チャンドラーの「マーロウもの」の長編を発表順に全部読もうと決め、『大いなる眠り』を先日読み、次の『さよなら、愛しい人』は既読だったので、その次の『高い窓』を読んだ。
これまで読んだチャンドラーの作品と比べると「手堅いな」という印象があった。一筋縄でいかない依頼者や悪人、その他の人々を相手に、孤独な私立探偵としての矜持を胸に、ひとり戦っていく。そのような小説の型を、チャンドラーは自らの便利な道具として自在に使いこなしている。そんな印象を受ける。
登場するモチーフには一作目の『大いなる眠り』と似た部分がある。失踪した配偶者の追跡。富豪の依頼者。殺される半人前の若い男。心に問題を抱える女性。裏社会のフィクサー。マーロウを警戒する刑事。
しかし作家としての蓄積のおかげか、ストーリーはより洗練され、キャラクターは深みを増している。訳者あとがきで指摘されるような細かい問題点はあるにせよ。
発表済みの複数の短編を繋ぎ合わせて長編小説に書き直すという手法が本作でも用いられたそうで、ストーリーがあっちに行ったりこっちに来たりしている印象はあるものの、「失われたコインの行方」という謎が物語をひとつに縫合しているおかげで、とっ散らかった印象は抑えられている。
と同時に、「よくできた探偵小説」であること対する批判的な目線も本作には含まれていて、それはマーロウが「小説に出てくる探偵」のように謎解きしようとすることを指摘するセリフなどにあらわれている。現代で言うところの「ジャンル小説」にとどまることなく、より普遍的な小説を目指したチャンドラーの志向がうかがえる。
そしてチャンドラー作品の肝ともいえる、グッと来る名文句も存分に楽しめる。思わず引用したくなる。
私は言った。「君たちが自ら誠意を持たない限り、私の誠意を手に入れることはできない。あらゆる場合、どのような状況であれ、いかなる事情があろうと君たちは信頼できるし、君たちはとことん真実を追求し、それを見出し、いささかも事実を粉飾したりしないと思える日が来るまで、私は自らの良心の声に従うしかない。そして全力を尽くして依頼人を守る。君たちが真実をどこまでも尊重し、またそれに劣らず私の依頼人を尊重してくれると確信できる日が来るまでは。あるいは私が、真実を口にしないわけにはいかない誰かさんの前に引き出されるその日が来るまではね」
網戸を開け、ポーチに出た。そこには夜が広がっていた。柔らかく静かな夜で、白い月光は冷ややかに澄み切っていた。人が夢見つつも手にすることのない正義のように。
第一作では騎士道的な幻想に身を委ねる場面もあったマーロウだが、本作ではよりリアリスティックというか、「スレた」立ち振舞いをするようになっている。他者との距離感について、より自制的になっている、というか。
それはマーロウが大人になったことを意味するのか。でも孤独な一匹狼を気取っていること自体が、ある種の幼児性ともとらえられるわけで。というのはあまり実りのない議論だろうか。
いつも誰かを救えるとは限らず、行いの結果だけを見ればむしろ徒労に終わることも多いものの、そのタフさによって最後には隠された真実を明らかにしてしまう。それがマーロウの探偵としてのスタイル。
本作は特に「徒労感」が強く、事件の後始末に終止しているような印象すらある。事件現場を保存するどころか、積極的に証拠の改ざんさえする。正義の探偵を求めている読者にとって、彼の行動は受け入れがたいものかもしれない。
マーロウがやっていることは、間違いを正すことではない。それは法と警察の仕事だ。私立探偵の領分は、法と警察が届かない範囲においてなされる悪を、少しでも「マシなもの」にすることにある。個人の手が届く範囲で、少しでも秩序を回復すること。
法で裁けぬ悪を裁く。それができればさぞかしスカッとするだろう。でももちろん現実ではまずそんなことはできない。大体、人が「スカッとすること」を求めて行動し始めたら、もはや単なる欲求の満足であって、善でもなんでもないんじゃないか?
たとえば本作のように、被害者がどうしようもないチンピラである場合。あるいは被害者が、自分が被害者だと気づいていない場合。あまつさえ、自分が作り上げた物語に逃避して、事実から目を背けようとしているとき。もはや、真実を明らかにしてめでたしめでたしなんてことにはなり得ない。
マーロウがしたことが正しかったのか、それは誰にもわからないし、誰にも決められないことだろう。少なくとも彼は生き延びた。探偵としても、人間としても。それをタフさと呼ぶか、それともしぶとさと呼ぶかは人によるだろうけれども。
次の長編は『湖中の女』。その次が『リトル・シスター』。さらに次の『ロング・グッドバイ』は既読だけれど、かなり昔に読んだので再読しようかなと思っている。
