「村上春樹訳のチャンドラーの長編作品」を先日すべて読み終えたので、次は「村上春樹訳のフィッツジェラルド作品」を全部読むことにした。
村上春樹訳のフィッツジェラルド作品は「村上春樹翻訳ライブラリー」という新書サイズのシリーズにまとめて出版されている。
- グレート・ギャツビー(2006年11月)
- ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック(2006年3月)
- マイ・ロスト・シティー(2006年5月)
- バビロンに帰る ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック2(2008年11月)
- 冬の夢(2009年11月)
- ある作家の夕刻 フィッツジェラルド後期作品集(2019年6月)
- 最後の大君(2025年10月)
の7冊で合ってるはず。*1。このほかに『フィッツジェラルド10-傑作選』という文庫本もあるけれど、これは既訳の中から傑作をまとめた「ベストアルバム」のようなものらしい。
ちなみに最近、シリーズ復刊の動きがある。『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』は2026年8月、『バビロンに帰る ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック2』は2026年9月に、表紙画を新しくしたバージョンが再刊行された(される)。写真から和田誠氏のイラストに差し変わっている模様。
最初の3冊を読了済みなので、次の『バビロンに帰る』を読んだ。と言っても、『グレート・ギャツビー』に関しては、最初に読んだのはめちゃめちゃ昔だし、このブログに感想も書いていないので、もう一度読み直してもいいかも。でも名作過ぎて荷が重いというかなんというか。他を全部読んだら最後に読もうかな。
実は本書は途中までは以前に読んだことがあった。冒頭から表題作の『バビロンに帰る』の1章くらいまでを読んで、そこで中断したのだった。実にもったいないことをしていた。理由は後で書く。
フィッツジェラルドによる5つの短編に加えて、訳者によるエッセイが1つ、そしてフィッツジェラルド作品集の編者がその序文として寄せた文章が収められている。
アメリカ南部に暮らす若者の身分ちがいの恋を描いた『ジェリービーン』。裕福で奔放な女性と、それにふさわしい「男」になろうとする男性、というテーマをフィッツジェラルドは繰り返し描いていて、それが実人生の恋愛を反映しているのは間違いないだろう。ひとつの恋の勃興とその儚い崩壊を、鮮やかに的確に、ひとつの短編に込めることに成功している。
続く『カットグラス』では、家庭を持つ一人の女性の結婚後から中年期までが描かれる。別れた恋人から贈られた大きなカットグラスのボウルが、なぜか彼女の身に降りかかる不幸の隣にいつもある。「呪われたカットグラス」みたいな題名で怪談話が作れそうなストーリー。しかしその筆致はフィッツジェラルドらしく、どこまでも美しい。この二つの全く異なるタイプの短編を二十代前半で書いたというのだからすさまじい。
『結婚パーティー』はそれから10年ほど後に書かれた作品。その間にフィッツジェラルドは妻ゼルダとのニューヨークでのパーティー三昧の暮らしを経た後、その「つけ」と言うべきか、アルコール依存症に苦しむようになった。そんな経験を反映してか、20代の頃の作品にあったようなロマンチックさは後退し、現実を生きる人間が感じる心の「苦味」のようなものが前景化している。元恋人の結婚パーティーに出席する男が主人公で、『ジェリービーン』と似たテーマが再奏されるが、「愛はお金で買えない(かもしれない)」という人間心理の妙が導く結末がビター。「出版社にハッピーエンドの作品を求められ続けた」という事情を知っていると、少々安直に感じてしまう部分もあるけれど。
そして表題作『バビロンに帰る』ではテーマが一転。放蕩生活から抜け出した男チャーリーが、親権を取り戻すため、娘を預かっている親戚夫婦に対して更生ぶりをアピールする話。しかし肝心なところで「過去」が彼に忍び寄ってくる。これまで「崩壊」の悲しみと美しさを描いてきたフィッツジェラルドが、本作では「なんとか生活を立て直そうとする男」を主人公に据えている。地に足がついている。泥にまみれている。そこには前を向いて生きようとする者が放つ、鈍いけれど確かな輝きがある。訳者が「A+の傑作」と評するのも納得。こんな傑作を、途中で読むのをやめていたなんて、自分はなんてもったいないことをしたんだろう。
小説としては本書のラストとなる『新緑』。ジュリアはハンサムなディックと結婚する。しかし彼は自らの放蕩と飲酒を断つことができず、豪華客船から身を投げてしまう。『バビロンに帰る』のチャーリーのようになりたいという気持ちと、『新緑』のチャーリーのようになるかもしれないという恐れ(と表裏一体の破滅願望)、フィッツジェラルドの中にはそのどちらもがあったのかもしれない。結局、彼は病に倒れるまで書き続けることを選んだわけだけれど。
エッセイ『スコット・フィッツジェラルドの幻影』は、フィッツジェラルドが1935年の夏、療養と執筆のため滞在したアッシュヴィルに、訳者の村上春樹が旅をした経験を記している。そこでフィッツジェラルドが交友を結んだトニー・ブティッタが、1974年に書いた回想録(下にリンクを貼っておく)を訳者は入手しており、それをベースにした記述の文量が多い。ずいぶんとあけすけな内容の回想録になっていて、フィッツジェラルドの女性関係や性生活にまで触れているけれど、彼の中の生真面目さと自分勝手さの両立の具合に、「らしさ」を感じてしまうのは確かだ。
本書の末尾となる『スコット・フィッツジェラルド作品集のための序文』は、フィッツジェラルドの死から10年後、文芸評論家のマルカム・カウリーが編纂した作品集に、編者自身が寄せた文章。1920年代、アメリカを体現する人物としてもてはやされ、そしてあまりに早い時代の変化によって急速に過去の人となってしまった作家が、いかにして多くの人に受け入れられ、またどれほど執筆に身を賭していたかを、情熱的かつ技巧的に綴っている。文章全体が、評論家から作家への、これ以上ないほどの最上級の賛辞となっている。
生真面目さと身勝手さ。相反する二つの性質が、フィッツジェラルドの人生を終生振り回し続けた。本書を読むとそんな印象を受ける。
勤勉に仕事に打ち込むことが人間の義務だと信じている。だからこそ多くの名作をものにすることができた。
でもその信念が、「酒を飲まないと仕事ができない、だから酒を飲む」という危険な観念と結びついてしまった。で、酒で理性のたがが外れて放蕩してしまう。
自分が頑張って仕事をして女を幸せにしてあげなければいけない、と考えている。ある意味で真面目ではある。前時代性を強調するためにあえて「女」と書いたけれど、確かに現代の視点からすればその発想は身勝手にも映る。ただし当時は女性の自立を社会がまだ受け入れていなかったことも考慮する必要がある。
『バビロンに帰る』の中でその庇護の対象が娘に向かうのも、ある意味でピュアではある。ただ見ようによっては、周囲の人を顧みず、ただ己の願望をぶつけているだけのようにも見えてしまう。単に娘を取り戻したいだけで、別に過去の放蕩生活そのものを悔いているわけではないようにも読めるし。
そんなフィッツジェラルドの作品を世間は熱烈に歓迎した。アメリカ的なロマンを体現する人物としてもてはやした。スコットは短編小説を書きまくり、ゼルダとの放蕩ぶりがゴシップネタとしてメディアを賑わせた。
でも彼の偉大なところは、その大いなる矛盾を誰よりも冷徹な目で見通していたことで、その矛盾が必然的に導き出す「崩壊」の悲しさと美しさを誰よりも優れた筆力で描き切った。それは『グレート・ギャツビー』などを読めばわかる。
さらに驚嘆すべきことは、彼の持つ冷徹な目線はデビュー時点で備わっていたということで、それは本書に収められた初期作品である『ジェリービーン』や『カットグラスの鉢』を読めばわかる。
じゃあなんで、フィッツジェラルドは自分が矛盾してるってわかってるのにそのまま突き進んだのか、と思うかもしれないけれど、それは人はみな矛盾した生き物だからだ、と言うしかない。人はみな、自分の行いが自分の不幸の元になっていることに、気づかずに、あるいは気づいていてもやめられずに暮らしている。そもそも、どうせ死ぬのに毎日生きていること自体が矛盾と言えなくもないし。
フィッツジェラルドは、誰よりも矛盾を生きて、そして誰よりも徹底してその矛盾を観察・記述した。彼の作品が今も色あせないのはそのためだろう。
何にも増して重要なのは、敗北に屈すまいとした彼の闘いぶりであり、その闘いから彼が勝ち得た「静かなる勝利」とでもいうべきものであるだろう。フィッツジェラルドは今では、ひとつの象徴や典型のような存在になっているわけだが、ただ単に一九二〇年代という時代の象徴や典型としてのみならず、最終的には人間の魂を、ひとつの永続的な形態において例証するような存在となり得たのである。[『バビロンに帰る ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック2』、「スコット・フィッツジェラルド作品集のための序文」]
*1:日付はライブラリー版の発売月

