。よくわかる。自分はそういう小説のほうが面白く読めることが多い。
他にも本書には「小説の芽」とでも呼ぶべき「思考」があらゆるところに植えられていて、小説に触れている人ほど面白く興味深く読めるだろう。
特に繰り返し語られるのが、小説を読んでもらうためには読者を意識することが大切、という話。
小説に限らず、(他者に読まれることを前提として書かれた)あらゆる文章表現に共通しているのは、その文章に価値があるかどうかを決めるのが「他者」という点である。文章は「他者」のため、より正確に言えば「作品のため」に書かれるべきであって、自分を大きく見せるために書かれるべきではない。[同前]
そして書くこと、あるいは表現することは、読者という「他者」とのコミュニケーションである、と。
手がかりは、芸術という営為が「ある情報を他社に渡し、受け取った他者が自分の認知として展開することである」という点にある。そう、芸術はやっぱり「コミュニケーション」なのだ。[同前]
気になる点は10章で「小説ゾンビ」という言葉を使っていること。
面白い小説とはなにか。それを探し続けるうちに、いつの間にか小説ゾンビになっていた、と著者は自認している。小説ゾンビとはなにか。それは小説を書いたり読んだりする上で”「自分の価値観」”を捨てた状態のことだという。
「自分の価値観」を捨てると世界がどう見えてくるか。
実は、それほど大きな違いはない。僕が「自分の価値観」を捨てたところで、設定が奇抜なだけで中身のない、紋切り型の表現ばかりで構成されたペラペラの小説が売れていて、完全に新しくて、その人じゃないとできない本物の表現で最後までダレることなく走りきった傑作が全然売れてないことに変わりはない。ただ、大きく違うのは、「まったく腹が立たない」というだけでなく、むしろ「めちゃくちゃ興奮する」という点にある。[同前]
なぜ興奮するか。それは自分の中にある”本物の傑作”が上で”ペラペラ小説”が下という価値観を捨てれば、”自分の知らない「小説」”を発見できるかもしれないからだ、と話は続く。
かつて著者は『恋愛リアリティーショー』番組を好む人の心情が全くわからなかったそうだけれど(ちなみに自分もそうだった)、小説ゾンビになってからは、”自分には何らかの価値観が欠落しているせいで、『恋愛リアリティショー』を楽しむことができない”と考えるようになったという。そこに”まだ知らない「小説」を探すチャンス”があるかもしれない、と。
自分も最近は色々なものに対して「まぁ、そういうのが好きな人もいるわな」くらいに考えられるようになってきたけれど、それを積極的に「小説を見つけるチャンス」と捉えていることにプロのスゴ味を感じた。
それにしても「ゾンビ」という表現は強烈だ。
自我を持たず、食欲のみに任せて歩き回る。それが本来のゾンビだ。実際は、走り回ったりしゃべったりするゾンビ作品が年々増え続けているにせよ。
著者は”僕は小説を書くのが楽しい”と書いているけれど、ふつう、楽しいアクティビティに打ち込んでいる状態をゾンビにたとえるだろうか。
小説にとってたとえること、つまり比喩は、小説と現実を繋ぐための重要な紐帯、ロープみたいなものなのではないだろうか。事実、著者はその前の3章で、自分の知らない「ベンチャー企業業界」の事情を、自分の知っている「小説業界」のパターンを知らない分野に当てはめて考えてみること、つまりたとえることの実例を示している。
つい先日たまたま読んだ高橋源一郎『一億三千万人のための小説教室』では、様々な内容の小説を読むことを「ボールをキャッチすること」とにたとえて、「いろいろなボールをキャッチするほど、心がやわらくなる」と書いていた。遊びの比喩で小説の楽しさを表現していた。
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ゾンビという言葉が、現在の著者にとって、精神的あるいは肉体的な実感に最も近い比喩だとしたら、そこに「世の中ってしょーもないけど、しょーもないことにはしょーもないなりの理由があるので、自意識を捨てて、しょーもない側の立場に立って考えてみましょう」くらいの実感を読み取ってしまうのは、うがちすぎだろうか。
ついでに言うと、他の章に関しても、小説をわかりやすく書く方法について書く著者の語り口に、どこかしら冷めた印象を受けてしまうのは、自分の読解の過ちだろうか。
本書を読んで、たとえば小説家を目指して目をキラキラ輝かせている若者が「よぉーし、じゃあ自分も明日から『小説ゾンビ』目指すぞっ!」と考えるだろうか?
と、考えてみて、いや、多分そういう人もいるだろうな、と思った。なぜなら自分もどちらかと言えばゾンビ側の人間だから。
かつて自分は友人に「世の中ってクソみたいなやつばっかりだよな」というようなこと言われたことがあった。
グズなのでそのときは曖昧な返事をしてしまったのだけれど、後々になって色々考えた末に、「いや、そうじゃない。本当はみんな『自分がよくなりたい』と考えているし、自分がよくなるためだったら『他人をよくしたい』とすら考えている。でもそれぞれの『よくなりたい』がぶつかりあうから、世の中はクソみたいになってしまうのだ」と考えるに至った。
その考えをもっと押し進めていれば、自分も小説ゾンビになれたんだろうか。わからない。わからないけれども、そういう「ひねくれた前向きさ」(流行りの言葉で言う「冷笑系」だろうか)みたいなものを持っている人は、少ないけれど確実にいるし、それは未来に希望を持ち辛くなっている現代社会(って自分が生まれたときくらいから言われてるけど)における、小説の駆動力のひとつになりうるのかもしれない。
でもまだ自分は小説ゾンビになりきれないな、と思うのは、著者があくまでも「わかりやすさ」を重視していることに対して少しだけ違和感があるから。自分の中の「小説に対する価値観」を捨てきれていないようだ。どういうことか。
作品を届けたい相手に対して、「過不足なく伝わるように(なるべく正確に)」、「無駄な時間を取らせないように(なるべく端的に)」、そして可能であれば「相手が自分に対して一切興味がないという前提で(なるべく相手のことを考えて)」、自分の話をする――というのが、「自分の言葉」と「自分のやり方」を見つけるための一つの手段になると思う。[同前]
読む人にとってわかりやすい文章を書くことが、「自分の言葉」、「自分のやり方」を見つけるひとつの方法になる、と著者は書く。それはなんだか「ネットで文章をバズらせる方法」としても読める。
それとは逆に、文章をわかりにくくすることに対しては”「十分に気をつけなければいけない」”と書く。ただしわかりにくいこと自体が「ダメ」なわけではない。わかりにくくてもいいから読みたい、と考えている人に向けて書くのであれば、わかりにくくてもいい。大事なのは「誰に届けたいか」を意識して書くこと、その「誰か」に届くように書くことだ、と、話が続く。
それをさらに短くまとめるなら、「想定する読者にあわせて『わかりやすさ』をコントロールすべし」というテーゼになるだろう。
個人的には、そうやってコントロールされた小説を読むよりは、「そのように書かれるしかなかった」と感じさせるような、書き手のコントロールを超えたような小説を読みたいと思ってしまう。
小説が、書き手のコントロール下にあることと、コントロールを超えること。実際のところ、そのふたつは共存可能なことなのかもしれない。というより、なにをコントロール下と捉えて、なにをコントロール外とするか、その線引きは原理的に不可能だ。
自分だってブログを書く時は、同じ内容を伝えられるなら、なるべくわかりやすい書き方をするようにしてる。ただし読む人のことはなるべく意識しないようにしている。そうしないと書き出すことができないから。緊張して両手両足を揃えて歩く人みたいに、文章がぎくしゃくしてしまうから。
でもだからといって作者に「この作品はウケるためにここをこうやってコントロールしてます」とは言ってほしくない。仮にそう考えてるとしても、そのことを読者に教えてほしくない。
でもそれこそが、本書の「まえがき」で書かれているような、著者が本書によって”徹底的に解体”しようとしているもの、すなわち”「小説家」という「神話」と、「小説」という「奇跡」”を、まだ信じてしまっているということなのかもしれない。作者にあまえてるのかもしれない。
小説ゾンビとは、そのような神話や奇跡をすっかり解体してしまった状態のことを指すのかもしれない。
ちなみに著者は「別に読者は小説ゾンビにならなくてもいい」ということまで書いてくれている。手が行き届いているというかなんというか。でもどことなく挑発めいたニュアンスも読み取れて、味のある文章になっている。引用しようかと思ったけどここはぜひ直接読んでほしい(116ページ)。
『君のクイズ』の作中には、かなり唐突に舞城王太郎『熊の場所』の話が出てくる。「クイズの回答を題材にした前代未聞のミステリ小説」というキャッチーなテーマの小説に、『熊の場所』というドチャクソ面白い、もっと評価されるべき小説(昔読んでmixiに感想を書いたなぁ)の話をこっそりまぎれこませること。それが著者なりの戦略なのだろう。
自分はそこに少々作為的なものを感じてしまった。はたしてそれで『熊の場所』を読む人は増えたんだろうか。あるいは映画版でもちゃんと言及されるのか。バッサリカットされたりして。
でも小説がどのように影響を及ぼすのかは、とても長いスパンに立ってみないとわからない。10年とか、100年とか。あるいは本書の中で何度か言及されるように、作者の意図とは違う「誤読」によって受け取り方が変容することもある。それもまた、書き手の意図を超えることの、ひとつのありかたなのかもしれない。
そう考えると、やっぱり小説はまず最初に読んでもらうことを目指すべきなのだろうか。あまえんなよ、ってことか。そうなのか。そうだよなぁ。
と、気がついたら、自分にとっての小説思考、つまり「面白い小説とはなにか」を自分なりに言語化してしまっている自分に気づく。これも著者の手のひらの上なのか。そんな恐ろしくも稀有な体験ができるかもしれないので、ぜひ読んでみて欲しい。