rhの読書録

読んだ本の感想など

ほとんど記憶のない女/リディア・デイヴィス

 この本を手に取ったきっかけは、たまたま図書館で目に留まったとき、「確か『さよなら絶望放送』のタイトルで似たようなのがあったよな」と思ったという、ちょっと妙な経緯だったりする。目次を見てみると、「フーコー」「グレン・グールド」といった単語が並んでいて、面白そうなので読んでみることにした。
 読んでみると、いわゆる普通の小説とはちょっと違うということがすぐにわかった。強いて言えば短編集だが、内容はエッセイのようなものから、ほんの数行の思考の断片のようなものなど、一遍ずつスタイルが大きく異なっていて、つかみ所がない。
 だからといって、スタイルや技巧に頼り切った小説とも違う。子を育てる母親としての悩み、苦しみや、日常の中での宗教的、倫理的、道徳的な葛藤など、一人の人間としての著者を通した問題意識が透けて見える。
 どの短編にも共通しているのは、あくまでも冷静で、時に冷徹にさえ見える、客観的な描写ではないかと思う。それぞれの登場人物は、皆何かしらの問題や災難を抱えているのだが、それらが根本的な解決をみることはなく、破局か、さもなくば更なる苦しみの継続を予期させる結末となる。それらの苦しみは、なんのドラマ性もなく、ただ淡々と描かれるのみである。
 しかし、ただ終わるのではなく、物語が終わった後にも変わらず続いていく世界を含んだ終わり、になっていると感じる。それが救いである、と言っていいのかどうかはよくわからないが。
 もっとも感銘を受けたのは、「ロイストン卿の旅」という短編。訳者あとがきによると、この短編は、十九世紀初頭に実在したイギリスの若い貴族、ロイストン子爵をモデルとしており、彼が旅先から故国に書き送った手紙を元に書かれたらしいが、手紙の一人称を「私」から「彼」にそのまま書き換えただけのような文体で書かれていて、それだけでも、読んでいて異様な感じがする。
 ロイストン卿の旅はスカゲン岬の沖合の船上から始まり、スウェーデンのカールスクルーナ港を出帆したアガタ号の船上で終わるのだが、その途中、ペテルスブルグへ向かう間のそりでの移動中に、事故に見舞われる。ちょっとそこを引用してみる。

 凍結した川の上を進んでいく途中、御者が進路を見誤り橇が道を逸れ、馬が氷の薄くなった処を踏み割った。彼が寝ていた幌付き橇(キビッカ)は内側からは開かぬようになっていたが、御者たちは馬を助けることに気を取られ、彼を顧みなかった。一人の御者が斧を借りる為にプール(引用註:ロイストン卿の従者の名前)を起こした。プールが見ると車はすでに半ば水中に没しており、間一髪で革の覆いを外した。卿が書物机もろとも氷の上に転がり出た途端、橇は完全に沈んだ。馬が一頭溺れ死んだ。
 ペテルスブルグは祝祭の最中であった。川沿いに立ち並ぶ芝居小屋、氷の滑り台、長々と連なる橇の列、大勢の群衆、そして朝から晩まで続く街を挙げての仮面舞踏会など。

 なんてことはないように書かれているが、実際は紙一重のところで命が助かったという劇的な場面なのである。なのにこの書きよう。「馬が一頭溺れ死んだ」というだけでオシマイで、ペテルスブルグの描写に移る。
 描写が簡潔なのは、もちろん手紙を元にしているからだろう。しかし読んだ側としては、事の重大さと、描写の簡潔さとの落差に思わずハッとさせられる。そして、後になってから、凍ったロシアの川の寒気が、ぞわっと忍び寄ってくる感じがする。
 本書の「なんだかよくわからないけど惹き付けられる感じ」は、『ほとんど記憶のない女』というタイトルに体現されているのではなかろうか、と読後に感じた。ので、このタイトルが気になった人は、是非一度手に取って読んでみることをオススメする。