今まで志賀直哉が書いたものを読んだことがなかった。なんだか暗い私小説を書いている人というイメージがあったので。
本書を読んでそのイメージが改まったのか。志賀直哉を好きになったのか。というとまだよくわからない。
文章があまりにもスムーズであることは一読してわかる。日常的で自然な、いわば普段着の言葉を苦も無く使いこなし、微細な風景描写・心情描写をこなしている。
あまりに口語的すぎて、現代の自分には意味が読み取れないところがあったけれど、巻末解説で阿川弘之が似たようなことを書いていた。なんでも『暗夜行路』の中には説明が少なすぎて「今では何のことか、研究家ですら分からなくなってしまった表現がいくつかある」という。
その「引き算の美学」には、学びたいところと、学びすぎてはいけないところがあるように感じられる。
一方、私小説家らしいという点では事前の知識通りだった。
「城の崎にて」を読んだ後に、「瑣事」から続くいわば「不倫私小説シリーズ」を読むと、「動物が死ぬことには心を痛めるのに、妻を泣かせることにはなにも思わないのか、この男は」と、人によってはツッコみたくなるだろう。
それは必ずしも当時の男女観のせいではないと、自分には感じられる。当時だって愛妻家はいたし、当時だって罪悪感という感情はあっただろう。例えば志賀直哉の師匠である夏目漱石の作品の主人公たちと比べると、その「無神経さ」には天と地ほどの差がある。
不倫という行為を志賀直哉は(あるいは小説の主人公は)、とことんまで自分を突き放して見ている。そんな印象を受ける。あたかも自然現象を眺めるように、自分の欲と、その成り行きを見ている。
傍観。それが短編集である本書全体の基本姿勢だ。訓練で行軍中の兵隊が暑さで道で行き倒れていても、それを見て憤るだけだし(「十一月三日午後の事」)、猫が濠に沈められても事後的にそれを知るだけ(「濠端の住まい」)。死にゆく生き物をただ見つめ(「城の崎にて」)、妻が「文学者」に抱かれたら手持ちの小説集を焼き捨てて溜飲を下ろす(「雨蛙」)。
自分の人生を選び取ろうという「気合」みたいなものは、そこに見受けられない。
いや、それが悪いと言ってるわけじゃない。全然、ない。自分だって生まれてこのかた気合とか根性みたいなものとは無縁に生きてきた。そもそも気合に満ちあふれた人間は、自分みたいに100年くらい昔の小説の感想をチマチマブログに書くなんてことはせず、Youtuberを目指したり仮想通貨で一山当てようとしたりしてるんじゃないのか? 知らんけども。
志賀直哉のスゴイところは、自分自身さえすっかり突き放しきっているところで、その結果、不倫男が己の罪悪感を見て見ぬふりしようとしている様、精神分析用語で言うところの「否認」の様子を克明に描き出してしまっていたりする。「晩秋」の最後に、妻もようやく俺の人間性がわかってくれたか、みたいな感じで主人公が笑うところは、グロテスクですらある。
その否認の構造は、父の財産の恩恵を受けつつ、同時に父の拝金主義を否定した彼の精神構造とも関係があるのだろうか、などと考えたが、これは志賀直哉作品をほとんど読んでいない者としての想像・妄想にすぎない。
身勝手な小説があったっていい。むしろ人はみな多かれ少なかれ身勝手であるわけで、それを小説に書くのは、小説家として誠実な態度とすら言える。
気になる点があるとすれば、そのような小説を書く人に「小説の神様」という最大級の賛辞というべき称号が用いられたことで、たとえるなら太宰治のことを『走れメロス』一編だけを取り上げて「小説の英雄」と呼ぶくらい違和感がある。みんなちゃんと志賀直哉の作品を全部読んだんだろうか。まあその辺の事情は、一つの発言を切り取って「炎上」する現代と、あんまり変わりないのかもしれない。
普通の感性があれば「小説の神様」などと呼ばれたら「自分はそんな大層な者じゃない」と言いそうなところだけれど、そのことについて志賀直哉はどう対応したんだろうか。特になにもしてなさそう。それこそ「あるがまま」の精神に則って。実際のところは調べてないのでわからないけれども。
