rhの読書録

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風の歌を聴け / 村上春樹(再読)

風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)

  • 作者:村上春樹
  • 発売日: 2016/07/01
  • メディア: Kindle版
 村上春樹のデビュー作。29歳の「僕」が、21歳だった1970年の一夏を回想する小説。というのがとてもざっくりとしたあらすじ。

 作者自身も執筆当時29歳だったという。なので発表当時の読者にとっては、作者個人の体験を書いた「私小説」的な読み方もなされていただろう。

 しかし回想は、少年時代や、「これまでに寝た女の子」にまで及び、さらに「僕」が聞いていないはずのラジオや、放送外のDJの発言までもが描かれる。

 つまり語り手が「僕」から他の人物、ないしビデオカメラのような第三者へと移り変わっている。小説用語で言うと「人称が移っている」。それは「僕」の回顧録であるかのような書き出しとは矛盾しており、明らかに単純な私小説とは異なることがわかる。

 本作のように「純文学」と呼ばれるタイプの小説でたまにある、文学的手法の一環としての現実味の薄さ・無さとみなすこともできる。下品な言い方をすれば「そのほうが芸術っぽいから」と。

 でも本作、ひいては村上春樹の作品全般におけるそのような現実感の薄さ・無さ、つまり非リアリズム性は、決して単なる雰囲気作りのためではない、と思う。


 本作冒頭、デレク・ハートフィールドという小説家への敬愛が綴られる。

 しかしそのような小説家は現実には存在しない。つまりフィクション。

 にも関わらず、その文章が実在の小説家であるフィッツジェラルドやヘミングウェイを引用したりと真に迫っていた、つまり「それっぽかった」ので、少なくない読者がデレク・ハートフィールドの著作を求めて図書館に問い合わせた、というエピソードが残っている。ハートフィールド以外に作中で引用・言及される様々な映画や楽曲、小説がいずれも実在のものであることも、そのような事態が起こった原因だろう。

 作者ほどの人物が、そのような事態を予期しなかったはずがない。ではなぜそのようなことを書いたのか?

 それは読者に「デレク・ハートフィールドっていう小説家がいるんだ、へー」→「なんだ嘘じゃん」という経験をさせること自体が目的だったんじゃないだろうか。

 ひいては読者に「この小説は本当っぽいけど嘘かもしれないし、嘘かもしれないけど本当かもしれない」と思わせたかったのではないか。ちょっと難しい言い方をすると「虚実のあわい」を描きたかったのではないか。


 なぜそのような小説を書いたのか?

 この小説が発表された1980年代頃は、よりリアルで、より現実の問題を描いた小説がもてはやされる風潮があった。今じゃ考えられないことだけどリアリティの無い小説は「人間が書けていない」とか言われて批判された。村上春樹はそれに違和感を持っており、自分たちの世代の、あるいは自分自身にとってよりリアルな世界観を描きたかった。

 というような説明がまぁ世間一般の定説だと言っていいと思う。

 でもそういう「いかにも」な動機だけでは、村上春樹の小説が世界中で読まれていることの説明にはならない。

 なぜ村上春樹の小説には多くの読者がいるのか? というテーマはさすがに手に余りすぎるので置いておこう。

 なぜ自分は村上春樹の小説を読むのか? を語るのは難しい。なんかこう、読んでいるエロ本を後ろから覗き見されるような気恥ずかしさがある。なので、小説の話に戻りましょう。


 「僕」の友人「鼠」は、「僕」に似ているようで対称的。まるで「僕」の心の弱さを象徴した人物のようだ。そう思って出会いのシーンを読むと、まるで「僕」が二人に分裂したように見えなくもない。

 もうひとり、「僕」が出会い関係を深めていく「小指のない女の子」は、精神的な問題を抱えている。

 そして「僕」が「3人目に寝た女の子」は1年前に自殺している。

 そこからこの小説の物語を『恋人を失った「僕」が、「小指のない女の子」と関係を深めることでお互いの心の傷を癒やし、自分の弱さの象徴である「鼠」と決別する話』とまとめたくなる。というか、そういうストーリーだったらもっとわかりやすい。

 しかし実際にはそのようなわかりやすい物語的解決は描かれない。そもそも「3人目に寝た女の子」についての言及はかなり少なく、「僕」が彼女についてどう思っていたのかすらよくわからないままだ。「小指のない女の子」とは決定的な関係を気付く前に別れる。「鼠」とは毎年小説が送られてくるという形で関係が継続される。

 そのような物語としてのあいまいさをどう読むべきか。


 いや、問いの立て方が間違っている気がする。

 それを自分はどう読んだか、を書くべきだな。やっぱりそこから逃げちゃいけない。


 この小説から伝わってくるもの。

 一言で言えば無力感、だろうか。完璧な文章は無いし、「女の子」は去っていく。結局あらゆるものは消え去っていく。ビールの泡のように。

 そこに希望があるとしたら、たとえば書くという行為そのもの。ある場合は自己療養になるかもしれない。

 あるいは表現行為そのもの。終盤でやや唐突に挟まれるラジオDJからの語りかけ。

 でも希望は物語によって与えられるものではなく、見つけ出すものだ。だからこそ「作者の伝えたいこと」は虚と実の間に巧妙に隠されなければならなかった。


 っていう感想は、ちょっと抽象的すぎてどんな小説にも当てはまりそうではある。

 でも「希望」とか「愛」とかを声高に叫んだりしないところが村上春樹の信頼できるポイントのひとつ。