思考だだ漏れ読書録

とあるブログ書きの読書記録。

ペンギン村に陽は落ちて/高橋源一郎

 高橋源一郎の作品を出版順に読む「高橋源一郎マラソン」を敢行予定である。ちなみに、同じようなことを村上春樹でもやっている。町田康は、そんなことを意識することもなく全作品読んでいる。
 既に『さようなら、ギャングたち』は読み終えているのだが、どこで勘違いをしたのか、この『ペンギン村に陽は落ちて』を二作目だと思い込んでいた。実際は『虹の彼方に - オーヴァー・ザ・レインボウ』が二作目なので、次はそっちを読む予定。

ペンギン村に陽は落ちて (ポプラ文庫)

ペンギン村に陽は落ちて (ポプラ文庫)


 で、この小説。なかなかに語るのが難しい小説だと思う。
 多分、発表当時は「ポップ」だとか「アヴァンギャルド」だとか言われたのだろう。しかし21世紀の現代に読んでみると、パロディの手法としては、あくまで手法だけに目を向けてみれば、案外ありふれているように見えなくもない。
 二次創作小説なんてネットにありふれているし、その中にはこの小説のように、いわゆる「キャラ崩壊」を引き起こしているものなんていくらでもあるだろう。
 キャラ崩壊とは (キャラホウカイとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
 というか、コミックマーケットというものが最初に行われたのが1975年で、この小説の出版が1989年なのだし、もっと言えば風刺なんてのは古今あらゆるところで見られる文化なわけで、つまり何が言いたいかというと、別にこの小説は手法が斬新な小説ではないのではないかということ、言い換えれば、手法の斬新っぽさよりももっと切実な何かがこの小説にはあるのではないかということ。
 じゃあそれはなんなのか?と考えて、「なんだか作者の言いたいことを取り出そうとする国語の授業みたいでよくないな」と思う。言いたいことが初めからわかっているなら、誰も小説なんて書かない。
 以下に書くことは(以上に書いたことも)、あくまで僕の感想であり、僕の分析である。って、普通はいちいちそんなわかりきったことは書かないものなのだが、何となく今回は書きたくなった。
 ペンギン村に陽が落ちる。落陽とか斜陽とかいう言葉があるとおり、日没は没落をイメージさせる。そういうのなんて言うんだっけ?メタファー?
 この小説に登場する人物は、みな没落しているように見える。というか、端的に言って「ボケて」いるようにも見える。痴呆の方のボケ、ね。最近読んだ『ぼくらの文章教室』には、ボケたと思われる小島信夫の小説について論じていたのを想起する。ウルトラマンのキャラクターたちは養老院に入っている。北斗の拳のケンシロウは頭脳が破壊されて意味の無い単語しかしゃべれなくなっている。小島信夫の場合は作者がボケていたのであり、この小説は登場人物がボケている、という違いはあるものの。
ぼくらの文章教室

ぼくらの文章教室


 なぜボケるのか?彼らが役目を終えた時のことを想像して、だろうか。それとも、既存のブンガクをハカイするためだろうか?いや、そういう安易な結論に飛びつくのはよろしくない。
 ただ、この作品に間違いなくあるのは、終わり、の感覚。喪失、の感覚。かつてあったはずのものが無くなってしまうということへの思い。
 それは、おそらく、どの社会にも共通する感覚であって、それは例えば子供に人気のアニメ・マンガを題材にしても変わらないのだ、ということを、この作品は証明しているのではないか。狙ったのか否かはわからないが。
 余談だが、僕の中でDr.スランプと言えばアニメ二期。みどり先生は皆口裕子で緑髪ストレート。パーザンというキャラは多分出てこなかったと思うので、小説の中で名前が出てきても姿が浮かばなかった。今度原作マンガを読んでみようと思う。愛蔵版は修正が入っているらしいが。
Dr.スランプ 1 (ジャンプ・コミックス)

Dr.スランプ 1 (ジャンプ・コミックス)