ブローティガンの『アメリカの鱒釣り』を手に取ったときのことはなんとなく覚えている。10年くらい前だろうか。ブックオフでページを開いて、「なんだかわからないけどスゴく読みたい」と感じて買った。そんな風に本を買うのは稀だったので印象が残っている。
ただ、最後まで読み通したかどうかが思い出せない。読書記録サイトに登録してないし、感想記事も書いてないので、もしかすると読了しなかったのかもしれない。ちゃんと印象に残っているのは序盤の章。フランクリンの銅像。白い階段のクリーク。クールエイド中毒者。
本を読むときよりも、本に出会ったときの印象が強い。そんな読書経験があってもいいんじゃないか。というのはちゃんと読めていないことに対する言い訳だろうか。
そんな自分の経験に加えて、村上春樹・柴田元幸のタッグが「藤本和子訳ブローティガン」の衝撃と影響をたびたび公言していることを頼りに、本書『リチャード・ブローティガン』を読んだ。
ブローティガンの生涯と作品を、多くの作品を訳した訳者として、あるいは知人として、関係者の対話を交えつつなぞっていく。そういう本になっている。
その困難な生涯に対してどんな言葉を用いるべきだろう。心からの安心を得られない子ども時代を送ることがその後にどんな影響を及ぼすのだろう。
おそらくそのような地点からブローティガンの作品は生まれている。安全な場所からの言葉では言い表せないような世界から。
友人の編集者から『アメリカの鱒釣り』の翻訳を依頼された著者の藤本氏は、住んでいたサンフランシスコの日本食堂でたまたまブローティガンと出会い、そこから交流が始まる。なんという偶然。
当時の彼はビート・ジェネレーションの作家として、町中で声をかけられまくるほど有名。しかしビート世代が過去のものになるにつれ、彼の作品もアメリカでは忘れられていったという。そして1984年、拳銃で自ら命を絶った。
というような説明は、こと彼の生涯と作品を語るうえでは適切でないように感じる。「〇〇だから✕✕になった」というような原因と結果の物語を極力排して、鮮烈な印象をそのまま真空パックしたような『アメリカの鱒釣り』を読んだ後だと。
鱒釣り作家ブローティガンの反逆は、伝統的な小説や詩の作法から身をふりほどくことだった。物語をつくっては壊す、壊してはつくるという永久運動のようなリズムが、かれの作品にはある。知性のプロセスを見せるのではなく、想像のプロセスをしめす。連続の正当性をうたがい、心地よい結末を拒んで、視覚的なイメージで瞬間を凍結させてみせる。[藤本和子『リチャード・ブローティガン』、以下同]
その自由さ、因果からの解放感が、読むものに新しく独特なものを感じさせる。でも因果から自由であるということは、その人にとって世界はバラバラだということで、そのバラバラさは、絡みつく現実、そして過去を振りほどこうという必死の身振りだったのではないかと、本書を読んで感じた。
そんな彼の生涯と作品を見つめる著者の態度は、愛情とも優しさとも違う、どこまでも透き通るような丁寧さと誠実さがみなぎっている。この世界にかつていた作家を、この世界に遺し続けようという強い意志につらぬかれている。
レトリックが素晴らしい。特定の文章表現を指してレトリック=修辞と呼ぶのはなぜなのか、と以前から疑問を抱いているのだけれど、それはそれとして、著者の書く文章を読むと「レトリック」という言葉が自然に頭に浮かぶ。あるできごとを、普通でない言葉で表現すること。あまり関係ない、あるいは全く関係ないものごとに置き換えて表現すること。それがスゴい。全部を引用したくなる。
落ち着きをうしなわせる文章はすぐれた文章である。同情という安直な反応をはねつけられ、孤独な状況を普遍化してしまいたいという誘惑を禁じられて、読者は動揺する。そのような瞬間から逃れることを難しさをとおして、わたしたちもわずかに成長をとげる。
『芝生の復讐』はこのように、記憶を追って過去を回収することと、おだやかでない風景を自然の摂理にあったことのように現出させることに成功した作品だった。記憶や風景からの返答として、いくつもの物語が闇のなかの青い炎のように光り、ちらりと見えた漆黒のマントの真紅の裏地のようにどきりとさせ、廃屋の床に転がった人形のように動揺をあたえた。
ブローティガンの娘のアイアンシとの対話が多く描かれる。著者の文体によって再現される対話から、彼がこの世に遺したものの実在を感じ取ることができる。それを「希望」と呼ぶのは過度な物語化になるだろう。だからただ実在を示している。そんな手触りがある。
「これまでいたところへ 行くだけなのだから」と書き遺したブローティガン。はたして彼はどこへ行ったのか? その疑問から始まった本書は、ブローティガンの生前最後に出版された『ハンバーガー殺人事件(『風に吹きはらわれてしまわないように』に改題の上、改訳されてちくま文庫で刊行された)に至り、そこにあったかもしれないできごとを発見する。永遠に可能性でありつづけるできごとを。
おそらく誰もが、そこから逃れたいような、でもなぜかいつもそこに戻ってしまうような、そんな性質を帯びた記憶を持っている。語りたくなるけれど、それそのものについて語ることは決してできないような記憶を。
すぐれた作家のすぐれた作品は、語ることができないことを語るという奇跡を起こす。いや、もちろん語ることができないことそのものを語ることはできない。じゃあ嘘なのか? でもその作品に触れる瞬間にだけは、嘘が本当になる。語れないはずのことが語られる。論理的な厳密さを適用するなら、それは結局は嘘なのかもしれない。でも少なくともその作品に触れたことで自分の中に生まれた記憶だけは間違いなく本物になるような、そんな作品がある。そしてある場合には、心の真実こそが真実になる。何を言っているのかわからないかもしれないけれど、書いている自分もよくわかっていないので安心して欲しい。
著者の読解によると『ハンバーガー殺人事件』はそのような作品なのかもしれない。いずれ読みたいと思った。


