いしいしんじという作家の、自分の中でのポジション、というのがはっきり定まっていない。
といっても、彼のデビュー作である「ぶらんこ乗り」しか読んだことがないのだから、仕方がないのかもしれない。逆に言えば、それ以外を読もうと思うきっかけが、今まで無かったということでもあるんだけど。
ぶらんこ乗り/いしいしんじ - 思考だだ漏れノート
童話のような文体なのに、いわゆる文学と呼ばれるような作品と同じような深みを持っている、と読後に感じた。
しかし、その童話のような文体が、本当に小説的効果をあげているのかどうか、ちょっと疑問が残る。
と、自分で書いたものの、そもそも「小説的効果」ってナニ?という疑問も浮かぶ。
著者本人の必然性によって、童話的文体が選択されたのだろう、ということは、なんとなくわかる。
しかし、読む僕にとっての必然性はイマイチ感じられなかった。
だからといって、「よくわかんねーから普通に書けや!」と言いたいわけではないし、そんな権利は僕にはナッシングである。
僕が、「著者」の必然性を、いや違う、その「物語」が内在する必然性を、理解出来るか否か、あるいは身体でわかるか否か、という問題なんだろう。多分。
で、そんな状態でこの「いしいしんじの本」を読んでわかったことは、いしいしんじという人が、物語やことばというものを深く信頼している、ということである。
そもそも「ぶらんこ乗り」を書き始めたきっかけの一つが、幼少の頃に自分の書いた「たいふう」という物語、というか「おはなし」を改めて読み直したこと、なのである。
また、英語版「ぶらんこ乗り」の翻訳者であるボニー・エリオットが、ぶらんこ乗りを翻訳するきっかけとなったエピソードが、本書の中に出てくる。ちょっと引用。
ある日ボニーはニューヨークの地下鉄で、「いしいしんじ」の最初の長編小説『ぶらんこ乗り』の文庫版を読んでいた。目の前に大きな影がさし、本から視線をあげると、もとヒッピーなのか、ホームレスなのかわからないボロボロの男性が立っている。
「なあ、あんた」と男性はいった。「さっきからあんたの顔を見てるんだ。笑ったり泣きそうだったり、輝いたり。なあ、その本、そんなにおもしろいのか」
「おもしろいのよ」といってボニーは本のページをひろげてみせた。
「なんだ、その字は」男はいった。
「日本語なの」ボニーはいった。
「日本語!」男は目をきょろきょろとさせ、「そんなことば、いまからじゃとても身につかない。なああんた、あんたが英語に訳してくれよ。そしたら俺も、あんたと同じように笑ったり、泣きそうになったり、顔を輝かせたりできるだろ」
ボニーは笑顔でうなずいた、そして地下鉄をおりると、その足でまっすぐエージェントの事務所を訪ね、いしいしんじの『ぶらんこ乗り」を翻訳し、出版したいと申し出た。
いい話だと思う。すごくいい話だと思う。なんなら今すぐ「深いイイ話」に送りたいくらいである。あの番組見てないけど。
これが本当なのか「盛った」話なのかは置いておくとしても、いしいしんじという作家が、物語というものにいかに敏感なのか、ということが、本書を読んでよくわかったのである。
最初に読み始めたときは、なんとなく読み進めるのが大変だった。最初それは、単に僕が最近本を読んでいないから、読解力が落ちているせいだと思っていた。
しかし、中盤まで読み終わった頃に、読みにくかった理由がなんとなくわかった。
彼の文章は、視覚、聴覚など、五感に訴えかけてくる部分がけっこう多い。あるいは、彼が五感で本を読むタイプであり、本書が「本についての本」である為、文章が五感的になっている、という事情があるのかもしれない。
感覚的に読もう、というようなことを意識したところ、文章がすっと入ってきやすくなった気がする。気のせいではないことを願いたい。
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