rhの読書録

とあるブログ書きの読書記録。

岡崎に捧ぐ / 山本さほ

岡崎に捧ぐ(1) (コミックス単行本)

岡崎に捧ぐ(1) (コミックス単行本)

 自伝的ギャグマンガ。作者が女性ということで「ちびまる子ちゃん」が引き合いに出されることが多いらしいが、ゲーム描写が多いので、個人的には押切蓮介の「ハイスコアガール」や「ピコピコ少年」を連想した。

 紙面に漂う雰囲気は底抜けに明るく、躁的と言っていいほど痛快なギャグが連発する。「明日はどんな楽しいことがあるだろう」という子ども特有のワクワク感がみなぎっている。月並みな言い方だが、センス、と呼ぶしかないようなものが溢れている。

 しかもただ明るいだけでなく、人生の暗い部分にも目を配る観察眼を、作者は持っている。思い返してみれば、自分が小学生だった頃にも、家庭に問題があったり、性格に少々難がある子どもが周りにいた。高校生になって、生徒がある程度学力で選別されるようになったとき、はじめて彼らが「ちょっと変」だということに気づいたものである。

 そんな「ちょっと変」だったり「だいぶ変」だったりする人たちを、同じ躁的なテンポでギャグにしている。出来ている、と言った方がいいだろうか。

 いったいどうしてそんなことが可能なのだろうか?

 それはおそらく、作者がTwitterで連載している「ひまつぶしまんがvol.21」の言葉を借りるならば、彼女が良い意味で「ずーずーしい」からではないかと思う。他人のフトコロに飛び込んでケロッと笑える明るさを、根幹的なパーソナリティとして有しているからではないかと思う。多分。あくまでも、マンガを読んで受けた印象だけれども。

 スーパーファミコンやたまごっちなど、当時流行っていたものがぞくぞく登場するのも、同世代としてはたまらない。読んでいるだけで、忘れていたあのころの思い出が蘇ってくる。トイレにこもってポケモン緑をやっていたら、母親にゲームボーイポケットを隠されたこと。金色のビーダマンでカーブショットを打ったこと。うっかり水着のポケットにデジモンを入れたままプールに飛び込んでダメにしまったこと。などなど。

 昔の人にとっては、ベーゴマや、めんこや、スーパーカーや、ウルトラマンなどが、「記憶を呼び起こしてくれるタイムカプセル」だったのだろうが、ぼくらにとってはそれがファイナルファンタジーだったり、バトルエンピツだったりする、ということを、改めてわからせてくれる。それだけ年をとった、ということでもあるけれど。

 少し気になるのは、そのような「同世代あるある」に、「インターネット感」が出てしまっているという点だろうか。どういうことか。

 我々の世代は、10台の頃からインターネットというものに触れている。そしてインターネットの掲示板などでは、「あの頃あんなおもちゃがあったよね」というような懐かしネタが、幾度と無く語られ尽くしている。その結果、ネタとして洗練され定番化して共通認識と化し、個人の記憶としてあったはずの微妙なニュアンスが失われてしまうのである。

 これはなにも作者ひとりの問題というわけではなく、インターネット以降の世代に共通した話なのではないかと思う。実際、作者の観察眼そのものは(聖剣伝説2のコンピュータのダッシュに着眼するあたり)かなり優れているのであって。


 まぁいずれにせよ、本作がギャグとノスタルジーのハイレベルなミクスチャー(カタカナ使いすぎ)であることは論を俟たない。「note」で三話まで無料で読めるので、まずはぜひ読んでいただきたい。悪魔的に面白いですから。

note.mu

動物記 / 高橋源一郎

動物記

動物記

 動物記、というと、大抵の人は「シートン動物記」のことが思い浮かぶのだろうか。正直に言うとぼくは、読み終わってからGoogleで「動物記」と調べるまで、そのことに気付かなかった。無教養な男である。

シートン動物記 (子どものための世界文学の森 19)

シートン動物記 (子どものための世界文学の森 19)

 高橋源一郎が書いたものをずっと読んでいるので、本書に収められた短編小説の「元ネタ」っぽいものはある程度わかる。

 例えば「家庭の事情」に登場する「ふつう」の人々(人が動物に置き換えられているわけだが)の「ふつう」の思考と暮らしは、「あの戦争からこの戦争へ」の評論などで取り上げていた、橋本治の小説を思い起こさせる。

「あの戦争」から「この戦争」へ ニッポンの小説3

「あの戦争」から「この戦争」へ ニッポンの小説3

www.mammo.tv

 「そして、いつの日か」の主人公である、柴犬のタツノスケは、明らかに二葉亭四迷(本名・長谷川辰之助)をモデルとして書かれている。高橋源一郎は「日本文学盛衰史」や「官能小説家」の中で、二葉亭四迷ら文学者が活躍した明治期を、虚実ないまぜに書いている。

 「文章教室1」の中で登場する短歌は、ほぼ全てが、穂村弘が「短歌の友人(高橋源一郎が文庫版の解説を書いている)」の中で取り上げたものを、動物に置き換えたものだ。例えば、

たくさんのメスのペンギンがいるなかで
わたしをみつけてくれてありがとう

は、

たくさんのおんなのひとがいるなかで
わたしをみつけてくれてありがとう   今橋愛

 のもじりであろう。

短歌の友人 (河出文庫)

短歌の友人 (河出文庫)

 「文章教室2」の中で、アフリカゾウが書いた文章を、真木蔵人のようだと評しているが、「国民のコトバ」という本の中で高橋源一郎は、真木蔵人が書いた文章を激賞している。同じ短編で出てくるベニクラゲの絵手紙は、武者小路実篤が晩年に書いたものだ。

国民のコトバ

国民のコトバ

 このような「元ネタ探し」にどれほどの意味があるかは分からないが、事実の指摘として、ここに書き留めておくことにする。


 本書に収められた短篇集には、そのいずれにも、なんらかの形で動物が登場する。なぜ、動物なのだろう?

 一般的に動物は、「自意識」と呼ぶべきものを持っていないとされている。自意識が無いというのは、もっと平たく言えば、自他の区別が曖昧だ、ということだ。実際のところは、動物とは言葉が通じないので、わからないわけだが、少なくとも我々人間には、そのように見える。

 一方、ほとんどの人間は自意識を持っている(らしい)ので、自分は他人とは違う、固有の名前を持った固有の人間であり、生まれて死ぬまで同一存在であると考えている。

 しかし、動物は、そんなことを考えずに生きている(ように見える)。そんなんで生きていけるのだろうか?と、人間であるぼくなんかは思ってしまうが、もちろん生きていける。自意識などというものは、ただ生きるだけならば、ぜんぜん不要なものだからだ。

 自意識を獲得した人間は、肉体的には弱いが、道具を使うことで、自然を、動物を、支配してきた。その観点から言えば、人間は強く、動物は弱い。つまり、人間は「ことばを持った強者」であり、動物は「ことばを持たない弱者」である、と言える。

 しかし、あえて考えなくてもわかることだが、人間の中にも、「ことばを持った強者」と「ことばを持たない弱者」がいる。というよりも、人は弱者になることで、ことばを奪われてしまうものだ。

 「ことばを持たない動物」を「ことばを持たない人」になぞらえるために、高橋源一郎はこれらの小説を書いたのかもしれない。そう考えると、文学者や主婦を「動物化」させた理由がわかる。少々安直な読み方かもしれないが。


 動物はことばを持たない、と書いたが、これは正確ではなかったかもしれない。

 動物もまた、ことばを持っている。しかし我々人間には、動物たちのことばを聞き取ることができない。なぜなら、聞き取ろうという努力をしないから。 ことばを聞き取ろうという努力をしなければ、たとえ相手が動物であっても人間であっても、ことばを聞き取ることはできない。

 というよりも、「ことば」ということばの定義に、動物たちが使っている「ことば」を、含めていない。それでは聞き取れるはずがない。

 「ことば」ということばの定義に含まれないことばは、ことばではないのではないか? と思うかもしれないが、それこそが人間の驕りなのではないか、とぼくなんかは思うのである。


 「動物=弱者」説が正しいと仮定した上で、表題作である「動物記」を読むと、あたかも著者自身の懺悔であるかのように見えてくる。

 わたしが動物の世話をできないのは、彼らがなにを考えているのかわからないからなのかもしれない。動物の世話ができる人間は、彼らの考えや、なにを感じているのかがわかるのだろうか。わかったような気がするのだろうか。わからなくとも気にならないのだろうか。

 そもそも、強いものが弱いもののことばに耳を傾けることが、本当に可能なのか? 意味があるのか? その答えは誰にもわからない。誰も保証してくれない。

 ひとりの人間にできることは、ただ、あらゆる声に耳を傾けようと努めることだけなのかもしれない。それさえも、無意味で不可能なことなのかもしれない。

 それでも、「聞こえない声が存在すること」を指し示すという行為は、可能であるし、何かしらの意味があるのではないかと思いたい。

 ほらね! ほらね! ほらね! 私の言った通りだろ! 人間の中でも、子どもたちはわかってるんだ! あらゆる生き物がことばを持っていることを! 

紋切型社会 言葉で固まる現代を解きほぐす / 武田砂鉄

紋切型社会――言葉で固まる現代を解きほぐす

紋切型社会――言葉で固まる現代を解きほぐす

 どうにも、読むのがしんどかった。でも、結局全部読んでしまった。

 そして今、この本について書くのもしんどい。それでも書きたい。なぜこの本が、しんどくて、面白いのかを。


 紋切型の言葉にはどんなものがあるだろうか?

 と、あらためて考えるまでもなく、世の中には紋切り型の言葉があふれている。「遺憾の意」とか。「今後のご活躍をお祈りしております」とか。

 紋切り型の言葉を使うことには、コミュニケーションをスムーズにする、というような、正の面もある。

 しかし、今の日本には、紋切り型の言葉を、思考を放棄するため、あるいは思考を放棄させるために使っているような場面が、あまりに多すぎるのではないだろうか?

 というのが本書の問題提起である。


 批評、というより、単なる悪口や皮肉ではないか、と思いたくなるような話も出てくる。だから読むとぐったりしてくる。

 しかしその悪口や皮肉は、誰かを攻撃するためのものではなく、世の中の間違ったことを、「それは間違っている」と指摘するための、必要悪であるように思えて、だからこそ最後まで読む必要があるな、と感じて、最後まで読んだのだった。

 間違っていることを間違っていると指摘すると、白い目で見られる、ということは、時代を問わずに常にあることだ。戦争反対と口に出しただけで社会的に抹殺されてしまうような時代があり、その後で、戦争反対と言わなければ社会的に認めてもらえないような時代があったりした。

 誰だって本当は、間違ったことなんかしたくない。でも一歩世間に出れば、みんなが「正しい」と言うことが正しいことだ、というような、根拠も理屈も議論も無い「正しさ」が、様々な場面に現れる。

 そんな根拠無き「正しさ」に向き合い、裸の王様に「裸だ」と言い、しかも己が無事でいるためには、高度な知性と勇気が必要となる。本書の著者には、その両方が備わっているように見える。

夏目漱石、読んじゃえば? / 奥泉光

夏目漱石、読んじゃえば? (14歳の世渡り術)

夏目漱石、読んじゃえば? (14歳の世渡り術)

 小説は、自由に読んでいい。自由といっても、裸で読むとか、富士山頂を逆立ち歩きしながら読むとか、そういう意味での自由では無い。それではただの変人である。まぁ、変人でもいいんだけど。のっけからぼくはなにを言っているのだろう。

 小説は、途中から読んでもいいし、最後のページから読んでもいい。1ページだけをずっと眺めていてもいいし、物語を無視して文章だけを楽しんでもいい。誰も怒らないし誰も咎めない。本人が楽しければそれでいいのである。

 しかし自由に読むためには、「小説とはこう読むものである」という固定観念が存在する、ということを知らなければならない。己を縛る鎖を引き千切るためには、鎖の硬さや形状を知らなければならないのと同じように。

 本書「夏目漱石、読んじゃえば?」は、夏目漱石の小説を通して、多くの人が小説というものに対して抱いている固定観念について、そしてその固定観念から自由になる方法について書いている。

 「吾輩は猫である」は全部読まなくてもいい、とか、「坊っちゃん」は暗いヤツだ、とか、「こころ」は傑作だと思わなくていい、というように、普通の人が「夏目漱石」あるいは「文学」というときに想像するのとは、ちょっと違うことが書かれている。しかしそれらは、小説そのものを虚心坦懐に読めば、誰にでもわかることだったりもする。

 普通の人は、夏目漱石を、あるいは文学を、難しくて高尚なものだと思っている。本当は、文学にだって色々ある。笑えるものもあれば、泣けるものだってある。面白がって興味を持って読めばいいのだ。勉強などと難しいことは考えずに。

 そういうことを、14歳でもわかるように易しく書いてあるこの本は、子どもだけでなく、大人が読んでも面白く興味深い。漱石、読んじゃえば?

 そして小説は、人生を通じて読み続けることで、人生に深みや彩りをもたらしてくれる、こともある。お気に入りの音楽や、履き慣れた革靴のように。

 奥泉光は小学生の頃から現在まで、ずーっと夏目漱石を読み続けているそうだが、ぼくにも、折に触れて読み返したくなる小説がある。例えば「こころ」や「ノルウェイの森」とか。ベタ過ぎるけども、好きなんだからしょうがない。

rhbiyori.hatenablog.jp

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 「小説は人生の役に立つか。それはわかりません。けれども、人生は小説を面白く読むのに役に立つ。」と、著者は言う。

 ぼくがそこになにか付け加えるとするなら、「小説のある人生は、小説の無い人生よりもずっと深く豊かなものだ」といったところだろうか。ちょっと青臭いだろうか。

人のセックスを笑うな / 山崎ナオコーラ

 高橋源一郎の『デビュー作を書くための超「小説」教室 』という本を読んだ。彼が考える「小説の書き方」と、小説新人賞の選考委員として書いた選評をまとめた本だ。

デビュー作を書くための超「小説」教室

デビュー作を書くための超「小説」教室

 その中の文藝賞の選評で「人のセックスを笑うな」を絶賛しており、文庫版の解説も書いている。

 あの高橋源一郎が絶賛するほど面白いなら読んでみよう、と思って、読んだ。読んだら、面白かった。それも、この上なく。

人のセックスを笑うな (河出文庫)

人のセックスを笑うな (河出文庫)

 19歳の美術専門学校生の男「みるめ」と、その学校の講師である39歳の女「ユリ」。その二人の恋愛。そういう話である。

 恋が生まれて、育って、終わる。その過程を、みるめの目線で書いている。

 若い男ならではの、純粋さ、背伸び感、わがままさ、思いやり、そんなようなものが、ごくシンプルに、しかしありえないほどのリアリティで書かれている。こんな本は、読んだことがない。

 こういうことを言うのは恥ずかしいのだが、っていう前置きそのものが更に恥ずかしさを増長させてしまっているのだがそれはいいとして、自分が恋をしていたときの気持ちの一部が、この本によって世間にさらけ出さてしまっているような、そんな怖さにも似た心地よさがある。

 あのころのぼくの気持ちが書かれている、というより、この本を読むことによって、あのころ自分はこんなことを考えていたんだ、ということを初めて認識できた、という感じがする。



 ユリには「猪熊さん」という夫がいる。だからみるめとの関係はいわゆる不倫なのだが、不倫ということばが持つような不健全な雰囲気は、二人には無い。

 当たり前のことだが、たとえ結婚した人でも、恋に落ちることはある。恋をする権利がある。

 しかしだからと言って全てが許されるわけではない。配偶者が他の人と逢瀬をしているのを黙って見過ごせる人は少ないし、なによりやっている本人が辛くなる。なぜかはわからないけれど、そういうことになっている。



 みるめとユリが求めていたのは、肉体的な触れ合いであり、精神的な触れ合いでもあった。そして二人は一時的にであれ、それを手に入れた。

 ではなぜ二人は別れねばならなかったのか?まぁそれはこの小説を読めばわかることだし、それをあえてことばにして言うのは野暮なことなのだが、今のぼくはそれをことばにしておきたいような気分なのである。

 人には、「人として社会の中で生きるモード」と、「触れ合いたいモード」の二つがあり、その二つのモードの狭間を行ったり戻ったりしながら暮らしている。

 二人の関係は、後者のモードに近いものであり、だからこそ、美術専門学校の講師と生徒の関係であるにもかかわらず、二人は前者のモードに属するような、美術についての話をほとんどしなかったのではないだろうか。

 二つのモードのどちらが本能的であるかとか、どちらがより重要だとか、そういう問題ではなく、生きる上では二つのモードのバランスをとることが必要なことなのだろう。

 ユリは、後者のモードでみるめに惹かれたものの、このままではバランスがとれなくなる、と思ったので別れることを選んだのだ。彼女の決断は、ぼくにはとても自然なものであるように思えた。彼女には、そのような決断を下す権利があると思った。

 しかし、読む人によっては彼女が自分勝手に見えるかもしれない。ストーリーだけを追えば、「若い男をたぶらかして捨てた」と言ってしまえなくもない。

 それでもぼくが二人の関係を肯定したいと思うのは、二人の間に確かな心の通じ合いがあり、二人それぞれを優しく見守る周りの人がいることで、そこに、祝福、とでも呼ぶべき奇跡的な空間が生まれているからだ。



 恋が終わっても、人生は続く。「会えなければ終わるなんて、そんなものじゃないだろう」とみるめが言うように。

 出会いは甘く、別れは辛いが、いい出会いといい別れは、人生にある種の暖かみのようなものを残してくれるだろう。そんな風に思わせてくれる小説だった。

ぼくらの民主主義なんだぜ / 高橋源一郎

ぼくらの民主主義なんだぜ (朝日新書)

ぼくらの民主主義なんだぜ (朝日新書)

 この本の帯には「日本人に民主主義はムリなのか?絶望しないための48か条」と書かれている。

 でも、正直に言うとぼくは、この本を読んで、結構、絶望的な気分になった。

 強いものが、弱いものを押しつぶす。持つものが、持たざるものから、奪い続ける。そのような傾向が、日本中で、あるいは世界中で、どんどん広がっているのではないか。前々から感じていたことだが、この本を読んで、さらにその思いを強くしたからである。

 やっかいなのは、そのような傾向を、我々の多くが自覚しており、にも関わらず、誰もそれを止められずにいる、ということなのではないだろうか。

 原発が東京ではなく地方に置かれているのも、あれほど狭い沖縄にあれほど大きな基地があるのも、ブラック企業が存在するのも、大学生さえブラックバイトに酷使されているのも、いずれも弱者に負担を押し付けているという共通構造を持っている。なのにその構造は、今この瞬間にも新しく生まれ続けている。

 なぜ弱者が搾取され続けるのか。それは、我々一人ひとりが、産まれた瞬間から、「搾取すること」に慣らされてしまっているからではないか?電車に乗ったり、車に乗ったり、ピカピカのランドセルを背負って学校に通ったり、発展途上国で生産された安い服を着たり、発展途上国で生産されたパソコンと原発で発電された電気を使ってブログを書いたりすることによって。

 このまま世界は弱者切り捨て型の、殺伐とした社会へと突き進んでいってしまうのだろうか。我々にできることはもはや何も残されていないのだろうか。神は死んだのか。愛は死にますか?ホワイ・ジャパニーズ・ピーポー!?


 と、ひとしきり絶望したらスッキリしたので、本書の紹介に移ろうかと思う。

 本書は、作家の高橋源一郎が朝日新聞紙上に連載していた「論壇時評」を一冊にまとめたものである。

 内容はいずれもいわゆる「政治的」なテーマを扱っている。しかしその語り口は(この国で政治を語るときにありがちな)対立相手を貶めるためのむやみに攻撃的なものではなく、平易で、穏やかで、自分が見たものをそのまま指し示すような、ごく自然なものである。

 その語り口はぼくに、「非暴力主義」ということばを連想させた。

rhbiyori.hatenablog.jp

 以前も書いたとおり、「非暴力主義」とは、暴力に対してなすがままの無抵抗を決め込むことではない。

 むしろ非暴力主義とは、暴力以外の、なんらかの具体的な行動によって、人々の心を動かし世の中を変えていこうという、アクティブでアクチュアルな(って使い方あってる?)考え方のことなのだ。

 本書の中には、「こうしないと世の中はダメになるよ」というような脅しのことばや「こうすれば絶対にうまくいく」というようなことばは出てこない。そのようなことばは、言葉で直接的に他人を動かそうとしている、という点で、暴力性をはらんでいると言えると思う。

 暴力的なことばは、一時的には有効かもしれないが、ずっと続けていく内に暴力性だけが増していき、暴力性によって他人を動かすことだけが目的化していき、やがて本来の目的を忘れた単なる暴力の応酬になってしまうのではないか、という気がする。社会の仕組みや歴史なんかを見ていると。

 では、真っ当なやり方で人を動かすためにはどうすればいいか。

 それはやはり、真実を、ありのままの形で、押し付けることなしに、伝える、ということなのではないかと思う。

 100パーセントの真実を知ることは難しいとしても、少しでも真実に近いと思うことを伝えて、知ってもらって、その上で人の心が動くのを待つ。それがことばによる「非暴力主義」であり、高橋源一郎が目指しているものではないか。本書を読んで、ぼくはそう感じた。

 そのようなやり方は、とても時間がかかるし、非効率的だ。

 それでも高橋源一郎が「ことばの非暴力主義」を貫くのは、暴力によって人を動かしたり人を歪めることはできても、人を育み、希望を育むことはできないから、ではないだろうか。

 希望は、人が自らの手で作り、育てていかなければならないものだ。希望は、他人から奪い取るものではないし、国家や政府が与えてくれるものでもない。

 この本も、希望を「与えてくれる」というようなものではない。もし希望が生まれる方途があるとしたら、この本から希望を「見出す」というやり方によってであろう。ぼくや、あなたが。

反知性主義とファシズム / 佐藤優 斎藤環

反知性主義とファシズム

反知性主義とファシズム

 「反知性主義とファシズム」。物騒なタイトルである。物騒なタイトルに反して、語られるテーマは「AKB48」「村上春樹」「宮﨑駿」といった、ポップカルチャー的、あるいはサブカルチャー的なものごとについてだったりする。しかし読み進めていくことで、それらのテーマが現代日本を読み解くカギになっているように思えてくる。そういう仕組みになっている。

 はじめに二人は、濱野智史の「前田敦子はキリストを超えた」について言及しつつAKB48について語る。

前田敦子はキリストを超えた: 〈宗教〉としてのAKB48 (ちくま新書)

前田敦子はキリストを超えた: 〈宗教〉としてのAKB48 (ちくま新書)

 二人は濱野の「前田敦子=キリスト」という議論を「浜野さんの議論って、神学から見ると実に真っ当な議論なんです。これは大きな意味での神学です(佐藤)」と、その真摯な姿勢を一定程度評価しながらも、全体としては、勢いが先走りがちで、少々粗の目立つ論であるとしている。

斎藤 濱野さんがこの本の中で「サリンを撒かないオウム(真理教)」を作るべきだと確信的に言っています。しかし、私は無理だと思うんですね。あえて危険なことを言いますと、オウムはサリンを撒いたから、あれだけ“魅力的”なわけで、サリンを撒かないオウムは全然魅力がないのではないでしょうか。宗教的享楽というのはまさに危険な次元に踏み込んでるからあるわけです。キリスト教でも、病人の膿を啜った聖女の話とか、いっぱい出てきます。アブジェクション(おぞましくも魅惑的なもの)の領域を含みこんだからこその魅力がまったくない宗教は、人々をどこまで惹きつけられるんでしょうか。
佐藤 私も全く同じ意見です。

斎藤 僕が一番マズいと思ったのは濱野さんがこの中でAKBシステムがこれからどんどんリトル・キリストを生み出していくと書いているところです。
佐藤 たぶん生み出しません。
斎藤 キリストの複数性を言っちゃったら、キリスト教の構造が保たなくならないかという素朴な疑問があるんですけれども。
佐藤 そう思います。そうなると、カトリシズムに近付いていくと思うんですね。要するにキリストの代理人みたいな話になって、エージェントがたくさん出てきます。コピーとオリジナルが一緒だということになって、前田敦子の特権性がなくなっちゃいます。

佐藤 これ、明らかに夜書いてる本ですね。
斎藤 あはははは(笑)
佐藤 ディートリッヒ・ボンヘッファーっていう、ナチスに抵抗して殺された有名な神学者がいるんです。東ドイツに残ったボンヘッファー門下のシェーンヘルっていう神学者が、ボンヘッファーについて書いてる本があるんですけど、こういう忠告を聞いたそうです。「説教は昼の下で書け。夜は悪魔の支配する時間だ」。
斎藤 それ、かなり根源的な批判に聞こえますけど(笑)。
佐藤 夜書くとものすごいものができあがるからダメだということですね。

佐藤 最終的には救済の問題って死の問題と裏表だと思うんです。
斎藤 そう思います。まさに濱野さんもそこに触れてなかったと反省しているわけですけど、死生観がAKBから得られるかって言ったら、さすがにそれはないです。
佐藤 五〇年後にもしAKBがあるとしたら、七〇歳のメンバーはなかなかセンターになりにくいと思うんです。新陳代謝してシステムとして永遠に生きるということになると、不死のシステムになるので、貨幣と一体化しちゃいますよね。
斎藤 そうなっちゃうと……。
佐藤 たぶん救済は出てこないんです。その一番難しい問題をかわしたところが濱野さんの話者としての誠実性なんですよね。
斎藤 誠実性と見るかごまかしと見るかですね。

斎藤 濱野さんはAKBが構造としては宗教と近いものがあると言いながらも、最終的には一生懸命さの擁護みたいになってしまうところがあります。懸命さや切実さはたしかに魅力的なものですが、擁護ということならそれだけでは不十分ですね。それは要するに「強度」の擁護なので、そこにAKBのセクシュアリティも暴力性も、あるいはヤンキー性も全部内包されている。そこを見据えた上で、もう少し「その先』が言えなかったのかなと思います。
 どうもAKBファンの論客は、秋元さんに関しては戦後を代表する知性みたいな言い方になりがちで、批判はタブーという雰囲気がある。ひいきの引き倒しも甚だしい、と異議申立てをしておきます。

佐藤 もしかすると、この本も普遍を見つけようとしている一つの試みかもしれません。濱野さんがかなり真面目なので、逆説的に東亜共同体みたいな方に行っちゃうんですよね。
斎藤 今のところはそれを強化する方向にしか行っていないところがこの本の限界です。

斎藤 濱野さんも吉本(隆明)ファンではないと思うんですよ。ただ、「何か偉い人』みたいな感じで飛び付いた感じがすごくあって。
佐藤 そう思います。どうして吉本ファンじゃないかっていうのは、この本に『共同幻想論』が出てこないからです。
斎藤 出てこないです。
佐藤 もしこのテーマを扱うんだったら、「対幻想」は必ず出てくるはずです。
斎藤 絶対に外せません。「幻想論」なしでAKBを語るってありえないんだけど、いきなり『マチウ書試論」だから、たぶん吉本隆明がどういう文脈で出てきたかっていうのを全くすっ飛ばしてます。

 うーむ、面白いので引用しすぎてしまった。「前田敦子=キリスト」論の瑕疵うんぬんではなく、単純に二人の対話が面白いのである。ぼくは「前田敦子はキリストを超えた」を読んでいないが、それでも面白い。

 面白いからとにかく読め、で終わりにしてもいいのだが、タイトルになっている「ファシズム」という言葉についても、ちょっと書いてみたい。


 よく、強権的なやり方をする政治家などに対して「ファシストだ」というようなことを言う人がいるが、じゃあファシズムってなんだろう、と考えてみると、意外と難しい。

 フツウの日本人が「ファシズム」という言葉で最初に思い浮かべるのは、ナチスドイツやヒトラーだろう。しかし実際に政治理論としてファシズムを言い出したのはイタリアのムッソリーニだったりする。このへんからもう認識のズレがはじまっている。

 厳密なファシズムについての定義について考えだすと、到底ぼくの手には負えなくなってしまうのでやめるが、広義のファシズムは、「独裁的政治手法」や「美的なものの賛美」や「暴力の肯定」といった要素を内包した思想のことである、と言って大きな間違いはないと思う。

 で、斎藤環はジブリアニメについて、「生命主義的ファシズム」と親和性が高い、と指摘する。

 生命主義とは「この世界を、ただ一つの生命の多様な現れとして理解する」思想のことで、もとは大正時代に流行った「大正生命主義」が源流であり、宮沢賢治がそれに影響を受け、さらに宮﨑駿が宮沢賢治に影響を受けるという形で受け継がれていったのではないか、と。

 その生命主義がどのようにファシズムと結びつくのか、という話だが、ものすごく雑な例えをするならば、「もし『風の谷のナウシカ』のナウシカが日本の総理大臣になったら」みたいなことを想像してみればいいんじゃないかと思う。

 ナウシカ首相は自然を破壊するものを一切認めないので、ダムとかゴルフ場とか高層ビルみたいなものは全部ぶっ壊してしまうかもしれない。もちろん原発もダメ……かと思いきや、「私が見張ってれば大丈夫」的なことを言い出しかねない気もする。わからんけど。

 もちろん反対する奴は剣でグサーッ!メーヴェでドーン!王蟲でドドドドド!である。でも美人なので国民には人気出ちゃったりして。

 というのは実にくだらないぼくの妄想であるが、事の本質からはそれほど、そんなには外れていないのではないかと思う。思いたい。

 しかしだからといって、「宮﨑駿=ファシズム」で、だからダメなんだ、というような単純な話ではない。ファシズムとは、今すぐに我々の生活を破壊してしまうような極端なものではなく、もっと潜在的に我々の意識に入り込んでくるものだ、と二人は指摘する。

佐藤 圧倒的大多数の人々は、ファシズムっていうものを、あまりにも簡単に処理しすぎちゃったんですよ。ナチズムのような極端な事例と混同して、『風立ちぬ』は箸にも棒にも引っかからないんだと判断してしまう。ファシズムっていうのは、潜在力が相当あるんですよ。

斎藤 今もですけど、ひと頃の宮沢賢治ブームみたいなものには非常にヤバいものを感じていました。岩手県の県職員全員の名刺には、銀河鉄道が刷ってありますから。賢治は、ヤバい読み方がいくらでもできちゃうんで、ハマりすぎた人って、ちょっとお近づきになりたくない感じがするんです。

 その上で、佐藤は「風立ちぬ」のような作品が受け入れられる今の時代の空気に危険なものを感じる、と否定的に見る。一方で斎藤は、宮﨑駿が自身の中にあるファシズム的なものへの葛藤を最もストレートな形で表現した作品である、として「風立ちぬ」をある程度好意的に評価している。

 「風立ちぬ」もぼくは見ていないのだが(なんも見てねーな)、戦争を描きながら戦争賛美も反戦も無いというこの奇妙な映画を読み解く上での確信的なポイントを、二人の議論は突いているのではないかと感じた。