rhの読書録

読んだ本の感想など

文明の子 / 太田光

文明の子 (新潮文庫)

文明の子 (新潮文庫)

 お笑いコンビ「爆笑問題」の太田光が書いた長編小説。

 僕自身、太田光が好きかと聞かれるとちょっと答えに困るのだが、常に気になる存在ではあった。

 小学生の頃に読んだ「爆笑問題の日本原論」。ほぼ欠かさず見ていたバラエティ番組「爆笑問題のバク天!」。聴かない時期もあったが最近また聴くようになったラジオ「爆笑問題カーボーイ」。太田光の自伝も読んだ記憶がある。

 しかしライブに行きたいとは思わないし、テレビをチェックしているわけでもないし、日本原論シリーズを全作読んだわけでもない。いわゆる「ファン」とは言えないだろう。

 どうも自分が大学に入った当たりでいろいろな本を自発的に読むようになった時期から、自分と「太田光的なもの」との間にほどほど距離を感じるようになったような気がする。必ずしも悪い意味ばかりではなく。


 疲弊した未来。人類は願いを現実にする装置「ヴェガ」に、人類そのものの存続を託そうとする。

 しかし装置を発明した天馬博士が行った試運転で、彼の息子の願い「空飛ぶクジラ」が現実化され……。

 というのが本作の大まかなストーリー。

 全編に手塚治虫の「火の鳥」の影響がかなり見受けられる。また連作短編の形式で書かれており、本筋とはかなり遠い章もあって、そちらの作風は星新一っぽさもある。このへんは文庫版解説で大森望が書いているとおり。


 正直な感想として、手放しで絶賛できる小説ではなかった。

 文章はこなれていないと感じたし、設定も納得いかないところがあった。

 でもそのあたりのことを細かく書いていくより、この小説が言わんとしていることについて考えたほうがいいかなぁ、と思ったので、そうすることにする。以下、ネタバレ注意。



 文明がもたらすものは悪いことばかりではない、というのが本作のテーマだ。

 戦争、虐殺、環境破壊。そういった文明の負の側面を認めつつ、それでも文明は「良きもの」を生み出す可能性があるのではないか? そんな命題に沿うようにして、物語が語られていく。

 「〇〇は××だと思われているが、違うんじゃないの?」という姿勢。それ自体が太田光らしいといえばらしい。というのは作家論的態度。


 僕はお笑い芸人になったことがないからわからないのだけれど、お笑い芸人というのは、当たり前のことを当たり前に言っているだけではやっていけないんだろうと思う。

 あえて世間の常識とは外れたことを言う。そこに笑いが生まれるのではないかと思う。

 しかし難しいのは、ただ単に「常識の逆」を行けばいいわけではない、ということ。

 「常識の逆」も、時間が経って硬直してしまえば、いずれ別の「常識」になってしまう。

 常に常識から外れつつ、自分自身が常識にならないためには、常に常識を疑い続けなければならないのだろう。そしておそらく終わりはない。


 僕は小説家になったことがないからわからないのだけれど、小説家に求められるのも、常に常識を疑い続けることなのではないかと思う。

 あらゆる常識に則った常識的な小説、というものを想像してみればわかる。あるいはあらゆる表現作品と言い換えてもいい。

 どう考えても見るに値しないだろう。風刺としてなら成立するかもしれないが。


 文庫版解説によると、太田光はあるインタビューの中で本作の執筆動機を語っている。

 原発事故が起こった理由について、尊敬する作家が海外で演説したんです。戦後、日本人は人間の命よりも効率を選んだ。それが原発事故を招いた――という趣旨でした。僕はそれを聴いてちょっと違和感を覚えました。自分たちの文明をそんなに簡単に否定していいのか、と思ったんです。

文庫版「文明の子」解説より

 
 「尊敬する作家」の演説というのは、間違いなくカタルーニャでの村上春樹のスピーチのことだろう。

 人間が作ってきた文明というのは、たしかに時々失敗もするし、乱暴だし、とんでもない冒険もする。でも、それは必ずしも金や効率のためだけではなく、人間の命を守るという目的もあったのではないか。そういう文明をなんとか肯定的に捉えられないか。そんな思考実験に挑戦してみようと考えました

同上

 つまり文明の負の部分だけでなく、正の部分を描こうとしたわけだが、しかし本作の中で人類の「文明」が迎える結末は、表面的に見ればあまりにも悲惨なものだ。考えうる限り最悪、と言ってもいいかもしれない。

 しかし文明がもたらした正のものは、全く別の場所に受け継がれ、そこに新たな文明を生み出すこととなる。

 果たしてそれは、良きことなのかどうか? 文明を正とするならば、それもまた正なのだろう。しかしそれじゃあトートロジーみたいだ。

 人智を超えたことの善悪は、人間には決められないのかもしれない。しかしそれじゃあ判断保留だ。


 そもそも村上春樹のスピーチは、「文明を否定」したものだったのだろうか?

 自分はそうは思わない。

 村上春樹の初期の作品は、確かに文明に対する失望と、個人としての生き方を模索しようという方向性があったと思う。村上作品風に言えば「文明にうんざりしていた」といったところか。

 でもある時期から(およそ「アンダーグラウンド」の前後あたりから)、この社会全体をどうにか肯定しようという方向にシフトしている、と感じている。


 村上春樹のスピーチについて調べているときに、上記とは別の、アンデルセン文学賞受賞時のスピーチ内で以下の発言を見つけた。

 自らの影に対峙しなくてはならないのは、個々人だけではありません。社会や国にも必要な行為です。ちょうど、すべての人に影があるように、どんな社会や国にも影があります。

 明るく輝く面があれば、例外なく、拮抗する暗い面があるでしょう。ポジティブなことがあれば、反対側にネガティブなことが必ずあるでしょう。

 ときには、影、こうしたネガティブな部分から目をそむけがちです。あるいは、こうした面を無理やり取り除こうとしがちです。というのも、人は自らの暗い側面、ネガティブな性質を見つめることをできるだけ避けたいからです。

(中略)

 自らの影とともに生きることを辛抱強く学ばねばなりません。そして内に宿る暗闇を注意深く観察しなければなりません。ときには、暗いトンネルで、自らの暗い面と対決しなければならない。

【受賞スピーチ全文】村上春樹さん「影と生きる」アンデルセン文学賞

 この発言を含めて考えれば、村上の「効率」発言は、効率を追い求めた文明を否定するものではなく、「行き過ぎた効率」という文明の影の部分を指摘したものだと言える。

 そして「文明の子」もまた、文明の影をこれでもかと描きつつ、どこかにあるかもしれない光を求めて綴られた作品だ。

 二人の小説家が向いている方向は、それほど違わないのではないだろうか。


 太田光といえば、新刊が出るたびに村上春樹の批判をしていることでも有名だ。

 しかし同時に「なぜ村上春樹が人気なのかわからなくて悩んでいる」という発言もしているようだ(ただしソースは書き起こしサイト)。

 そもそも彼が批判をする理由は、一貫して「自分が読んでつまらないから」であり、おそらくそこにはメディア向けのポーズのようなものは含まれていないのだろう。要するに、「売れているから批判している」のではない。

 そんな彼が、村上春樹の発言に対して、一つの小説という形でアンサーを返したあたりに、彼の誠実さ、真面目さが表れている。


 そう、この小説は徹頭徹尾真面目なのである。

 しかし「真面目に不真面目」を地で行くような太田光の芸風とはあまりにギャップが大きく、だからこそ話題性があまりついてこないのではないだろうか。

 読んだ人に突然モデルガンをぶっ放すような、そんなメチャクチャな小説を彼が真面目に書いたとしたら、芥川賞や直木賞もそう遠くないのではないか。そんな風に思ったのだった。だったのだった。