ポール・オースターの、「ニューヨーク三部作」と呼ばれる初期作品の2作目。柴田元幸訳。
舞台はニューヨーク。主人公の探偵「ブルー」は、「ホワイト」という人物から、ある男の尾行を依頼される。男の名は「ブラック」。
探偵小説の形式を用いているが、探偵小説のような展開にはならない。謎が解かれたりしないし、ハードボイルドな主人公がタフに立ち回ったりもしない。美女とのロマンスもない。
主要な登場人物の名前が色の名で統一されている。そのような非現実性が、説明無しに作中に差し挟まれる。
そういった前衛的な作品に親しみのない読者は、特に本作の登場人物の行動原理に不可解さを覚えるかもしれない。
そのような不可解さは、なにかの象徴というか、隠喩というか、いわば夢の中にいるようなものと思って、虚心に読むのがいいのではないかと思う。
ブルーはブラックを監視し続ける。しかし何の事件も起こらない。
退屈になったブルーは、自己の思考に沈潜し、記憶をなぞるようになる。元師匠のブラウンに手紙を送るも、望ましい返事を得られず落胆したりもする。
やがてブルーは己とブラックに奇妙な同一感を覚えるようになる。見張っていなくても、ブラックの行動が手に取るようにわかる。監視を放棄して野球を観戦したり、映画を観たり、酒場で酒を飲み女を抱いたりもする。
ある日ブルーは、街中で偶然、恋人のミセス・ブルーに出遭う。彼女の隣には親密そうな男。長らく連絡をよこさなかったブルーに憤りと失望を抱いていたのか、彼女はブルーを罵り、去ってしまう。
それからブルーは次第にホワイトとブラックに対して疑いの目を向け、様々なアプローチをとるようになる。私書箱へ報告書を受け取りに来たホワイトを待ち伏せする。変装術を使い、ブラックと会話する。
会話の中で、ブラックは、ブルーの行動のみならず、その心中に至るまで、全てを知っていた、ということがほのめかされる。
そして最後にブルーは、ある核心的なものと対決することになる。
様々なモチーフが登場し、それがブルーを中心としたメインストーリーと、関わりがあるような無いような、そんなような調子で進んでいく。
アメリカ独自の詩を創った詩人ウォルト・ホイットマンと、奴隷解放を訴えたヘンリー・ウォード・ビーチャーの名が何度か繰り返し登場する。
作中でブラックとブルーが読む本『ウォールデン』。
アメリカの作家ヘンリー・デイヴィッド・ソローが、2年間自然の中で自給自足の生活を送った日々を綴った本である。Wikipedia情報。
青空文庫でも読めるが、作中でも言及されている通り大変読みにくい本らしいので、自分は読んでいない。
社会を離れ自然と向き合うことで、新たな価値観を見出す、というような本らしい。
ブルーが2度鑑賞した映画「過去からの脱出」。過去を捨て、平凡な日々を得ようとした男が滅びゆくストーリー。
その前年にブルーが観た映画「素晴らしき哉、人生!」は、その正反対に、平凡な男がありふれた人生から逃げ出そうとするものの、結局自分の人生の素晴らしさに気づく話。
ブルーが回想するブルックリン橋の主任技師、ワシントン・ローブリングのエピソード。
父から主任技師の仕事を受け継ぎ、潜水病による身体の不自由を抱えながら、ブルックリン橋の全てを記憶し、自宅から設計の指示をし続けた。
そのすぐ後に回想するエピソードは、あるスキーヤーが、数十年前にフランスのアルプスで遭難して亡くなった、若い頃の父親の遺体と遭遇する、というブルーが雑誌で読んだ話。
どちらも親子関係が共通点となっている。
老人に扮したブルーに、ブラックは、3つのエピソードを話す。ウォルト・ホイットマンの脳が研究のための検体になったが、ミスによって破壊されてしまった話。『ウォールデン』を著したソローがホイットマンの家に訪ねたとき、部屋の真ん中に「おまる」一杯の排泄物が置いてあった話。
そして作家ホーソーンによる小説『ウェイクフィールド』。ほんのいたずらで家を出たある夫が、なぜか家に帰る気になれず、そのまま20年間、自分がいなくなった家と妻を観察し続け、そして家に帰る、という筋書き。
一見すると関連性がないように見えるがどれも「自分とはなにか」という問題に通じているようだ。
冒頭、ホワイトは変装してブルーの前に現れる。ブルーも変装を得意としている。
ブラックの部屋に忍び込んだブルーは「自分の中のあらゆるものが闇と化す」のを感じる。
ストーリーが進むほど、ブルー、ホワイト、ブラックの存在が近しいものに見えてくる。
最後にブルーはあるものに打ち勝つのだが、そこに勝利のカタルシスはなく、成長の喜びもない。
読んでいて感じたのは、向き合わなければならない過去との決別と、その苦さのようなものだった。
そして入れ子構造的メタフィクション展開を示唆しつつ、作品は終わる。
これらの要素を鑑みると、本作は、作者自身による小説を通した自省であり、小説論の確立である、と、自分には読める。
自分という引き出しの中にあるものを取り出し、その詳細を確かめ、その触り心地や使い勝手を検討している。そんな印象を受ける。
そして小説を通して、自己自身の深い部分と向き合う。いわば瞑想的な小説。
そういう読み方はやや陳腐かもしれないが、ある種の小説家は、初期にこういったタイプの小説を著し、その後の作品でどんどん作品世界を広げていく、というプロセスを経ているように見受けられる。
本作には、一つの大きな嘘、というか不可解な描写がある。
冒頭で「時代は現代」と書かれているのだが、その直後に「一九四七年二月三日のことである」という文が出てくる。
本作は1980年以降に書かれた小説なので、明らかに矛盾している。
幽霊たち、というタイトルの文言は、作中でやや唐突に出てくる。
これが直前に言及されるニューヨークにゆかりのある偉人たちのことを指しているのか、それともその中にいるチャールズ・ディケンズの、有名な小説「クリスマス・キャロル」に出てくる幽霊のことを指しているのか、自分には読み取れなかった。
そのすぐ後、ホーソーンが十二年間家に自室にこもって小説を書き続けたことについて、ブラックが言及する。
書くというのは孤独な作業だ。それは生活をおおいつくしてしまう。ある意味で、作家には自分の人生がないとも言える。そこにいるときでも、本当はそこにいないんだ。
ブルーは「また幽霊ですね。」と返す。
つまり本書は、アメリカの様々な作家たち=幽霊たちについての小説なのだ。おそらく。