佐々木敦による、日本文学史を解説する本『ニッポンの文学』を当面のブックガイドとして読書していこうと思いついた。
その中で最初に解説されるのが村上春樹であり、その次が本作『赤頭巾ちゃん気をつけて』だった。
村上春樹はほぼ全作読んでいるので、庄司薫を読むことにした。
村上春樹より以前に、語り手の主語に「ぼく」を用い、砕けた口語調の小説を書いた、という文脈で紹介されることが多い本作。
逆に言うとそれ以外の文脈で日本の文学史に位置づけられることがあまり無いように見受けられる。『ニッポンの文学』においてもだいたいそのような扱い。
読む前の、個人的な本作に対する印象も、あまり良いものではなかった。サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて(特に野崎孝による訳版)』との類似が指摘されていたから。
実際に読んでみると、これはもうほとんどパロディレベルで『ライ麦畑』に似ている。
ただ語り口が似ているだけでなく、登場するモチーフが共通しまくっている。成熟を拒否する少年、性的な危機、友人との葛藤、そして最後は幼い子どもに救われる。似ていないという方が無理がある。これを「似ていない」と言っていた一部の昔の人は、ちゃんと両方の小説を読んだんだろうか? という疑問すら湧いてくる。
とはいえパクリ=悪と短絡的に言いたいわけではない。ある作品が過去の作品に影響を受けるのはごく当たり前のことだ。あくまで語り口とモチーフが似ているだけで法律上の模倣にも当たらないだろう。『ライ麦畑』にしてもチャールズ・ディケンズの『デイヴィッド・コパフィールド』への目配せが含まれているという説をどこかで見たことがある。模倣とは全く話が異なるが。
例えばアメリカンコミックスには「スパイダーマンが日本に生まれていたら」みたいなスピンオフ作品がある。本書も「もしホールデン・コールフィールドが日本に生まれていたら」という作品として読めば興味深いし、流行小説になったということはそのような精神性の作品が日本人に求められていたとも考えられる。
ただ当の作者が「ライ麦畑」から影響を受けた事実を一切認めていないという点には、個人的にどうしても拭えない不信が残ってしまう。それこそ村上春樹は「ライ麦畑」含め様々な影響を受け、翻訳などもしており、その影響を認めている。大ヒット作の「美味しいところ」を持ってきた小説を書くなんてことも(おそらく)していない。
もうひとつ、本作には「隠されてること」がある。それは作中に登場する「先生」に丸山眞男という明確なモデルがいること。2012年の新潮文庫版の解説などでは明かされていることだが。作中で急に「荻生徂徠」なんかの名前を出てくるのもその影響であるようだ。
当時東大教授だった政治学者の丸山眞男は日本政治思想史において多大な業績を挙げたものの、1960年代後半になると全共連の学生、つまり本作に登場するような「ゲバ棒を持った学生運動家」に激しくバッシングされるようになったらしい(Wikipedia情報)。そして本作の作者は丸山眞男の下で政治学を学んだそうだ。
そう考えると1969年に発表された本作は、丸山眞男的な思想(「自由で伸びやかな知性」がどうのこうの)を擁護し、応援するための小説なのではないか、と思えてくる。自分は丸山眞男の思想には明るくないのでハッキリしたことは言えないけれども。
では本作は具体的にどのような小説なのか。
まず間違いないことは「エリートの苦悩」を描いたものであること。
当時東大進学率トップクラスだった日比谷高校に通う主人公の「ぼく」こと庄司薫(作者の筆名と同じ)。東大が学生運動の影響を受け入試受付中止になってしまい、進路に悩んだ彼は、大学自体に入ることをやめようと考えるが、それを周囲に打ち明けられずにいる。
彼のエリートぶりは目を見張るばかりで、まず幼馴染の由美との最初の会話が古代ギリシャの哲学者エンペドクレスの死についてであることからも、そのインテリぶりが伝わってくる。将来は大蔵省(現在の財務省)あたりに行くのではないか、などと周囲には目されている。
由美との関係は喧嘩をしながらも良好であり、そんな中で近所の女医には誘惑されたり、当時流行のいわゆる乱痴気パーティーに出かけたりするも、なんとなく幼馴染への操を立てるような気持ちになり女性経験は無し。まるでギャルゲーの主人公。
裕福な家の5人兄弟の末っ子で、家にはお手伝いさんもいる。両親も比較的進歩的な考えを持ち、これといった抑圧もない。
しかしこのままエリートの道を邁進するだけでいいのか? と悩み続ける。決められたレールに乗るだけでいいのか。それよりももっと自分を世の中の役に立てる方法があるんじゃないか。
「先生」のような「本当の知性」を持った人間になるのもいい。ゲバ棒を持った学生たちも時にかっこよく見える。何もかもを憎んで壊してしまいたくなる時もあるし、全てを守れるような強い力が欲しくなる時もある。
そのような若者の心の動きを描いた小説としては、確かに本書は優れていると思う。軽妙な語り口と相まって当時の流行小説になった理由もわかる。
その語り口についてだが、現在の感覚で言えば冗長で読みにくいと感じるかもしれない。
中公文庫の解説によると固定電話が普及した「電話世代」の語り口らしいが、現代のスマホ世代の若者は言葉遣いもタイパ(タイムパフォーマンス)が命。「それな」「りょ(了解)」「~まである(かもしれない)」「あーね(あーなるほどね)」「とりま(とりあえずまぁ)」など、どんどん言葉が短くなっている。それももう古くなっている気もするけども。
そんな「ぼく」が本作でたどり着いた結末に関しては、読者である自分としては大いに懸念せざるを得ないものだったりする。
自分の解釈が間違っていたら申し訳ないのだが、本作で「ぼく」が出した結論は「知性の正しい使い方は、幼い子供を助けたり、幼馴染を守ったりすることで、そのために自分は大きな男にならなければいけない」というようなものだ。
あまりにマッチョ思想が過ぎないだろうか。
昔の小説だからしょうがない、と思うかもしれないが、じゃあ夏目漱石や太宰治がそんな小説を書いたかと言うともちろんそんなことはない。どちらかというと「強い男」がもてはやされたのは戦後世代に顕著な傾向なのではないかと自分は考えている。
昔、といっても平成後期頃の話だけれど、懐古趣味の家族が加山雄三の「若大将シリーズ」や石原裕次郎の「嵐を呼ぶ男」のような映画をよく観ていた。その空気感に似たものを、この小説からも感じた。
「主人公がマッチョだからダメ」などと短絡的なことを言いたいわけではない。四部作の一作目である本作は、そんな「ぼく」のマッチョがどのような推移をたどるのだろうか? というところで終わる。続きを読めばその末路がわかるのかもしれないし、わからないのかもしれない。
しかし少なくとも本作のネタ元である『ライ麦畑』が、イノセントな人がイノセントゆえに敗北していくような物語だったことに比べると、本作のテーマはそれとは対象的なものであるように思える。
なんなら「丸山眞男の思想ってそんなにマッチョなのか?」とすら思えてしまう。サリンジャー的な軽妙な語り口によって丸山眞男の思想を大衆に布教することが本作の企図だったのではないか? と邪推してしまったりもする。実際どうだかわからないけれども。
ついでに言えば、著者自身のあとがきや文庫版の解説者の語り口から、「世の中は全然ダメで、頭の良い自分はそれがわかっている」みたいな古き悪しきエリート意識がにじみ出てしまっているように感じられるのは自分だけだろうか。
1980年代頃まで大学生の愛読書だったらしい本作だが、昨今ではそのような扱いも無くなったらしい。とはいえ、昔はこういう小説がもてはやされていたんだな、ということを知る意味では読む価値はあるだろう。