- 作者: カート・ヴォネガット・ジュニア,伊藤典夫
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 1978/12
- メディア: 文庫
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「大量殺戮を語る理性的な言葉など何ひとつない」と、作中でヴォネガットは語る。その言葉と同じ理由からなのか、僕もこの本を読んだ直後は、ここにどんなことを書けばいいのか全く思いつかなかった。
とにかく読めばわかる。すべての人に読んで欲しい。以上。
しかしそれで終わりにしてしまったら、自分が思ったこと・感じたことを書くという当初の目的が達成されない。その目的がどんな意味を持つのかはわからないけれど。だからもう少し努力してみようと思う。
ヴォネガットは、ドレスデン爆撃に遭遇している。その爆撃がどれほどのものだったか。Wikipediaを見ただけでもその恐ろしさが分る。グロ注意。
少なく見積もって、十三万人が命を落としたと言われている。焼夷弾の炎が防空壕の中まで届き、大量の「死体坑」が出来上がったのである。防空壕の中で、人間が生きたまま焼かれる。どんな様子だったかとか、どんな気分だったかとか、平和な世の中に生きている日本人には到底想像ができない。
しかし、戦争においてはそれは日常茶飯事だった。広島・長崎に原爆が落ち、ナチスドイツはユダヤ人をガス室送りにした。多くの人間が、年齢・性別に関係なく死んでいった。もちろん勝手に死んでいったのではない。人が人を殺したのだ。
主人公のビリー・ピルグリムは、自分の現在・過去・未来を不随意に「経験」するという特異体質の持ち主だ。果たして彼をタイムトラベラーと呼ぶべきか。ストーリーは彼の戦争体験を時間軸で追い、その中にかなりの割合で彼の「経験」が挟まれる。「死ぬことなく自分の人生を経験し続けている」という設定らしいが、イマイチそういう感じがしない。まぁ小説的な都合と言えばそれまでだろうけど。
この小説の中では、多くの人が、大した理由も無く死んでいく。そしてそのたびに「そういうものだ(So it goes)」という有名なフレーズが繰り返される。これは、トラルファマドール星人が視認について言う言葉でもある。
人間は、時間を直線的なものとしてしか観測できない。それはまるで、線路の上を走る列車の小さな窓から外を眺めているようなものだ。窓の外を一度通り過ぎた山や森が、もう一度やってくることは決してない。
しかしトラルファマドール星人は違う。彼らは山や森を、あらゆる角度から、何度でも見ることが出来る。だから彼らにとって死は終わりではない。あらゆるものあらゆる姿を見ることが出来るのだから。
ここで僕はひとつの疑問を抱く。トラルファマドール的なものを、我々読者は本当に理解できるのだろうか?
ごく素朴に考えれば、読者はトラルファマドール的なものを理解することは出来ない。なぜか。ヴォネガットが「人間には理解できないもの」として描いているから。
もう一つの疑問は、なぜビリーが特異体質になったのか?ということだ。作中でその答えは描かれない。答えの代わりとでも言うように、トラルファマドール星人の世界観が明かされる。彼らは何かを説明する際に、人間のように「因果」というものを用いない。「これこれこういう理由があってこうなった」というような考え方をしない。すべてのものは「ただある」のだ。もちろん「自由意志」のようなものも信じていない。
この小説の特徴は「因果」の力が弱いということではないかと思う。もちろん、人間が読む小説である以上、「因果」が無ければ小説として成立しえない。
戦争という、なんの説明も前置きもなく人が死ぬという状況を描くために、時間軸がバラバラで因果が欠落した小説を書いた、と「説明」してしまうと、なんだか違うような気がしてしまうけれども。