rhの読書録

とあるブログ書きの読書記録。

職業としての小説家 / 村上春樹

 村上春樹が人の心を惹きつけるのは、ステキだからである。

 そのステキさをキープするために、村上春樹は日々努力している。

 いや、ディスっているわけじゃあない。

 正直に言えば、僕もまた、村上春樹的なステキさに心惹かれている人間のひとりである。

 強く生きるための方法が、そこにあるような、そんな気がして、村上春樹の本を読み続けている。

 読者である我々は、彼の本や振る舞いを通して、「村上春樹」というひとつの物語を読んでいる。

 というような言い方は少々ロマンに欠けているだろうか。

 っていうか「物語」っていう言葉、バズワード化してるよね。

 善き物語、悪しき物語、というような言葉を村上春樹はよく使うが、「村上春樹」という物語は善き物語なのだろうか。

 それはおそらく、時間の流れが、時という名の試練が、決めることなのだろう。


 というようなことを考えながら僕がいつも読んでいる村上春樹の、最新エッセイがこの本「職業としての小説家」である。

職業としての小説家 (Switch library)

職業としての小説家 (Switch library)

 内容としては、今まで彼が語ってきたことと重複する部分が多い。あとがきにもその旨が書かれている。

 インタビュー集や、先日発売した「村上さんのところ」を読んでいる人にとっては、けっこう既視感があるかもしれない。

夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1997-2011 (文春文庫)

夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1997-2011 (文春文庫)

村上さんのところ

村上さんのところ

 しかしこれほどまとまった形で、しかも深く、「自分自身のこと」について村上春樹が語った本は初めてだろう。


 なんだかいつもと文章のスタイルが違うな、と思って読んでいたら、そのことについてもあとがきに書かれていた。

 本書は、目の前にいる聴衆に語りかけるような、講演原稿に近いスタイルで書かれている。そのほうが書きやすかったから、と。

 その結果、やや冗長に感じる部分もあったが、全体としては、村上春樹を知らない人でもかなり読みやすくなっていると思う。


 「完璧な文章は存在しない」と書いていたのは村上春樹だったが、同じように、「自分自身について完璧に語ること」もまた、不可能であると思う。何事によらず、完璧とはそもそも達成困難なものではあるが。

 だから、この本に書かれていることが村上春樹という人間の全てだとは思わない方がいい。あれ? 今僕ものすごい当たり前のこと言ってる? 

 ひとりの人間をより深く知るためには、客観的な視点が不可欠である。具体的には、その人の周りにいる人の視点が。

 しかし我々が本当に知りたいのは、小説を書いている村上春樹についてであるが、小説とはひとりで書くものであり、もっぱら書く人の内部で起こっている運動であるから、我々がそれについて知ることは永遠に無いのだろう。あ、また当たり前のこと言ってる。


 そんなようなことを考えながら読んだ本だった。

弱いつながり 検索ワードを探す旅 / 東浩紀

弱いつながり 検索ワードを探す旅

弱いつながり 検索ワードを探す旅

 インターネットというものが発達して以降、人類の知識は全てネット上にアーカイブされ、知りたいことはいつでも知ることができるようになった……というような感覚が、僕らには多かれ少なかれあると思う。

 そしてその感覚は、「もう真新しいことなんて無いんじゃないの?」的な閉塞感に繋がっているように思う。

 しかし実際のところ、ネット上に存在するものは全て「誰かがアップロードしたもの」だ。

 「誰もアップロードしないもの」を知るためには、とにかく旅に出よ、と筆者の東浩紀は言う。


 ネットというものはその性質上、自分の興味がある分野についてはいくらでも詳しくなることができるが、そもそも自分が全く知らないものを知る「きっかけ」としての機能は、実に弱い。

 例えばオリンピックのロゴが何に似ているだとかいうことは、「画像で画像を検索する」というGoogleの機能を使えば誰でも簡単に調べることが出来てしまうのかもしれない。しかし「そもそもオリンピックにロゴが登場したのはいつからなのか」とか「きっかけはなんだったのか」とか、そういうことについて詳しく知ることは難しい。

 なぜ難しいかといえばそういう情報がネット上に無いからで、ではなぜネット上に存在しないかというと、そういうことに興味を持っている人がいないからだろう。

 旅に出れば、求めるものが変わる。求めるものが変われば、検索ワードが変わる。検索ワードが変われば、見える世界が変わってくる。Googleストリートビューを見るだけでは、そのような変化は訪れない。


 今僕がプレイしているテレビゲーム「メタルギアソリッドV(ファイブ)」に「キャンプオメガ」という架空の軍事基地が登場する。

 「キャンプオメガ」は、見る人が見れば「グアンタナモ収容所」をモデルにしていることが一目でわかるのだが、自分はこのゲームをプレイするまでは、グアンタナモのことも、そこがキューバにある米軍の土地であることも、各国から集めた要人を拷問するための施設であることも、全く知らなかった。

 このように、知識というものには、あらかじめ「こういうことを勉強しよう」と思って得るものと、「欲望に従って行動することで、副次的に得られるもの」の二種類がある。そして、人生を豊かにしてくれるのは、後者のような、思いがけない、予想外の知識のほうなのではないかと思う。多分。

 同じ場所で同じ生活をしていると、知りたいと思うこと、欲望することは固定化されてしまう。それを流動化するために人は本を読んだりゲームをやったりするわけだが、もっとずっと大幅に、かつ意外と手軽に欲望を変えてしまう方法が、旅に出ることなのだろう。


 他にも、現代のネットにおける著名人の活動は、ひたすら露出を増やすことが求められる体力勝負の消耗戦になっており、どぶ板選挙にも似た古臭いものに堕してしまっている、という指摘などは、かなり頷ける。

 内容はエッセイ調で読みやすく、難しい哲学用語などはほとんど出てこない。ただ本書には、筆者が推進している「福島第一原発観光地化計画」を理論的に(あるいは情緒的に?)補強するための本、という側面もあるので、そのへんの冗長さがちょっと気になる点ではある。

 それでも、現代のインターネットに閉塞感を感じている人には、一度は読んでみて欲しい本ではある。使う人のリアルが変われば、インターネットが見せる姿もまた変わる、という、当たり前だが忘れがちなことをもう一度確認できるだろう。

車谷長吉の人生相談 人生の救い / 車谷長吉

車谷長吉の人生相談 人生の救い (朝日文庫)

車谷長吉の人生相談 人生の救い (朝日文庫)

 すごい本である。人生相談でありながら、質問者の質問に対して、ほとんど「俺だって苦しい」とか「生きることは苦しい」というような、絶望的な回答しかしていない。

 しかも“いままでのところ、あなたはなまくらな人です”とか“あなたには一切の救いがないのです”とか、とにかく辛辣で毒舌。

 一見、毒のように見えるそれらの言葉には、露悪的なところがなく、むしろ日々の生活に立脚した実感がこめられている。「俺も苦しい。みんな苦しい。だから我慢しろ」というような上から目線ではなく、「わたしも苦しい。あなたも苦しい。救いはありません」というような、突っけんどんでありながら、どこか悟りの境地めいた遠大さを感じさせる。

 苦しみだけの人生、なぜ生きなければならないのか?などと僕のような凡夫はつい考えてしまうわけだが、「生き物を殺して食べなければ生きていけない人間は、生まれてきた事自体が罪」「死ぬ勇気がないのでおめおめと生きてきた」というような筆者の持論を聞かされると、そんな悩みは吹っ飛んでしまう。

 覚悟、という言葉は、自分の運命を悟り、それを受け入れることを意味するが、筆者の回答は一見後ろ向きでありながら、実は強い覚悟に裏打ちされている、と感じさせられる。

 じゃあこの本を読めば、その覚悟が得られるか? ってそんなわけはない。本というのはそういうものじゃない。なにを当たり前のことを言ってるんだ僕は。

 苦しみを乗り越えることで人は強くなる、という言い回しがあって、それが本当かどうなのかはわからないが、少なくとも、苦しみを乗り越えることで覚悟ができる、のは確かだと思う。そのことを筆者は「この世の苦しみを知ったところから真の人生は始まるのです」と書いている。

 真の人生とは一体どんなものだろう、という疑問は一旦置いておくとして、筆者は人生の指針として“阿呆になることが一番よいのです。”“この世に人間として生まれて来たことの不幸から、少しでも救われたいと思う人は、文学・芸術・哲学の道に進む以外に途はない”“人生は毎日迷いの連続です。その迷いの段階で、必ずより困難な道のほうを選んでいけば、そこから新しい道が開けてきます。”と書いている。

 また、小説を書きたいという老人に対しての回答で、この世には、頭のいい人、頭の悪い人、頭の強い人、頭の弱い人の四種類がいて、絶対に小説を書くことができないのは「頭のいい人」で、一番向いているのは「頭の強い人」だと答えている。つまり、善人には小説は書けない、と。面白い。

 本当に苦しみを乗り越えるためには、苦しみを肯定し切る必要があり、そのための道は必ずしも平坦ではなく、もしかすると道ならぬ道だったり、道を外れた道だったりするのかもしれない。むき出しの人生とは、そういうものなのかもしれない。そんなことを考えさせられる本だった。

常識の路上 / 町田康

常識の路上

常識の路上

 旅行記や書評などをまとめたエッセイ集。町田康のこの形式の本は「破滅の石だたみ」以来7年ぶり。

 最近小説が出版されていなくて、連載小説を書いているのは知っているけれど、正直に言って、町田康、どうなんだろう? と思っていたが、大丈夫だった。とても大丈夫だった。

 文学って、読んだらぶっ飛ぶんだよなぁ、ということを、久々に実感した。今もぶっ飛んでしまっていて困っている。

 特に坂口安吾について書き下ろした「堕落への道のり」がスゴい。言葉のマシンガン。堕落のウォータースライダー。

 ぶっ飛んでしまっているので、とにかく読みなはれ、としか言いようがない。それ以外に言いたくない。常識の路上ってなに?と思う人も、思わない人も、手にとっておくんなまし。前半の旅行記はあんまりなので、立ち読みするなら二章からがいいと思うよ。

マインクラフト 革命的ゲームの真実 / ダニエル・ゴールドベリ (著) リーヌス・ラーション (著) 羽根由 (訳)

マインクラフト 革命的ゲームの真実 (単行本)

マインクラフト 革命的ゲームの真実 (単行本)

 人気ゲーム「マインクラフト」の誕生と成長、そしてマインクラフトを作った男「ノッチ」ことマルクス・パーションの来歴を記したノンフィクション。

 こういう本は大抵、成功の秘密を説く! 的なビジネス書だったり、対象を過度に賛美するヨイショ本だったりすることが多いけど、本書はあくまでもノッチとマインクラフトの来歴を俯瞰的にかつ冷静に書いているので、読んでいて嫌味がない。

 マインクラフトというゲームについては知っているが、マインクラフトというゲームがどのように作られたのか、ということは知らない人が多いだろう。そういう人にぜひ読んで欲しい本だ。

 例えばノッチがスウェーデン出身だということ、ゲーム好きでプログラミング好きの、頭脳明晰だが内向的な少年だったということ、いくつかの職を経た後、たった一人でマインクラフトを作り上げたということ、イェンスというプログラマー(ファンの間では「jeb」として有名)が「イカ」を作ったことでノッチに認められマインクラフトの開発に加わったことなど、日本のプレイヤーがあまり知らないことであろうことがたくさん書かれている。

 他にも、スウェーデンはブロードバンドの普及率が高く、いわゆるIT国家であり、ゲーム開発も盛んであるということも初めて知った。マインクラフトの販売元であるモヤングの他に、「バトルフィールド」や「ミラーズエッジ」を作っているDICEという会社もスウェーデンにあるという。


 マインクラフトは確かにかなり独創的なゲームではあるが、他のゲームから様々なアイデアを借用して作られたゲームであることもまた確かだ。

 ノッチがハマったゲームとして本書では「ドワーフ・フォートレス」や「ローラーコースタータイクーン」、「ダンジョンキーパー」などの名が挙げられている。

 「世界の全てがブロックで構成されている」という最も根本的なアイデアですら「インフィニマイナー」というゲームにインスパイアされたものであることは、本人やファンも認めていることである。

 しかしだからといってパクリだとかオリジナリティが無いとか言う人は誰もいない。他のあらゆる表現行為がそうであるように、個々のアイデアや技法にまで独占権を認めてしまったら、活発な表現活動が行われなくなってしまうからである。

 特にゲーム作りにおいては、優れたアイデアを出すことよりも、そのアイデアをいかにゲーム性に落としこんでプレイヤーを楽しませるかということが重視されている。

 その点でマインクラフトが優れていたのは、「ブロックを使ったものづくり」というアイデアをゲーム化したところにあるだろう。もちろんデジタルゲーム以外の分野では「レゴブロック」という前例があるわけだが。

 また個人的には、登場するブロックが無機質なものではなく、木や土や石などの自然物を模したものであることも重要なポイントだったと思う。これによってプレイヤーは、あたかも未開の地を開拓しているような感覚が得られるからだ。

 ブームの要因として、本書では、製作者とプレイヤーが相互に意見交換できる環境があったことが挙げられているが、言語の壁がある日本でも爆発的にヒットしたことを考えると、やはりゲームデザインそのものに主たるヒットの理由があったのではないかと思える。


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 マインクラフトがもたらした影響はとても大きく、日本でも、スクウェア・エニックスから「ドラゴンクエストビルダーズ」というブロックゲームの制作が発表されたりしている。またもうすぐ任天堂から出る「マリオメーカー」も、マインクラフトから間接的な影響を受けているように見える。

 近年では教育現場でのマインクラフトの活用が進んでいるという。製作者が作った道筋を辿るだけ、という側面が強かった従来のゲームと比べて、プレイヤーの自発性・創造性を必要とするマインクラフトは、ゲームが持つ新たな可能性を広げる存在になりうるかもしれない。


 ノッチと、彼の元同僚であるヤーコブがモヤングを立ち上げる時、ビジネスの知識を持っていなかった二人のサポートをする形で社長になったのがカール・マンネであった。

 現代のインターネット環境があれば一人でゲームを作ることは可能かもしれない。しかし会社を立ち上げてビジネスとしてゲームを作り続けるためには、やはりそれ相応のノウハウと人材が必要となるのだろう。

 マインクラフトの成功によって大金が転がり込んだノッチだが、そのことによって新たな問題を抱えることになった。一夜にして億万長者になる人が少なくないシリコンバレーなどには、突然お金持ちになった人の精神をケアする専門家が存在する、という話を本書で知って驚いた。

 お金によって道を踏み外すことなく、若くてお金のないゲーム開発者を支援するなどしていたノッチだったが、結局はマインクラフトの開発を降り、自らの手で新たなゲームを作る道を選んだ。


 本書が「いい話」たり得ているのは、ノッチが「たった一人で」マインクラフトを作り上げたという点、そしてそのことにより、既存の大規模化・工業製品化したゲーム制作への強烈なアンチテーゼを示したという点にある。

 しかし彼がマインクラフトで多大な成功を収めたのは、彼自身の資質、環境、そして時の運に恵まれたことが大きい。だから彼のやり方をそのままマネしたとしても、必ず上手く行くとは限らない。当たり前の話だが。

 そのことは、ノッチが未だにマインクラフトに続くヒットゲームを作れていないことが証明している。この本は、そのへんのことにもちゃんと触れている。

 本書の発刊後に、モヤングはマイクロソフト社に買収されることとなった。インディーゲームの一つに過ぎなかったマインクラフトが、世界一の企業の傘下に入ることで、どのような変化を迎えるかは未知数だ。

 いずれにせよ、ノッチのプログラミング愛、ゲーム愛が枯れてさえいなければ、彼が作る新しいゲームを楽しめる日が来るのはそう遠くないハズである。

本を買ったのに、電子書籍について考える。

 本を買った。7冊ほど。こないだ誕生日だったので、自分へのご褒美(笑)に。

 本ってつくづく高い。文庫ですら、新品は安くても500円くらいはする。そりゃネット時代に本が売れなくなるはずだ。

 だからといって今後本が安くなるかというとおそらくそういうことはなく、電子書籍の方の値段は下がるかもしれないが、リアルな本の値段はむしろ上がっていくのではないだろうか。ニーズが減れば価格が上がるのは当然のことだからして。

 そうなるとリアルな本は、それそのものを目的として買うというより、ファングッズに近いものになるのかもしれない。アーティストのファンがCDを買うみたいに。

 だって電子書籍、スゲー便利だもん。最近マンガをたまにKindleで買って読むようになったけど、めっちゃ楽。Web漫画を読むのとおなじ感覚で読めるし、かさばらないし、暗くても読めるし。

 でもリアルな本には、古本として再利用できるという最大の利点がある。もしも古本が無ければ僕の人生は無かったかもしれない、というと少々おおげさだが、それくらい古本にはお世話になってきた。

 もしも現在の社会状況のままで、全てのリアルな本が無くなり、電子書籍に置き換わってしまったら、電子書籍を買うお金が無かったり、電子書籍リーダーを持っていない人は、本を読む機会がかなり奪われてしまうだろう。デジタルデバイドというやつ。

 しかしこれからもっと電子書籍の普及が進めば、電子書籍も電子書籍リーダーもどんどん値下がりしていって、新刊が一冊300円、旧作が一冊100円くらいになって、出版社だかAmazonだかが電子書籍リーダーをタダ同然の値段で売ってくれるようになるかもしれない。もしそうなるなら歓迎だ。

 それでも、紙の本をペラペラ読む人がいなくなり、ガラスの板を指でこするのが標準的な読書風景になってしまったら、それはちょっと風情が無いよなぁ、と思ってしまう自分がどこかにいる。考え方が古いんだろうか。

 とはいえもう既に、電車に乗ってる人も街を歩いている人もほとんどがスマホをいじっている人ばかりで、それに近い状況になっているのかもしれない。

 そもそもコンピューターの仕組みから見れば、「書籍」という概念自体が不自然なものであって、あらゆる小説や論文やマンガなどは単なる「ファイル」であるに過ぎず、だとすれば遠い未来には「書籍」という概念そのものが消滅するか、希薄なものになっているのかもしれない。そうなったら完全にSFだよなぁ。いやまぁ電子書籍の時点で、昔の人からしたら十分SFなんだろうけど。

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慈悲をめぐる心象スケッチ / 玄侑宗久

慈悲をめぐる心象スケッチ

慈悲をめぐる心象スケッチ

 大学に入ってから、本格的に読書を始めたころに、よく宮沢賢治の小説を読んでいた。でもその後すぐにほとんど読まなくなった。他の本を読むようになってから、なんだか童話っぽいな、とか、宗教じみてるな、とか、そういうところが目につくようになったから。

 この本は、小説家で禅宗の僧侶でもある玄侑宗久が、宮沢賢治の足跡を追い、主に宗教家としての彼の側面にスポットライトを当てながら、彼の生涯を描こうという、エッセイであり、ドキュメンタリーでもあるような本である。

 慈悲という言葉は、元々仏教用語だ。慈・悲・喜・捨という四つの心のありようを「四無量心」といい、この四つの方向に心を拡大していくべきだと、仏陀は説いたのだという。

 実際の仏教における「慈悲」という言葉の厳密な意味は僕にはわからないが、日常の中でも慈悲という言葉は結構使われる。慈悲深い人、だとか。無慈悲な鉄槌、とか。

 意味としては、「優しさを持って他者を受け入れること」といったところだろうか。


 法華経の教えを深く信仰していた賢治だったが、彼の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」という、いわば積極的・能動的慈悲のような思想は、仏教の教えの範疇を超えるほどの理想主義だった、と著者は言う。

 そのような高邁な理想が、彼自身の身を滅ぼし、また同時に彼の作品に多くの人を惹きつける魅力を与えているのだろう。

 自己犠牲とはけっして目指してはいけないことなのである。慈悲とはどんな外的な活動にも属さず、超感性的活動すなわち瞑想に属するのだと、『増支部経典』五にも書いてある。

 それでもたぶん、自己犠牲を愛の極地、慈悲の究極と見る人々は今でもいるだろう。しかし仏教における慈悲は、そういうものではないのである。少なくともお釈迦さま自身は、そんなことを勧めはしなかった。「慈・悲・喜・捨」という四つの方向に自分の心を拡大させていく瞑想を、とにかく進めていたのだ。

 このように筆者は語る。常に自己犠牲の精神を持ち続けていた賢治は、仏教徒としては正統では無かったのかもしれないが、彼が後の人々に愛されるようになったのは、間違いなく彼の自己犠牲性のゆえだろう。なんとなく、イエス・キリストが崇拝されるに至った経緯を連想させなくもない。

 賢治が送った手紙や、親族の方々の話から、生前の賢治に迫ろうとする筆者の眼差しは、常に冷静で、時に誤解を恐れず冒険的だ。そこから浮かび上がる賢治の姿は、理想家であり、夢想家でもある、近くにいたらちょっと迷惑かもしれないが、稀有な人であるように見える。