rhの読書録

とあるブログ書きの読書記録。

みみずくは黄昏に飛びたつ / 川上未映子 村上春樹

 訊き手、川上未映子、語り手、村上春樹。小説家同士のインタビュー本。

 『職業としての小説家』などでも語られていた創作論が中心的内容。様々な媒体で語られてきたことの繰り返しも多いが、同じ実作者ならではの質問によってそこに新たな輪郭が与えられているような印象もある。

 自分が以前『職業~』を読んだときは、正直、雲の上の人が自分のいる現世とは関係ない話をしているな、という感覚がやや強かった。

 しかし数年越しに本書を読むと、結構実際的な話もしているな、と感じられる。

 読者との「信用取引」、すなわち信頼関係を築くこと。そのためにとにかく時間をかけて文章を磨くこと。

 読者を「眠らせない」ためにハッとするような一文を置く。

 あらかじめ頭の中で組み立てた話をそのまま小説にするのでは、作為性が読者にも伝わってしらけてしまうので、アドリブが重要。そのためには、必要な時に必要な記憶をすぐに取り出せる作家的資質が必要。など。

 もちろん、それができれば苦労はしない、と言いたくなるような理想の話ではあるが、それをあくまで実際的に続けてきたのが村上春樹の作家業。それはもう、言葉の重みが違う。



 村上作品のジェンダー的な問題にも切り込んでいるのは意外だった。そこ、聞いていいんだ、と。

 確かに現代的の視点から過去の作品を読むと、作中の女性の扱いに違和感がなくはない。というかぶっちゃけ違和感バリバリ。

 「そんな女性はおらんやろ」「ファンタジー見すぎちゃうん?」などと脳内の誰かがツッコむ。そしてそれに返す言葉がない。

 女性や性に幻想的立ち位置を持たせていること。それが自分が、リアルで村上春樹読者だと声を大にして言いたくない最たる理由。

 性を取り扱う小説上の理由というか、効果みたいなものは理解してはいるのだけれど、それで全部を受け入れられる人の方が少ないんじゃないかと思う。

 特にノルウェイの森のそれは常軌を逸している。当時あの作品で女性読者が爆増したらしいが、今の感覚ではありえない。映画があまり話題にならなかったのも、ワンチャンそのせいじゃないかとさえ思える。

 見方を変えれば、そういう物語を「読ませる」ことができてしまう村上春樹の筆力の高さが逆説的に証明されているとも言える。

 ついでに言うと革新的な部分についての質問に「昔書いた小説は読み返さないので覚えていない」で返すのもズルいっちゃあズルい。それが偽らざる本音なのだろうし、小説家は書いた作品全部に責任を持て、と言いたいわけでもない。ただなんかスカしてるよなぁとは思ってしまう。

 だから作品としてダメだとか、悪いだとかは、全く思わない。村上作品は、広い意味で読んだ人の生きる力になるものだし、そういう小説は望ましいだと考える。

 ただ本質的にはもっとみんなが隠れてこっそり読むような小説であって、ノーベル賞がどうこう言われているような現状こそが例外的な状況であり、今後はどんどん若者がこっそり読む小説の代名詞になっていくんじゃないか。そんな気がする。仮にそうなっても作者本人もそんなに嫌がらないんじゃないか、とも。



 その意味ではこのインタビュー本もちょっと妖しい本だと言えるかも知れない。物語の呪術的側面についての密談。その秘儀を知りたければ読む価値はある。

 宗教やオカルトと小説はどう違うのか。というと、かなり違う。

 宗教のように人を取り囲んだりしない。オカルトと違い、小説は完全にフィクションであることが前提となっている。基本的には。



 「悪」についての話題がいくたびか登場する。

 小説の中の悪。小説はどのように悪と退治することが可能であるのか。

 本書出版当時と現在では、またちょっと悪の形も変わってきているように感じられる。

 統計的な犯罪の数は減少しているのだろう。多分。

 しかしそのぶん、社会の「正常性バイアス」が強まっているような気がする。

 かつては見過ごされることがあり得なかったハズのことが、なんとなく「なあなあ」でスルーされているような。

 まぁこうやって感覚だけでものを言うのは「物語の力」とは正反対だと思われるので程々にしておこう。



 そもそも自分がこの本をリアルタイムで手に取らなかった理由は、本書で中心的に取り扱われている『騎士団長殺し』を読みはしたものの、あまりピンと来なかったのが大きい。

rhbiyori.hatenablog.jp

 本書を読んでもそのピンとこなさはあまり変わらなかった。どうもあの小説は自己言及性が強すぎるような気がする。

 率直に言うと、村上作品の中で自分の肌感覚にしっくり来るのは、ねじまき鳥クロニクル以前、本書で言うところの一人称が「僕」だった作品だけで、それ以降のものは自分とは一段遠いところにあるな、と感じている。例外的にグッと来たのは短編集の「女のいない男たち」くらいだろうか。

 その辺の理由らしきものを川上氏が第四章285ページ(単行本)で語ってくれていて、「なんかワカルー」と勝手に納得した。

 どうも自分自身がまだ「僕」よりも先にまだ行っていないせいで、その先についていけないのかもしれない、などと思う。村上作品に限らず、他のマンガなどを見たときも時々同じようなことを感じる。